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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第13章 南の方位

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第384話 風里の影

挿絵(By みてみん)


風里(かざさと)には、音から先に着いた。


 集落(しゅうらく)の姿が見える前に、風の質が変わった。それまで一方向にしか吹かなかった砂漠(さばく)の風が、ここでは何本もの筋に分かれて交差している。こよいの髪が右に流れ、次の瞬間には左に引かれた。異なる方角から来た風が、この場所で出会っている。


 「聞こえるか」


 あさひが足を止めた。


 こよいは耳を澄(す)ませた。風の音の中に別の音が混じっている。人の声のような、だが言葉にはなりきらない断片(だんぺん)。途切れた音節(おんせつ)が、風に乗って頬(ほお)をかすめていく。


 「……祈りだ。誰かの祈りが、風の中に残ってる」


 風里(かざさと)の集落(しゅうらく)は谷間に造られていた。両側を低い砂岩(さがん)の崖(がけ)に挟まれた細長い谷で、風がちょうど集まるように地形が開いている。砂岩(さがん)の壁面に蜂(はち)の巣のように穴が穿(うが)たれ、それが住居になっていた。入口に掛けられた薄い布が風に揺れるたびに、中から乾いた音がこぼれ出す。


 人の気配はなかった。だが風が、人の代わりに声を運んでいた。


 あさひが崖(がけ)の壁面を見上げた。砂岩(さがん)の表面に細い溝(みぞ)が無数に刻まれている。人工的な彫り込みだった。溝(みぞ)が風を受け止め、分割し、異なる角度へ送り出している。


 「砂岩(さがん)の壁全体が巨大な風琴(ふうきん)になっている」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で溝(みぞ)の配置を読み取った。


 「風を特定の周波数(しゅうはすう)に分けて循環させる装置だ。南では砂が記録(きろく)を消す。だから風里(かざさと)の住人は風に名前を乗せた。砂に書くのではなく、空気の中に名前を漂わせ続ける」


 こよいは谷の中央に立ち、目を閉じた。


 風が四方から吹きつける。その中に混じる音の断片(だんぺん)を、一つずつ拾おうとした。言葉にはならない。だが感情は伝わる。誰かが名前を呼んでいた記憶(きおく)。祈りの最後の一音。別れ際に飲み込んだ声。


 巾着(きんちゃく)が震えた。名前たちが風の中の声に反応している。脈動が速くなり、布が内側から押し広げられるように膨らんだ。


 「風の中に、名前がいる。たくさん」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の出力を上げた。蒼光(そうこう)が風の流れを照らし出す。光の中に金色の微粒子(びりゅうし)が見えた。砂ではない。名前の欠片(かけら)だった。風に乗って谷の中を循環し、壁の溝(みぞ)を通るたびに音を発している。


 「風そのものを記録(きろく)媒体にしている。石に刻むのとは逆の発想だ。流動させることで、漂白(ひょうはく)の手が掴(つか)めないようにした」


 久遠(くおん)の声に、珍しく感嘆(かんたん)の響きがあった。


 あさひが谷の奥を指さした。


 「影(かげ)が変だ」


 谷の壁面に、三人の影(かげ)が映っている。午後の日差しが斜めに差し込み、砂岩(さがん)の表面に長い影(かげ)を落としていた。


 だが影(かげ)が四つあった。


 三人分の隣に、もう一つ。背丈(せたけ)は久遠(くおん)と同じくらいだが、輪郭(りんかく)がぼやけ、風が吹くたびに揺らいでいる。


 あさひが大剣の柄(つか)に手をかけた。


 「影(かげ)じゃない」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を向けた。


 「座標(ざひょう)の残像(ざんぞう)だ。かつてここに立っていた者の座標(ざひょう)が、壁面の溝(みぞ)に焼きついている。近づくな。こちらの座標(ざひょう)が引きずられる」


 四つ目の影(かげ)が動いた。三人は動いていないのに、影(かげ)だけがゆっくりと谷の奥へ滑り始めた。


 こよいは足元を見た。自分の影(かげ)がまだ自分の足に繋(つな)がっていることを確かめる。つま先の形、膝(ひざ)の角度。間違いなく自分のものだった。


 四つ目の影(かげ)は谷の奥で立ち止まり、壁面に吸い込まれるように消えた。同時に、風の中の声が一つ増えた気がした。影(かげ)が消えた場所の壁に、溝(みぞ)が一本多く刻まれていた。


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じ、息を吐いた。


 「長居すると俺たちの座標(ざひょう)まで書き換えられる」


 「でも、ここの名前は——」


 こよいが巾着(きんちゃく)を握った。風の中の名前の欠片(かけら)が、まだ金色に光りながら循環している。


 「拾えない」


 久遠(くおん)が首を振った。


 「風に乗っている名前は、風を止めない限り取り出せない。だが風を止めれば名前が消える。風里(かざさと)の名前は、この風の中にいる限り生きている。持ち出すことはできない」


 風を止めれば消える。だから持ち出せない。その切なさが、胸の奥に沈んだ。


 「なら記録(きろく)だけ取って、先に進むぞ」


 あさひが崖(がけ)の上を見上げた。


 「影(かげ)がもう一つ増える前にな」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を開き直し、壁面の溝(みぞ)の配置を記録(きろく)した。風里(かざさと)の記録(きろく)保存法そのものを、目録(もくろく)に写し取る作業だった。


 こよいは谷の中央に佇(たたず)み、最後にもう一度、風の声を聞いた。祈りの断片(だんぺん)。名前の残響(ざんきょう)。風に溶けた声は、言葉にならないまま谷の壁を巡り続けている。


 巾着(きんちゃく)の名前たちが、その声に向かって小さく脈打っていた。


 おたまの小鈴も風に鳴った。だが一度鳴るたび、谷の左右から同じ音が遅れて返り、三度目には鈴ではない誰かの声へ変わった。おたまは耳を伏せ、音を追わずにこよいの足へ身体を寄せる。風里(かざさと)では、呼び返す音まで名前の器になっていた。


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に当て、風里(かざさと)の風に一礼した。風が一瞬だけ、頬(ほお)を撫(な)でるように柔らかくなった。


 三人は谷を出た。背後で風琴(ふうきん)が鳴り続けている。振り返らなかった。振り返れば、四つ目の影(かげ)がまた見えるかもしれない。


 前を向いた。砂の上には三人の足跡と、その間を縫う小さな足跡だけが残っている。四つ目の人影は、もう増えなかった。

 風里(かざさと)に置いてきた名前たちの声が、遠ざかる背に、まだ薄く貼りついている。拾えなかった分だけ、足取りは重かった。

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