第385話 道標の向き
最初に気づいたのは、あさひだった。
風里を出て半日。砂の道に等間隔で立つ道標を辿りながら歩いていた。砂は足首まで沈み、一歩ごとに靴の中に粒が入り込む。太陽は高く、影が短い。風はあるが、風里のように複雑に交差する風ではなく、南から北へまっすぐに吹き抜ける一本の気流だった。汗が出る前に蒸発する。喉の渇きだけが、歩いた距離を教えてくれた。
三つ目の道標を通り過ぎたとき、あさひが足を止めた。
「おかしい」
大剣の柄を握ったまま、背後を振り返っている。砂埃が風に流され、あさひの髪の先を掠めていった。
「さっきの道標、矢印が左を向いてた。今のは右だ」
こよいも振り返った。三つ目の道標はまだ見える。砂に半分埋もれた木の柱の先端に、矢印の板が打ちつけてある。確かに、右を指していた。板の木目が乾いて白くなり、釘の周囲だけが錆の色に染まっている。
「方角が違う?」
「道標は動いてない」
久遠が義眼を二つ目の道標に向けた。蒼光が砂の上を這い、柱の根元を照らし出す。光が砂粒に反射して、柱の周囲に蒼い輪が描かれた。
「柱は固定されている。木の繊維に捻れの跡もない。矢印の向きは変わっていない」
「じゃあ何がずれてるんだ」
久遠が目録を開いた。頁の端に座標の数値を書き込み、二つ目と三つ目の差を見比べる。指先が頁の上を滑り、数字の列を辿っていく。
義眼の蒼光が一瞬、明滅した。計測結果に矛盾が生じたときの反応だった。
「地面だ」
久遠の声が硬くなった。目録を膝の上に広げ直し、両手で頁の端を押さえた。
「道標の下の地面が回転している。柱は動いていない。方位そのものが、この区間で少しずつずれている」
こよいは足元を見た。砂は静かに広がっている。動いているようには見えない。だが道標の根元をよく見ると、柱と地面の間に細い亀裂が走っていた。砂粒が亀裂の縁に沿って微かに弧を描いている。弧の曲がり方は時計回りだった。砂粒が自分で動いているのではなく、砂粒の下の地面が、ゆっくりと回っているのだ。
巾着が微かに揺れた。中の神々が方位の異変を感じ取り、脈動がわずかに乱れている。
「南が動いてる?」
「ああ。道標が同じ方角を指し続けているのに、南という方角そのものがずれている。道標を信じて歩くと、いつの間にか違う場所に着く」
あさひが舌打ちした。布包みの大剣が背中で揺れ、革紐の結び目が乾いた音を立てた。
「だから風里の座標も不安定だったのか」
「風里だけじゃない。砂峰以降、少しずつ方位がずれていた。道標で初めてそれが目に見える形になった」
久遠は目録に座標の数値を並べ、差分を計算した。義眼が数字を読み取る速度が上がり、蒼光が頁の上を忙しなく走っている。
「一つの道標ごとに、約三度。歩くたびに南がずれる」
「どっちに?」
「一定じゃない。回転方向が不規則だ。だから予測ができない」
こよいは四つ目の道標を見た。まだ遠いが、矢印の向きが三つ目とまた違っている。砂の上に細長い影を落とした柱が、陽炎の中で微かに揺らいで見えた。
「道標が嘘をついてるんじゃなくて、地面の方が嘘をついてるんだ」
「嘘じゃない。南の方位では、方角が固定されていないんだ。風が方位を運んでしまうと、最初の道標のところで言ったはずだ」
久遠が目録を閉じた。頁を閉じる音が、砂の上の静寂に小さく響いた。
その間にも、おたまは道標の根元を一つずつ嗅いでいた。四本目まで来ると、猫は矢印とは反対へ歩き出す。こよいが名を呼ぶと振り返ったが、戻ろうとはしない。
「猫まで方角を間違えたのか?」
あさひが眉を寄せる。久遠はしゃがみ、おたまの前脚が残した跡を義眼で追った。足跡は曲がっていない。地面の回転に合わせて、踏み終えた跡の方が後からずれていた。
「違う。こいつは矢印を見ていない。砂の下の根を辿ってる」
こよいが巾着を緩めると、二十五の脈が同じ方角へ温もりを寄せた。おたまの向く先と重なる。目で読める道標より、名も影も持たない猫の鼻の方が、動かない道を知っていた。
「道標の座標を毎回記録する。地面のずれを追跡して、累積した回転量から本来の方角を逆算するしかない」
あさひが歩き出した。砂を蹴る足音が力強い。
「めんどくせえな。だが道標がないよりましだ」
三人は四つ目の道標に向かって歩いた。こよいは歩きながら、さっき通った三つ目を振り返った。
砂の上で、道標の影だけがゆっくりと弧を描いている。柱は動いていない。影だけが、見えない力に引かれて回っていた。太陽の位置は変わっていないのに、影の角度だけがずれていく。地面が回っている証拠だった。
南が動いている。
こよいは巾着を胸に当てた。神々の脈動が、道標の矢印とも地面の回転とも違う方角を指していた。名前たちは方位ではなく、根の記憶で方角を知っている。地面がどれだけ回っても、地下の根は動かない。
おたまが砂を一度掻き、小鈴を鳴らして歩き出す。目指す場所がこちらを待たずに歩き出しても、地下の根へ耳を澄ませる者まで欺くことはできなかった。




