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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第13章 南の方位

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第381話 砂峰の朝

挿絵(By みてみん)


砂の色が変わったのは、夜が明ける少し前だった。


 赤みを帯びていた地面が、淡い金色に染まっていく。東の空が白み始め、砂の粒子(りゅうし)が一つひとつ光を含み始める。こよいは歩きながら、その変化を足裏で感じていた。夜の冷気がまだ地面に残っている。


 「あれだ」


 あさひが足を止めた。


 稜線(りょうせん)の向こうに、建物の(かげ)が見えた。低く、四角い輪郭(りんかく)が幾つも並んでいる。砂峰(すなみね)集落(しゅうらく)だった。


 近づくにつれ、異様さが際立ってくる。石造りの壁が砂に半ば埋もれ、屋根の端だけが地上に突き出していた。かつては二階建てだったのだろう。今は一階部分がすべて砂の下に沈み、屋根の上を歩いて入口にたどり着くような構造になっている。


 「砂に()まれてる」


 こよいが(つぶや)いた。


 「砂が増えたんじゃない」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)を光らせ、集落(しゅうらく)を見渡した。


 「名前が抜けると、土地の厚みも失われる。ここはかつてもっと高い場所だった。名前が消えるたびに、地面が沈んでいった」


 朝の光が集落(しゅうらく)を照らし始めた。


 石壁の表面に、文字の痕跡(こんせき)があった。風雨に(さら)されて薄れているが、確かに刻まれている。門の柱や壁の角に、同じ書体で繰り返し現れる文字列。こよいはその一つに近づき、指でなぞった。


 読めない。だが、文字であることは分かる。


 「建物そのものが記録(きろく)の媒体になっている」


 久遠(くおん)目録(もくろく)(ページ)を開き、義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)で壁の文字を照らした。


 「名前を石に刻むことで、風化(ふうか)には耐えられるようにした。漂白(ひょうはく)には弱いが、物理的な消滅には強い。ここに暮らしていた者たちが、名前を守るために壁に彫った」


 集落(しゅうらく)の中心に、井戸(いど)があった。


 石組みの円形の(ふち)が砂の上に突き出している。周囲の建物よりも高い位置にあるのは、井戸(いど)だけが沈まなかったからだ。縁石(えんせき)は分厚く、丁寧に積まれていた。一つひとつの石が、手のひらで()でたように滑らかに(みが)かれている。


 こよいは井戸(いど)(ふち)に手を置いた。


 冷たい。砂の熱を吸わず、石だけが別の温度を保っていた。


 あさひが覗き込んだ。


 「底が見えない」


 完全な闇ではなかった。ずっと深いところで、微かに金色のものが光っている。


 「水じゃないな」


 「名前だ」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)井戸(いど)の底に向けた。蒼光(そうこう)が闇を貫き、底の光を照らし出す。


 「名前の根が井戸(いど)の底で集まっている。汲み上げるための井戸(いど)じゃない。名前を(しず)めて守るための井戸(いど)だ」


 こよいは縁石(えんせき)をもう一度見た。石の表面に文字が彫られている。壁の文字よりも深く、丁寧に。風化(ふうか)(あらが)うように、何度も上から彫り直した跡があった。


 一文字ずつ、指でなぞった。


 名前だった。短い。二文字。読みは分からないが、形がはっきりしている。石を彫った者の指の力が、そのまま文字に残っていた。


 巾着(きんちゃく)が脈打った。


 強く、一度。こよいは思わず胸を押さえた。二十三の脈が、井戸(いど)縁石(えんせき)に刻まれた名前を認識している。


 「この名前を、知ってる」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を広げた。(ページ)の上に金色の線が走り始めている。井戸(いど)の底から立ち上る名前の根が、目録(もくろく)の紙に浸透(しんとう)しようとしていた。


 「星野(ほしの)井戸(いど)と同じだ。地下で根が(つな)がっている。この井戸(いど)も、名前の根脈(こんみゃく)の一部だ」


 あさひは井戸(いど)の反対側に立ち、周囲を警戒していた。風の音と、砂が石壁を(たた)く乾いた音だけが響いている。


 「住人はいないのか」


 「名前を(しず)めた後に、去ったんだろう。井戸(いど)だけを残して」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)で壁の文字と井戸(いど)の文字を交互に読み取り、目録(もくろく)に記録していく。


 「ここの名前は、まだ漂白(ひょうはく)されていない。石が守っている。風化(ふうか)はしているが、消されてはいない」


 朝日が高くなるにつれ、砂の温度が上がり始めた。石壁が熱を吸い、集落(しゅうらく)全体がじわりと温まっていく。


 こよいは井戸(いど)(ふち)に座り、巾着(きんちゃく)(ひざ)の上に置いた。名前たちの脈動がまだ続いている。井戸(いど)の底の金色の光に呼応するように、布の中が温かい。


 「ここの名前を拾えるか」


 あさひが聞いた。


 久遠(くおん)が首を振った。


 「石に刻まれた名前は、石から()がせない。名前を守るために石に封じたんだ。持ち出すなら石ごと運ぶしかないが、それでは根が千切れる」


 「じゃあ、どうする」


 「記録(きろく)する。場所と名前を目録(もくろく)に記す。漂白(ひょうはく)が来る前に、ここに名前があったという証拠を残す」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)の出力を上げ、井戸(いど)縁石(えんせき)に刻まれた名前を一文字ずつ読み取った。目録(もくろく)(ページ)に、細い筆跡(ひっせき)で書き写していく。


 持ち出せない。だが、記録(きろく)できる。無力ではなかった。


 こよいは久遠(くおん)の手元を見守りながら、巾着(きんちゃく)を胸に当てた。名前たちの脈動がゆっくりと落ち着いていく。仲間の名前が記録(きろく)されていることを、感じ取っているのだろう。


 「砂峰(すなみね)には、まだ名前が残ってる」


 こよいは小さく言った。


 「南に来てよかった」


 あさひは何も言わず、大剣の(つか)を叩いた。肯定の仕草だった。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を閉じ、立ち上がった。


 「次は凪沢(なぎさわ)だ。二日かかる」


 井戸(いど)の内壁に手を伸ばした。指先が石に触れた瞬間、微かに湿り気を感じた。名前の根が水を運んでいる。細い流れだが、旅の喉を潤すには足りる。


 三人は砂峰(すなみね)集落(しゅうらく)で半日を過ごした。


 井戸(いど)から汲んだ水は、ほんの少し甘かった。名前の味がする、とこよいは思った。壁の文字を久遠(くおん)記録(きろく)し終えるまで、あさひは集落(しゅうらく)の外縁を巡回して道を確かめた。


 おたまは井戸(いど)の縁で、汲み上げた水を一口だけ()めた。二口目には口をつけず、底の金色を見つめて小鈴を鳴らす。すると深い井戸(いど)の底からも、同じ間で光が明滅した。猫なりの挨拶を終えたらしく、おたまは尾を立てて南へ向き直った。


 凪沢(なぎさわ)まで二日。


 こよいは巾着(きんちゃく)を握り、立ち上がった。井戸(いど)縁石(えんせき)に刻まれた名前に指先で触れた。冷たい石の奥に、まだ温もりがある。


 行ってくる、とは言わなかった。


 その代わりに巾着(きんちゃく)縁石(えんせき)に近づけた。布の中の名前たちが一斉に脈打ち、井戸(いど)の名前が微かに光った。


 呼び合っている。


 こよいはそれを確かめてから、二人の後を追った。砂峰(すなみね)の朝日が背中を照らし、三つの(かげ)が南へ伸びていた。

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