第384話 風里の影
風里には、音から先に着いた。
集落の姿が見える前に、風の質が変わった。それまで一方向にしか吹かなかった砂漠の風が、ここでは何本もの筋に分かれて交差している。こよいの髪が右に流れ、次の瞬間には左に引かれた。異なる方角から来た風が、この場所で出会っている。
「聞こえるか」
あさひが足を止めた。
こよいは耳を澄ませた。風の音の中に別の音が混じっている。人の声のような、だが言葉にはなりきらない断片。途切れた音節が、風に乗って頬をかすめていく。
「……祈りだ。誰かの祈りが、風の中に残ってる」
風里の集落は谷間に造られていた。両側を低い砂岩の崖に挟まれた細長い谷で、風がちょうど集まるように地形が開いている。砂岩の壁面に蜂の巣のように穴が穿たれ、それが住居になっていた。入口に掛けられた薄い布が風に揺れるたびに、中から乾いた音がこぼれ出す。
人の気配はなかった。だが風が、人の代わりに声を運んでいた。
あさひが崖の壁面を見上げた。砂岩の表面に細い溝が無数に刻まれている。人工的な彫り込みだった。溝が風を受け止め、分割し、異なる角度へ送り出している。
「砂岩の壁全体が巨大な風琴になっている」
久遠が義眼で溝の配置を読み取った。
「風を特定の周波数に分けて循環させる装置だ。南では砂が記録を消す。だから風里の住人は風に名前を乗せた。砂に書くのではなく、空気の中に名前を漂わせ続ける」
こよいは谷の中央に立ち、目を閉じた。
風が四方から吹きつける。その中に混じる音の断片を、一つずつ拾おうとした。言葉にはならない。だが感情は伝わる。誰かが名前を呼んでいた記憶。祈りの最後の一音。別れ際に飲み込んだ声。
巾着が震えた。名前たちが風の中の声に反応している。脈動が速くなり、布が内側から押し広げられるように膨らんだ。
「風の中に、名前がいる。たくさん」
久遠が義眼の出力を上げた。蒼光が風の流れを照らし出す。光の中に金色の微粒子が見えた。砂ではない。名前の欠片だった。風に乗って谷の中を循環し、壁の溝を通るたびに音を発している。
「風そのものを記録媒体にしている。石に刻むのとは逆の発想だ。流動させることで、漂白の手が掴めないようにした」
久遠の声に、珍しく感嘆の響きがあった。
あさひが谷の奥を指さした。
「影が変だ」
谷の壁面に、三人の影が映っている。午後の日差しが斜めに差し込み、砂岩の表面に長い影を落としていた。
だが影が四つあった。
三人分の隣に、もう一つ。背丈は久遠と同じくらいだが、輪郭がぼやけ、風が吹くたびに揺らいでいる。
あさひが大剣の柄に手をかけた。
「影じゃない」
久遠が義眼を向けた。
「座標の残像だ。かつてここに立っていた者の座標が、壁面の溝に焼きついている。近づくな。こちらの座標が引きずられる」
四つ目の影が動いた。三人は動いていないのに、影だけがゆっくりと谷の奥へ滑り始めた。
こよいは足元を見た。自分の影がまだ自分の足に繋がっていることを確かめる。つま先の形、膝の角度。間違いなく自分のものだった。
四つ目の影は谷の奥で立ち止まり、壁面に吸い込まれるように消えた。同時に、風の中の声が一つ増えた気がした。影が消えた場所の壁に、溝が一本多く刻まれていた。
久遠は目録を閉じ、息を吐いた。
「長居すると俺たちの座標まで書き換えられる」
「でも、ここの名前は——」
こよいが巾着を握った。風の中の名前の欠片が、まだ金色に光りながら循環している。
「拾えない」
久遠が首を振った。
「風に乗っている名前は、風を止めない限り取り出せない。だが風を止めれば名前が消える。風里の名前は、この風の中にいる限り生きている。持ち出すことはできない」
風を止めれば消える。だから持ち出せない。その切なさが、胸の奥に沈んだ。
「なら記録だけ取って、先に進むぞ」
あさひが崖の上を見上げた。
「影がもう一つ増える前にな」
久遠は目録を開き直し、壁面の溝の配置を記録した。風里の記録保存法そのものを、目録に写し取る作業だった。
こよいは谷の中央に佇み、最後にもう一度、風の声を聞いた。祈りの断片。名前の残響。風に溶けた声は、言葉にならないまま谷の壁を巡り続けている。
巾着の名前たちが、その声に向かって小さく脈打っていた。
おたまの小鈴も風に鳴った。だが一度鳴るたび、谷の左右から同じ音が遅れて返り、三度目には鈴ではない誰かの声へ変わった。おたまは耳を伏せ、音を追わずにこよいの足へ身体を寄せる。風里では、呼び返す音まで名前の器になっていた。
こよいは巾着を胸に当て、風里の風に一礼した。風が一瞬だけ、頬を撫でるように柔らかくなった。
三人は谷を出た。背後で風琴が鳴り続けている。振り返らなかった。振り返れば、四つ目の影がまた見えるかもしれない。
前を向いた。砂の上には三人の足跡と、その間を縫う小さな足跡だけが残っている。四つ目の人影は、もう増えなかった。
風里に置いてきた名前たちの声が、遠ざかる背に、まだ薄く貼りついている。拾えなかった分だけ、足取りは重かった。




