第387話 熱い風
砂灯の消えた道を歩き続けた先で、おたまが突然、何もない砂へ耳を伏せた。
遠くから汽笛が届く。砂の上に二本の線が滲み、枕木とレールへ固まった。続いて霧が車体の輪郭を結ぶ。霧列車は駅に待つものではない。乗るべき者が道を失ったとき、線路ごと旅人の前へ現れる——これまでにも見た、列車の理だった。
開いた扉へおたまが真っ先に跳び乗り、三人も続いた。北へ戻る道ではない。南の入口より先へ運ぶための、別の線路だった。扉が閉じ、列車が砂の上を走り出す。
窓を閉めていたのに、熱い風が入ってきた。
冷たくない。霧列車の中を吹き抜ける南からの気流は、こよいの知っている情報の風とはまるで違っていた。熱い。砂を焼いた後の、じわりと肌を押す温度がある。座席の木の表面が乾き、木目の隙間から微かに白い粉が浮いた。列車の壁板が熱を吸い、車内の温度が一段上がった。
こよいは巾着を片手で押さえた。布越しに、神々の鼓動が速まっている。いつもの穏やかな脈動ではない。硬く、鋭い拍動だった。
「熱風だな。ただし地熱じゃない」
久遠が目録を膝の上に伏せたまま、義眼を細めた。蒼光が熱風の方角を探るように、車内の空気を舐めていく。光が風の筋を照らし出し、窓枠の隙間から斜めに入り込む気流の道が見えた。
「名前の焦げた匂いだ。漂白じゃなく、焼却で消された名がある」
こよいは息を止めた。風の中に、確かに匂いがある。炭とも紙が燃えた後とも違う、もっと深い場所から来る匂い。木の根が地中で蒸されたような、じわりとした苦さが鼻腔の奥に残った。
漂白は知っていた。名が白く塗り潰されて、あったことごと消される。けれど焼くというのは初めて聞く。
「焼くって、燃やしたってこと?」
「そのとおりだ。座標ごと消し飛ばす。漂白より速く、漂白より深い。根も残さない」
久遠の声は低く、硬かった。目録を開いて頁を探ったが、該当する記録に触れても文字が浮かばない。指先が頁の表面を何度も撫でたが、紙はどこまでも白く、何も応えなかった。
「目録にも残っていない。焼かれた名は、記録ごと灰になる」
窓の外の砂の地平線が霞んでいる。白い霞ではなく、陽炎のような揺らぎが立ち昇っていた。地面の下にまだ熱が残っている。名を焼いた跡の熱が、何年も、何十年も冷めずに燻り続けている。砂の表面が赤銅色に染まり、その色が陽炎に持ち上げられて空へ溶けていく。
「怖いな」
あさひが窓枠に肘を置いたまま、低く言った。視線は窓の外の赤い砂に向けられていた。大剣の柄に手は添えていない。斬れる敵がいないことを、身体が先に分かっている。
「漂白は静かに消す。焼却は力ずくで消す。どっちも最悪だが、焼かれた方は怒りが残る」
巾着が熱くなった。
こよいは驚いて布の口を緩めた。中の神々が強く脈打っている。穏やかな温もりではない。熱い。神々自身が焦げた名の痛みに呼応するように、小さな光が明滅を繰り返していた。布の隙間から金色の光が漏れ、こよいの指を照らした。
「……この子たち、怒ってるんじゃない。泣いてるんだ」
こよいは巾着を胸に抱き寄せた。熱が布越しに鎖骨まで伝わる。名前たちの脈動が不規則に乱れ、一柱ずつ違うリズムで震えていた。怒りなら揃うはずだ。揃わない震えは、悲しみだった。
久遠が目録の白い頁を指で撫でた。文字のない頁。焼かれた名があったはずの場所。紙の表面が微かに荒れていた。文字が消えた後の、繊維の乱れだけが残っている。
「ここに七つ、名があった。全部焼かれている。根の痕跡すら炭になっている」
「七つも」
「まとめて焼いたんだろう。一つずつ漂白するより、観測者には都合がいい。——俺たちが追っている水脈の七柱とは、別の名だ」
あさひが座席から立ち上がり、窓に近づいた。硝子が熱い。手のひらを当てた瞬間、砂の下から何かが押し上げてくるような圧を感じた。硝子越しに赤銅色の砂が揺らぎ、あさひの掌の形に曇りが広がった。
「焼いた後も地面が覚えてやがる。名は消えても、熱だけが残った」
こよいは目を閉じた。巾着の熱が少しずつ落ち着いていく。けれど完全には冷めない。神々の鼓動が、焼かれた七つの名の残響と重なり合って、胸の奥でじんと響いている。掌の中で巾着が小さく揺れるたびに、七つの名の最後の瞬間が波のように押し寄せてくる。
「ぼくに何かできるかな」
小さく言った。声が喉に引っかかった。
「焼かれた名を呼ぶことはできないけど。この熱を覚えておくことならできる」
久遠は目録の白い頁を閉じなかった。白い紙を見つめたまま、義眼の蒼光を落とした。蒼い光がない目で、ただの目で、白い頁を見ている。
「覚えるだけでいい。焼かれた名に必要なのは、復元じゃない。熱を受け取る者がいるという事実だ」
列車が速度を上げた。窓の外の赤銅色が薄れ、砂が元の灰色に戻っていく。陽炎が収まる。熱風が引いていく。車内の温度がゆっくりと下がり、壁板の乾いた匂いが薄れた。
巾着の温度も、ゆっくりと体温に馴染んだ。
座席の下に潜っていたおたまが顔を出した。髭の先が熱で縮れ、小鈴も触れられないほど熱い。それでも猫は窓外の焼け跡から目を逸らさず、七つの名を見送るように尾を床へ七度打った。
けれどこよいの掌には、焼かれた名の熱がまだ残っていた。指を曲げると、骨の奥にじわりとした痛みがある。身体が覚えている。忘れないように、身体が痛みを留めている。
列車が汽笛を鳴らした。次の停車地が近い。
こよいは巾着の口を締め直し、掌を膝の上に置いた。熱い風の記憶を、指の一本一本に刻むように。




