第330話 干潮の道
波里へ向かう線は、海沿いを走る。途中の小さな入り江で列車が停まり、久遠が帰還の台帳と窓の外を見比べて、短く言った——「降りる。台帳の井戸が、この浜にある」。
浜に立って、間もなくだった。潮が引いた。
海水が退いていく音は、普通なら静かなものだ。だがこの浜では違った。水が引くたびに、石が擦れる音がする。石畳の音だ、こよいは目を凝らした。
海底が露わになっていく。砂ではなかった。そこには石段があった。
苔と蔓壺に覆われた、幅の広い階段。海水に浸かっていた面が空気に触れ、蔓壺の殻が乾いて白く浮き上がる。段の一つひとつは膝の高さほどあり、両側に欄干のような突起が等間隔に並んでいた。
「道だ」
あさひが呟いた。
久遠が海図を広げた。義眼の蒼光が紙面を走る。
「ここだ。海図に点線で描かれていた経路——井戸と井戸を繋ぐ旧道だ。名前が地上を渡っていた時代に使われていた」
こよいは石段を見下ろした。海藻が段の端に絡みつき、乾きかけた海水が日差しに光っている。階段は沖に向かって緩やかに下り、途中で海面の下に消えていた。
「名前が、この道を歩いたの」
「歩いたというより、流れた。名前は水脈に乗って井戸から井戸へ移動する。この石段は、その水脈を地上に引き上げるための装置だ。潮が引いたときだけ現れる」
久遠が石段の表面をなぞった。指先に蔓壺の殻が引っかかる。その下に、細い溝が刻まれていた。水路だ。石段の中央を一筋の溝が貫いていて、かつてはそこを名前を含んだ水が流れていたのだろう。
「降りるぞ」
あさひが先に足をかけた。蔓壺の殻を踏む音が乾いて響く。
こよいは久遠と目を合わせ、続いた。石段は思ったより滑らなかった。蔓壺が靴底を掴むように引っかかる。海藻の匂いが強い。腐りかけた磯の匂いと、その下にかすかに混じるインクの残り香。
十段ほど降りると、景色が変わった。
石段の両側に壁が現れた。自然の岩ではない。切り出された石を積み上げた壁で、表面に文字のような刻みが規則的に並んでいる。読めないが、経蔵の回廊で見た書式に似ていた。
「記録壁だ」
久遠が壁に手を当てた。義眼の光が刻みをなぞると、文字が一瞬だけ浮かび上がって消えた。
「この道を通過した名前の記録が刻まれている。いつ、どの名前が、どの井戸からどの井戸へ渡ったか」
空気が変わった。潮の匂いが薄れ、代わりに地下特有の湿った石の匂いが濃くなる。光も届きにくくなっている。干潮の間だけ露出する道だから、陽が当たる時間は限られているのだ。
さらに十段。
道が平坦になった。石段から石畳に変わり、幅が広がる。三人が並んで歩ける広さだ。天井はないが、両側の壁が高くそびえて空を細く切り取っている。
こよいは足元を見た。石畳の中央を走る溝が、ここでは二筋に分かれていた。分岐だ。名前が行き先を選ぶ場所。
「突き当たりだ」
あさひの声が前方から返ってきた。
道の終点に、丸い石の蓋があった。直径は人の背丈ほど。白い石だ。周囲の灰色の壁や石畳とは明らかに違う、滑らかで均一な白。汚れも苔もつかず、海底にあったとは思えないほど清潔だった。
「……井戸だ」
久遠の声が硬くなった。
「この下に井戸がある。だが——塞がれている。この白い石は、観測者が使う封印材だ。経蔵でも同じものを見た」
こよいは白い石に触れた。冷たい。だが、経蔵の氷とは違う冷たさだ。拒絶の冷たさ。この石は何も通さない。水も、名前も、記録も、すべてを遮断するための蓋。
巾着の中で神々が震えた。怯えではなく、怒りに似た脈動だった。
「この下に、名前がいるの」
「いたはずだ。井戸が機能していた頃は、ここで名前を受け取る者がいた。呼び手がいて、名前が降りてきて、受け皿に収まる。その循環が——」
「塞がれた」
あさひが白い石を靴底で蹴った。音がしなかった。衝撃が石に吸い込まれて消える。
「硬いな」
「硬いんじゃない。力を吸収しているんだ。物理的に壊すことはできない」
こよいは写本の束を胸から取り出した。経蔵で書き写した名前の写し。五十一柱分の名前が、薄い紙に墨で記されている。
一枚を選び、白い石の上に置いた。
紙が石に触れた瞬間、文字が淡く光った。写本の名前が、封印された井戸の名前と呼応している。石の下にいる名前が、紙の上の名前を感じ取ったのだ。
白い石の表面に、亀裂ではなく、光の筋が走った。封印は破れないが、名前同士は石を通して互いを認識できる。
「届いてる」
こよいが言った。
「壊せなくても、呼べなくても、置くだけで届くんだ」
久遠が海図を確かめた。封印された井戸の座標に、小さな変化が起きていた。灰色だった誘導線の一本が、わずかに角度を変えている。白い石の上の写本が、名前の軌道に影響を与えたのだ。
最初に気づいたのは、おたまだった。井戸の蓋に背を向け、来た道を戻り始める。数拍遅れて、潮が戻り始めた。
足元にぬるい海水が這い寄ってくる。干潮の道が再び沈む時間だ。
「戻るぞ」
あさひが促した。
こよいは写本を石の上に残した。この頁の名前の帰る井戸は、台帳によれば、ここだ。封印が破れないなら、せめて受け皿ごと、家の戸口に置いていく。潮が来れば紙は溶けるだろう。
その懸念を見透かしたように、目の前で、それは起きた。紙の上の墨が、ゆっくりと白い石の縁へ滲み出していく。文字の形のまま、紙から石へ。錨が、移っているのだ。久遠の義眼が光の糸を追った——糸は切れていない。頁から石へ、結び直されただけだ。
「……受け皿が、石に替わった。紙より、よほど長持ちする」
写本は五十一から五十になった。減ったのではない。一枚は、届けたのだ。
石段を駆け上がる。足首まで海水が上がってきている。蔓壺を踏み、海藻を蹴り、三人は浜に這い上がった。
振り返ると、もう石段は見えなかった。海面がすべてを覆い、何もなかったかのように波が揺れている。
だが海図の上では、あの井戸の座標がかすかに明るくなっていた。




