第335話 町の揺れ
町は、揺れていた。
地震の揺れではない。
風の揺れでもない。もっと静かで、もっと執拗な揺れ。
地面の下で、誰かが長い紙を引きずるときの、あの嫌な振動。紙が石に擦れて立てる、耳の奥をくすぐるような低い音が、地面を通して足裏に伝わってくる。
宵波浜の路地を抜けた先に、木造の家が並んでいた。誰もいない。窓は閉じているのに、灯は消えていない。油灯の炎が窓の向こうで静かに揺れ、天井に影を落としている。住人のいない部屋で、炎だけが職務を全うしていた。
空っぽの家々が、勝手に夜を演じ続けている。
こよいは柱に手を当てた。柱は温かくないけれど、冷たくもない。ただ、わずかに震えている。指先を通して、木の繊維が伝える振動が骨に届く。
軒先の札が、きし、と鳴った。風がないのに、揺れに合わせて左右に振れる。札の紐が張り、緩み、また張る。
札の文字は読めない。
読もうとすると、揺れの方が先に目をずらす。文字が視界の中で滑り、焦点を合わせるたびに別の位置に逃げる。
「……町そのものが、書き換えられてる」
久遠が吐き捨てる。義眼の蒼光が家々の壁を走り、壁の表面に浮かぶ微細な文字列を読み取ろうとしている。だが文字列も揺れていて、蒼光が追いつけない。
「観測者が?」
「いや、観測者だけじゃない。ここは、住んでた記録が自分で揺れてる。……消される前に、形を変えて逃げてるんだ」
あさひが路地の奥を見た。揺れは、奥へ行くほど大きい。
家の影が薄くなる。壁が透けるのではなく、影の濃さが減っていく。存在の密度が下がっている証拠だった。
境界が、きしむ。家と道の境目が曖昧になり、壁の輪郭が揺れるたびに数寸ずれる。
「……まずいな」
「何が?」
「揺れが、足をさらう。踏み出した場所が、戻ってこないやつだ」
あさひは布包みの剣の石突で地面を叩いた。くぐもった音がした。揺れが一瞬だけ止まる。石突が石に当たった衝撃が、揺れの周波数を一瞬だけ断ち切った。だがすぐに揺れは戻り、乾いた音の残響を呑み込んでいく。
こよいはその隙に、息を吸った。潮の匂いと、古い紙の匂いが混じる。紙の匂いが濃い。この町を構成している記録そのものが、匂いとして漂っている。
町は揺れながら、まだ「町」でいようとしている。形を変え、位置をずらしながらも、消えることを拒んでいる。
「……ここ、通れるかな」
「通すかどうかは、町じゃない。俺たちだ」
久遠が目録を抱え直す。革表紙を胸に押し当て、揺れで落とさないように固定した。こよいは巾着の中の神々の温もりに指を重ねる。神々の脈動が揺れのリズムとは違う速さで打っていた。揺れに呑まれず、自分のリズムを保っている。
揺れはまた始まった。家々の灯が、わずかに瞬く。まるで「急げ」と言っている。
三人は揺れの中へ足を入れた。
地面が、下から突かれるように跳ねた。小さく、何度も。石畳の表面が指で弾かれたように振動し、靴底を通して足の骨にまで響く。
こよいは足裏で感じた。揺れではない。叩いている。地面の下で、何かが上に向かって叩いている。拳ではない。もっと小さなもの。指先。いや——爪。
「名前だ」
久遠が立ち止まった。義眼が足元を透かすように光る。蒼光が石畳を貫き、その下の層を照らした。
「地下を通って移動していた名前が、ここで詰まっている。上に出たいのに、出られない」
「封じられてるの?」
「ああ。観測者が、この町の地面に蓋をしている。名前が井戸に届く前に、ここで止める仕組みだ」
揺れの正体は、それだった。
名前たちが地下から地面を叩いている。何百、何千という名前が、薄い石の層ひとつ隔てた向こう側で、出口を探している。一つ一つの叩きは小さい。だが何百もの名前が同時に叩くことで、町全体が揺れている。
あさひが地面に耳を当てた。片膝をつき、頬を石畳に押しつける。石の冷たさが頬を刺す。
「……聞こえる。指で引っ掻いてる。爪の音だ」
こよいは膝をついた。石畳に手を置く。冷たい。だが、奥から微かに温かいものが伝わってくる。冷たい石の下に、温もりが眠っている。
名前の熱だった。
「助けられる?」
「蓋を壊せば出る。だが、壊した瞬間に観測者が来る」
久遠が目録を開いた。頁に、封印の線が浮かんでいる。町の地面全体を覆う、格子状の紋様。紋様の線は均一ではなく、場所によって太さが違う。
一箇所だけ、線が薄い。
「ここだ。この一角だけ、封印が弱い」
「じゃあ——」
「待て。弱いんじゃなくて、すでに名前が一柱、押し通った跡だ。穴が開いて、また塞がれている」
塞がれた穴の上に、さっきの軒先の札があった。
札が揺れていたのは、風のせいではない。真下で名前が叩いていたからだ。
こよいは札に手を伸ばした。触れた瞬間、札の文字が一瞬だけ読めた。揺れが止まり、文字が焦点に入った。
名前だった。
押し通った一柱の名前が、札に焼き付いていた。通過した証拠。ここを抜けた者がいるという記録。文字は薄かったが、確かにそこにあった。
「……通れるんだ」
こよいが呟いた。声に力が戻っていた。
久遠が頷いた。
「通れる。だが、通るたびに封印は厚くなる。次はもっと難しい」
「それでも、通った名前がいる」
「ああ。いる」
あさひが立ち上がり、剣の柄を握り直した。
「なら、俺たちが次の穴を開ける」
おたまが、空き家の軒先から三人を見下ろしていた。いつ上ったのか、誰も見ていない。揺れる町の中で、猫の座っている軒板だけが、揺れていなかった。
町の揺れが、ほんの一拍だけ止まった。
地下の名前たちが、息を呑んだように感じた。
こよいは石畳に手を置いたまま、その沈黙を聞いていた。待っている。下で、たくさんの名前が、待っている。掌に伝わる温もりが、ほんの少しだけ強くなった。
灯の消えない家々が、三人を見ていた。揺れはすぐに戻った。だが、さっきよりも少しだけ、規則正しい。
まるで鼓動のように。




