第381話 砂峰の朝
砂の色が変わったのは、夜が明ける少し前だった。
赤みを帯びていた地面が、淡い金色に染まっていく。東の空が白み始め、砂の粒子が一つひとつ光を含み始める。こよいは歩きながら、その変化を足裏で感じていた。夜の冷気がまだ地面に残っている。
「あれだ」
あさひが足を止めた。
稜線の向こうに、建物の影が見えた。低く、四角い輪郭が幾つも並んでいる。砂峰の集落だった。
近づくにつれ、異様さが際立ってくる。石造りの壁が砂に半ば埋もれ、屋根の端だけが地上に突き出していた。かつては二階建てだったのだろう。今は一階部分がすべて砂の下に沈み、屋根の上を歩いて入口にたどり着くような構造になっている。
「砂に呑まれてる」
こよいが呟いた。
「砂が増えたんじゃない」
久遠が義眼を光らせ、集落を見渡した。
「名前が抜けると、土地の厚みも失われる。ここはかつてもっと高い場所だった。名前が消えるたびに、地面が沈んでいった」
朝の光が集落を照らし始めた。
石壁の表面に、文字の痕跡があった。風雨に晒されて薄れているが、確かに刻まれている。門の柱や壁の角に、同じ書体で繰り返し現れる文字列。こよいはその一つに近づき、指でなぞった。
読めない。だが、文字であることは分かる。
「建物そのものが記録の媒体になっている」
久遠が目録の頁を開き、義眼の蒼光で壁の文字を照らした。
「名前を石に刻むことで、風化には耐えられるようにした。漂白には弱いが、物理的な消滅には強い。ここに暮らしていた者たちが、名前を守るために壁に彫った」
集落の中心に、井戸があった。
石組みの円形の縁が砂の上に突き出している。周囲の建物よりも高い位置にあるのは、井戸だけが沈まなかったからだ。縁石は分厚く、丁寧に積まれていた。一つひとつの石が、手のひらで撫でたように滑らかに磨かれている。
こよいは井戸の縁に手を置いた。
冷たい。砂の熱を吸わず、石だけが別の温度を保っていた。
あさひが覗き込んだ。
「底が見えない」
完全な闇ではなかった。ずっと深いところで、微かに金色のものが光っている。
「水じゃないな」
「名前だ」
久遠が義眼を井戸の底に向けた。蒼光が闇を貫き、底の光を照らし出す。
「名前の根が井戸の底で集まっている。汲み上げるための井戸じゃない。名前を沈めて守るための井戸だ」
こよいは縁石をもう一度見た。石の表面に文字が彫られている。壁の文字よりも深く、丁寧に。風化に抗うように、何度も上から彫り直した跡があった。
一文字ずつ、指でなぞった。
名前だった。短い。二文字。読みは分からないが、形がはっきりしている。石を彫った者の指の力が、そのまま文字に残っていた。
巾着が脈打った。
強く、一度。こよいは思わず胸を押さえた。二十三の脈が、井戸の縁石に刻まれた名前を認識している。
「この名前を、知ってる」
久遠が目録を広げた。頁の上に金色の線が走り始めている。井戸の底から立ち上る名前の根が、目録の紙に浸透しようとしていた。
「星野の井戸と同じだ。地下で根が繋がっている。この井戸も、名前の根脈の一部だ」
あさひは井戸の反対側に立ち、周囲を警戒していた。風の音と、砂が石壁を叩く乾いた音だけが響いている。
「住人はいないのか」
「名前を沈めた後に、去ったんだろう。井戸だけを残して」
久遠が義眼で壁の文字と井戸の文字を交互に読み取り、目録に記録していく。
「ここの名前は、まだ漂白されていない。石が守っている。風化はしているが、消されてはいない」
朝日が高くなるにつれ、砂の温度が上がり始めた。石壁が熱を吸い、集落全体がじわりと温まっていく。
こよいは井戸の縁に座り、巾着を膝の上に置いた。名前たちの脈動がまだ続いている。井戸の底の金色の光に呼応するように、布の中が温かい。
「ここの名前を拾えるか」
あさひが聞いた。
久遠が首を振った。
「石に刻まれた名前は、石から剥がせない。名前を守るために石に封じたんだ。持ち出すなら石ごと運ぶしかないが、それでは根が千切れる」
「じゃあ、どうする」
「記録する。場所と名前を目録に記す。漂白が来る前に、ここに名前があったという証拠を残す」
久遠は義眼の出力を上げ、井戸の縁石に刻まれた名前を一文字ずつ読み取った。目録の頁に、細い筆跡で書き写していく。
持ち出せない。だが、記録できる。無力ではなかった。
こよいは久遠の手元を見守りながら、巾着を胸に当てた。名前たちの脈動がゆっくりと落ち着いていく。仲間の名前が記録されていることを、感じ取っているのだろう。
「砂峰には、まだ名前が残ってる」
こよいは小さく言った。
「南に来てよかった」
あさひは何も言わず、大剣の柄を叩いた。肯定の仕草だった。
久遠が目録を閉じ、立ち上がった。
「次は凪沢だ。二日かかる」
井戸の内壁に手を伸ばした。指先が石に触れた瞬間、微かに湿り気を感じた。名前の根が水を運んでいる。細い流れだが、旅の喉を潤すには足りる。
三人は砂峰の集落で半日を過ごした。
井戸から汲んだ水は、ほんの少し甘かった。名前の味がする、とこよいは思った。壁の文字を久遠が記録し終えるまで、あさひは集落の外縁を巡回して道を確かめた。
おたまは井戸の縁で、汲み上げた水を一口だけ舐めた。二口目には口をつけず、底の金色を見つめて小鈴を鳴らす。すると深い井戸の底からも、同じ間で光が明滅した。猫なりの挨拶を終えたらしく、おたまは尾を立てて南へ向き直った。
凪沢まで二日。
こよいは巾着を握り、立ち上がった。井戸の縁石に刻まれた名前に指先で触れた。冷たい石の奥に、まだ温もりがある。
行ってくる、とは言わなかった。
その代わりに巾着を縁石に近づけた。布の中の名前たちが一斉に脈打ち、井戸の名前が微かに光った。
呼び合っている。
こよいはそれを確かめてから、二人の後を追った。砂峰の朝日が背中を照らし、三つの影が南へ伸びていた。




