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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第11章 海図の響き

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330/344

第330話 干潮の道

挿絵(By みてみん)


波里(なみざと)へ向かう線は、海沿いを走る。途中の小さな入り江で列車が停まり、久遠(くおん)が帰還の台帳と窓の外を見比べて、短く言った——「降りる。台帳の井戸(いど)が、この浜にある」。

 浜に立って、間もなくだった。(しお)が引いた。


 海水が退いていく音は、普通なら静かなものだ。だがこの浜では違った。水が引くたびに、石が(こす)れる音がする。石畳(いしだたみ)の音だ、こよいは目を()らした。


 海底が(あら)わになっていく。砂ではなかった。そこには石段(いしだん)があった。


 (こけ)蔓壺(つるつぼ)に覆われた、幅の広い階段。海水に()かっていた面が空気に触れ、蔓壺(つるつぼ)の殻が乾いて白く浮き上がる。段の一つひとつは(ひざ)の高さほどあり、両側に欄干(らんかん)のような突起(とっき)が等間隔に並んでいた。


 「道だ」


 あさひが(つぶや)いた。


 久遠(くおん)海図(かいず)を広げた。義眼(ぎがん)蒼光(そうこう)が紙面を走る。


 「ここだ。海図(かいず)に点線で描かれていた経路——井戸(いど)井戸(いど)を繋ぐ旧道だ。名前が地上を渡っていた時代に使われていた」


 こよいは石段(いしだん)を見下ろした。海藻(かいそう)が段の端に(から)みつき、乾きかけた海水が日差しに光っている。階段は沖に向かって緩やかに下り、途中で海面の下に消えていた。


 「名前が、この道を歩いたの」


 「歩いたというより、流れた。名前は水脈(すいみゃく)に乗って井戸(いど)から井戸(いど)へ移動する。この石段(いしだん)は、その水脈(すいみゃく)を地上に引き上げるための装置だ。(しお)が引いたときだけ現れる」


 久遠(くおん)石段(いしだん)の表面をなぞった。指先に蔓壺(つるつぼ)の殻が引っかかる。その下に、細い溝が刻まれていた。水路だ。石段(いしだん)の中央を一筋の溝が貫いていて、かつてはそこを名前を含んだ水が流れていたのだろう。


 「降りるぞ」


 あさひが先に足をかけた。蔓壺(つるつぼ)の殻を踏む音が乾いて響く。


 こよいは久遠(くおん)と目を合わせ、続いた。石段(いしだん)は思ったより滑らなかった。蔓壺(つるつぼ)が靴底を(つか)むように引っかかる。海藻(かいそう)の匂いが強い。腐りかけた磯の匂いと、その下にかすかに混じるインク(いんく)の残り(のこりか)


 十段ほど降りると、景色が変わった。


 石段(いしだん)の両側に壁が現れた。自然の岩ではない。切り出された石を積み上げた壁で、表面に文字のような刻みが規則的に並んでいる。読めないが、経蔵(きょうぞう)回廊(かいろう)で見た書式に似ていた。


 「記録壁だ」


 久遠(くおん)が壁に手を当てた。義眼(ぎがん)の光が刻みをなぞると、文字が一瞬だけ浮かび上がって消えた。


 「この道を通過した名前の記録が刻まれている。いつ、どの名前が、どの井戸(いど)からどの井戸(いど)へ渡ったか」


 空気が変わった。(しお)の匂いが薄れ、代わりに地下特有の湿った石の匂いが濃くなる。光も届きにくくなっている。干潮の間だけ露出する道だから、陽が当たる時間は限られているのだ。


 さらに十段。


 道が平坦になった。石段(いしだん)から石畳(いしだたみ)に変わり、幅が広がる。三人が並んで歩ける広さだ。天井はないが、両側の壁が高くそびえて空を細く切り取っている。


 こよいは足元を見た。石畳(いしだたみ)の中央を走る溝が、ここでは二筋に分かれていた。分岐だ。名前が行き先を選ぶ場所。


 「突き当たりだ」


 あさひの声が前方から返ってきた。


 道の終点に、丸い石の(ふた)があった。直径は人の背丈ほど。白い石だ。周囲の灰色の壁や石畳(いしだたみ)とは明らかに違う、滑らかで均一な白。汚れも(こけ)もつかず、海底にあったとは思えないほど清潔だった。


 「……井戸(いど)だ」


 久遠(くおん)の声が硬くなった。


 「この下に井戸(いど)がある。だが——(ふさ)がれている。この白い石は、観測者(かんそくしゃ)が使う封印(ふういん)材だ。経蔵(きょうぞう)でも同じものを見た」


 こよいは白い石に触れた。冷たい。だが、経蔵(きょうぞう)の氷とは違う冷たさだ。拒絶の冷たさ。この石は何も通さない。水も、名前も、記録も、すべてを遮断(しゃだん)するための(ふた)


 巾着(きんちゃく)の中で神々が震えた。(おび)えではなく、怒りに似た脈動だった。


 「この下に、名前がいるの」


 「いたはずだ。井戸(いど)が機能していた頃は、ここで名前を受け取る者がいた。呼び手がいて、名前が降りてきて、受け皿に収まる。その循環(じゅんかん)が——」


 「(ふさ)がれた」


 あさひが白い石を靴底で()った。音がしなかった。衝撃(しょうげき)が石に吸い込まれて消える。


 「硬いな」


 「硬いんじゃない。力を吸収しているんだ。物理的に壊すことはできない」


 こよいは写本(しゃほん)の束を胸から取り出した。経蔵(きょうぞう)で書き写した名前の写し。五十一柱分の名前が、薄い紙に(すみ)で記されている。


 一枚を選び、白い石の上に置いた。


 紙が石に触れた瞬間、文字が淡く光った。写本(しゃほん)の名前が、封印(ふういん)された井戸(いど)の名前と呼応している。石の下にいる名前が、紙の上の名前を感じ取ったのだ。


 白い石の表面に、亀裂(きれつ)ではなく、光の筋が走った。封印(ふういん)は破れないが、名前同士は石を通して互いを認識できる。


 「届いてる」


 こよいが言った。


 「壊せなくても、呼べなくても、置くだけで届くんだ」


 久遠(くおん)海図(かいず)を確かめた。封印(ふういん)された井戸(いど)座標(ざひょう)に、小さな変化が起きていた。灰色だった誘導線(ゆうどうせん)の一本が、わずかに角度を変えている。白い石の上の写本(しゃほん)が、名前の軌道(きどう)に影響を与えたのだ。


 最初に気づいたのは、おたまだった。井戸(いど)(ふた)に背を向け、来た道を戻り始める。数拍遅れて、(しお)が戻り始めた。


 足元にぬるい海水が()い寄ってくる。干潮の道が再び沈む時間だ。


 「戻るぞ」


 あさひが(うなが)した。


 こよいは写本(しゃほん)を石の上に残した。この(ページ)の名前の帰る井戸(いど)は、台帳によれば、ここだ。封印(ふういん)が破れないなら、せめて受け皿ごと、家の戸口に置いていく。(しお)が来れば紙は溶けるだろう。

 その懸念を見透かしたように、目の前で、それは起きた。紙の上の(すみ)が、ゆっくりと白い石の縁へ滲み出していく。文字の形のまま、紙から石へ。錨が、移っているのだ。久遠(くおん)義眼(ぎがん)が光の糸を追った——糸は切れていない。頁から石へ、結び直されただけだ。

 「……受け皿が、石に替わった。紙より、よほど長持ちする」

 写本(しゃほん)は五十一から五十になった。減ったのではない。一枚は、届けたのだ。


 石段(いしだん)を駆け上がる。足首まで海水が上がってきている。蔓壺(つるつぼ)を踏み、海藻(かいそう)()り、三人は浜に這い上がった。


 振り返ると、もう石段(いしだん)は見えなかった。海面がすべてを(おお)い、何もなかったかのように波が揺れている。


 だが海図(かいず)の上では、あの井戸(いど)座標(ざひょう)がかすかに明るくなっていた。

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