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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第1章 霧の序章

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第004話 測る者

挿絵(By みてみん)


北へ向かった道は、思ったよりも険しくなかった。

 霧の壁を背にして歩くと、いつの間にか尾根に出た。右を見れば、こよいが知っている霧原町(きりはらちょう)輪郭(りんかく)が、遠くにぼんやりと見える。

 帰れるかもしれない。

 東へ迂回(うかい)すれば、峠道がある。子どもの頃、父に連れられて一度だけ歩いた道だ。あの道なら、町の東端に出られる。


 巾着(きんちゃく)の中で、二つの気配が小さく揺れた。


 「……かえる?」


 (ほこら)の神の声。


 「……うん。でも、遠回りする」


 「……あの、きり、おかしい」


 空き地の神の声が続いた。


 「……ふつうの、きり、じゃない」


 こよいは振り返った。

 南の方角に、白い壁がまだ見える。動いていない。追いかけてくるわけでもない。ただ、そこにある。


 「……わかってる」


 東の峠道は、予想通りそこにあった。

 かつての街道だったらしい。道幅があり、砂利が敷かれ、歩きやすい。けれど、人の気配はない。草が道を侵食し始めている。

 下り坂を降りていくと、町の屋根が近づいてきた。

 見慣れた風景だ。瓦屋根が並び、煙突から薄い煙が立ち上る。夕方の町。いつもの町。

 なのに、何かがおかしい。


 町の東端から入ったとき、最初に気づいたのは、静けさだった。

 この時間なら、子どもたちが遊んでいるはずだ。井戸端で主婦たちが話をしているはずだ。犬が吠え、鶏が鳴き、生活の音で満ちているはずだ。

 それが、ない。

 人はいる。けれど、誰も喋っていない。家の中に引っ込んでいる。通りを歩く者は、足早に過ぎていく。目を合わせない。


 商店通りに入ったとき、こよいは立ち止まった。

 見知らぬ人たちがいた。

 三人。いや、四人か。灰色の作業着を着て、鍔付き帽子を深く被っている。

 彼らは、何かを「測って」いた。


 三脚を立て、その上に真鍮(しんちゅう)製の箱を載せている。箱の前面には黒いガラスのレンズがあり、上部には細い針がついている。針が、かすかに振れている。

 一人が箱を覗き込み、一人が帳面に何かを書き込む。

 カチ、カチ、と小さな音がする。


 「……あれ」


 巾着(きんちゃく)の中から、(ほこら)の神の声が震えた。


 「……だめ、みつかる」


 空き地の神も、小さく呻いた。


 「……はかる、やつ」


 こよいは、ゆっくりと後ずさろうとした。

 遅かった。

 帳面を持っていた男が、顔を上げた。

 目が合った。


 その目には、感情がなかった。

 冷たいとか、怖いとか、そういうのとも違う。ただ、何も映っていない。ガラス玉のような目。まばたきをしない。

 男は、こよいを見た。

 それから、ゆっくりと帳面に何かを書き込んだ。

 ペン先が紙を引っ掻く音が、妙に大きく聞こえた。


 「……にげて」


 巾着(きんちゃく)が震えた。

 その瞬間、こよいは走り出していた。


 路地裏(ろじうら)に飛び込んだ。

 狭い。壁と壁の間が、腕を広げたら届きそうなくらい。土壁の匂いがする。足元は湿った土で、走るたびに跳ねる。

 後ろから、足音がした。

 追ってきている。でも、走っている音じゃない。歩いている音だ。カツ、カツ、と規則正しく、機械みたいに均一な足音。


 曲がり角を左に折れた。

 古い井戸が見えた。ここは知っている。子どもの頃、かくれんぼで使った場所だ。

 井戸の裏に回り、積まれた薪の陰に身を潜めた。

 息が荒い。心臓がうるさい。巾着(きんちゃく)が腰で揺れ、中の神々が怯えているのが伝わってくる。


 足音が近づいてきた。

 カツ、カツ、カツ。

 止まった。

 井戸の広場だ。すぐそこに、誰かがいる。


 「……見失った」


 声がした。低く、抑揚のない声。


 「探せ。まだ近くにいる」


 別の声。同じように平坦で、感情がない。


 「巾着を持っていた。揺らぎの発生源だ」


 「測定は?」


 「途中だ。動いたせいで数値が乱れた」


 こよいは、息を殺した。

 汗が額を伝う。心臓の音が、彼らに聞こえてしまいそうだ。


 「……戻れ。別の方法を取る」


 足音が遠ざかっていく。

 カツ、カツ、カツ。

 やがて、聞こえなくなった。


 それでも、こよいは動けなかった。

 薪の陰で、膝を抱えたまま、長い時間が過ぎた。

 日が傾き、影が長くなるまで。


 家に帰ったのは、夕日が屋根に沈みかけた頃だった。

 裏口から入ると、台所に母がいた。

 背を向けている。いつもなら、こよいの足音に気づいて振り返るはずだ。けれど、今日は振り返らない。


 「……かあさん」


 「……知ってる」


 母の声は、低かった。


 「今朝から、あの人たちがいる。町中を測って回ってる」


 「……あれ、なに」


 「知らない。でも、来る前から、空気が変だった」


 母は、振り返った。

 その手に、古い革製の背負い(かばん)があった。使い込まれた茶色の革。父が使っていたものだ。


 「これを」


 母は、(かばん)を差し出した。


 「着替えと、干し餅(ほしもち)と、水。お金も少し入れた」


 「……かあさん」


 「今日中に出なさい」


 声が震えていた。けれど、目は真っ直ぐにこよいを見ている。


 「どこへ行けばいいか、分からない。でも、ここにいちゃいけない」


 「……どうして」


 「聞かないで」


 母は、背を向けた。

 肩が小さく震えている。


 こよいは、(かばん)を受け取った。

 ずしりと重い。革の匂いがする。父の匂いだ。


 「……いってくる」


 声が、かすれた。


 「……気をつけて」


 母の声も、かすれていた。

 それ以上、何も言えなかった。


 部屋に戻り、巾着(きんちゃく)を腰に結び直した。

 (かばん)を背負う。肩紐が食い込む。

 窓の外を見ると、商店通りの方角に、小さな光が点滅していた。

 あの三脚についていた機械が、何かを測っているのだ。


 「……いかないと」


 (ほこら)の神の声。


 「……あれに、みつかると、だめ」


 「……どうなるの」


 「……しらない。でも、だめ」


 こよいは、深く息を吸った。

 家を出る。母を置いていく。町を離れる。

 そう決めた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて閉じた。


 玄関を開けようとしたとき、外から声が聞こえた。

 低く、感情のない声。


 「対象を見失うな」


 「この区画を再測定する」


 「揺らぎが収束すれば、位置が特定できる」


 こよいは、玄関から手を離した。

 裏口だ。裏口から出て、畑の方へ抜ける。

 足音を立てないように、ゆっくりと歩く。

 心臓が、喉元まで上がってきているような感覚。


 背後で、玄関を叩く音がした。

 コン、コン、コン。

 機械的で、均一な音。


 こよいは、走り出した。

 振り返らなかった。

 振り返れば、何かが終わってしまう気がした。


 夜の闇の中へ、こよいは駆け出した。

 背中に、母の用意した(かばん)。腰に、神々の入った巾着(きんちゃく)


 「対象を見失うな」


 その声が、耳の奥でいつまでも響いていた。

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