第344話 白い広場
日が落ちる前、三人はおたまの選んだ太い根を辿って、町の中心へ出た。
そこだけが、白かった。
円形の広場が、漂白の白に塗り潰されている。石畳の目地も、中央の井戸の跡らしい円い縁も、すべてが均一な白。町中に張り巡らされた金色の根は、広場の縁でぴたりと止まっていた。何本もの根が縁に沿って渦を巻き、入り口を探して、見つけられずにいる。
「入れないんだ」
「漂白が深すぎる。記録のない場所に、根は張れない」
足の裏に、あの七つの脈が集まってきているのが分かった。地下を渡ってきた七柱が、この広場の真下で、降りる場所を探して回り続けている。合流点——ここが、本来の着地点だったのだ。それを、観測者が先回りして白く塗った。
「受け皿がないなら、作ればいい」
こよいは写本の束から、墨色のままの七枚を選び出した。七柱の名前の頁。白い広場の縁に沿って、根の渦の真上に、一枚ずつ置いていく。あさひが小石を載せた。星野の夜と同じ、丁寧な手つきで。
置き終えた瞬間、七枚の紙が、下から順に淡く光った。地下の脈が、頭上の受け皿に気づいたのだ。すぐには降りられない。白の下から紙までは、まだ遠い。それでも、脈の巡り方が変わった。彷徨う円から、七つの点へ向かう直線へ。
「あとは待つだけだ。根が白を崩すか、名前が紙に届くか。……どちらが先でも、道はもう、つけた」
最後に、こよいは巾着の紐から、小さな巻貝を解いた。黒い浜で拾った、螺旋に名前を刻んだ貝。届ける場所が見つかるまで、と連れてきた。金色の根のいちばん太い筋の上に、そっと置く。
貝の中の文字が一度だけ光り、光は螺旋を解くように、根へ流れ込んだ。名前が、網に加わった。いつか、どこかの井戸で呼ばれて降りるために。空になった貝殻を、こよいは巾着の紐に結び直した。お守りとして。
夜が深くなった。
星降町の空に、星が見えた。
霧が薄くなっていた。名前の根が町を覆い始めてから、空気中の霧が少しずつ退いている。完全に晴れたわけではない。だが、雲の切れ間から覗く小さな光の粒が、石畳の上に点々と影を落としていた。
星を見るのは、旅を始めてから初めてだった。南の町では空を見上げても、灰色の霧が視界を塞いでいた。星があることすら忘れかけていた。けれど今、目の前で光っている小さな粒は、名前のように一つ一つ違う明るさで瞬いている。
こよいは停車場の屋根の下で膝を抱えている。屋根の梁に星の光が細い筋となって差し込み、石畳の上に白い斑点を散らしていた。隣であさひが眠っていた。剣を胸に抱いたまま、柱に寄りかかって、浅い寝息を立てている。額の汗が乾いて白い塩の跡になっていた。
久遠は起きていた。目録を膝に開き、義眼の蒼光を抑えた淡い光で頁を照らしている。声は出さない。あさひを起こさないように、指先だけで頁をめくっていた。
「数は」
声が小さすぎた。もう一度。
こよいが囁いた。
久遠は蒼光を頁に落としたまま、声をさらに低くして答えた。
「前回と合わせて、着地確認した名前が二十五柱。写本に記録されている名前の約半分だ。七柱は白い広場の下まで来ていて、受け皿を待っている。残りは水脈を移動中か、あるいは——」
言いかけて、止めた。
「……いずれにせよ、ここまで来た」
こよいは写本を膝の上に置いた。紙の感触が手に馴染んでいた。旅の間に何百回と触れた写本は、こよいの掌の形を覚えたように、膝の上でぴたりと収まる。金色の光を帯びた名前と、まだ墨の色のままの名前が、紙の上で隣り合っている。光っている名前は、地面の根と繋がった名前だ。根を通じて脈を送り、石の下から光を返している。
墨の色のまま沈黙している名前は、まだこの町に届いていない。
「半分」
こよいは声に出した。
多いのか、少ないのか、分からなかった。旅を始めたとき、一つの名前も持っていなかった。巾着の中に最初の雫が宿ったのが、いつだったか。今は二十五の名前がこの町の地面に根を張り、残りの名前を待っている。
風が吹いた。停車場の屋根の隙間から冷気が降り、こよいの首筋を撫でた。身体が縮こまる。だが、足元の石畳は温かい。根が通っている場所は、冬の夜でも凍らない。
「久遠くん」
「なんだ」
「ここの根、ぼくたちがいなくなっても育つ?」
久遠は頁から目を上げた。蒼光がこよいの顔を照らす。
「根は名前に依存している。名前が定着している限り、根は自律的に伸びる。お前がいなくても止まらない」
「じゃあ、ここを離れても大丈夫なんだ」
「大丈夫かどうかは分からない。だが、ここに留まっていても残りの名前は見つからない」
こよいは空を見上げた。星の光が、霧の薄い層を透かして届いている。一つ一つは小さい。だが、ここから見える星の全てに名前があるのだとしたら、空は名前で溢れている。地面の根と空の星が、こよいを挟んで上下に光っていた。自分がその間に立っていることが、不思議でもあり、少しだけ誇らしくもあった。
巾着が微かに脈打った。地面の根と呼応する、静かな拍。名前たちは眠っていない。夜の間も脈を交わし、互いの存在を確かめ合っている。
あさひが寝返りを打った。剣が石畳に当たり、小さな金属音が鳴った。その音に根が反応し、金色の光が一瞬だけ広がって戻った。あさひの寝顔に、金色の残光が映った。眉間の皺が、眠っている間だけは消えていた。
こよいは写本を閉じ、胸に抱いた。
明日、列車が動く。この町を離れ、まだ名前が届いていない場所へ向かう。水脈を移動中の名前を、途中で捕まっているかもしれない名前を、見つけに行く。どんな場所が待っているのか、分からない。けれど写本の温もりが、胸の中で小さな灯火のように揺れていた。
足元の根が、こよいの決意に応えるように一度だけ強く明滅した。その光が通りの奥まで波紋のように広がり、角を曲がって消えていった。
久遠が目録を閉じた。蒼光が消え、停車場が暗くなった。金色の根の光だけが、三人の足元を照らしている。
「少し眠れ。朝には発つ。身体を休めろ」
こよいは目を閉じた。瞼の裏に、さっき見た星の残像がちらちらと瞬いている。石畳の温もりが、背中を通して身体に染みていく。名前の根が地面の下で脈打ち、その振動がゆりかごのようにこよいを揺らした。
夜明け前、根の脈が強くなった。こよいは白い広場の縁に七枚の空白の紙を並べた。地下から七本の糸が上がり、うち三本が紙へ降り、そのまま地面の根へ移って定着した。役目を終えた三枚は再び白くなる。
残る四本も紙のすぐ下まで来た。けれど、触れる直前に糸が断ち切れ、紙が急に冷たくなった。久遠は義眼で根の脈を追い、観測者が四柱を捉え、この先の流刑地へ送ったと読み取った。こよいは白い三枚と冷たい四枚を重ね、写本とともに胸へ抱えた。
星降町の夜は、名前の光で温かかった。




