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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第11章 海図の響き

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第328話 漂白の階段

挿絵(By みてみん)


階段は(ゆが)んでいた。


 一段ごとに高さが違う。(ひざ)まである段の次に、紙一枚分の段。踏み出すたびに身体の重心が崩れ、足首が悲鳴を上げた。靴底が石の角に当たり、その衝撃が膝を通じて腰に響く。


 こよいは最初の一段に足を置いたとき、靴底を通して振動を感じた。この階段を上った者たちの足跡が、石の中にまだ残っている。微かで、古い。踏み込むたびに、その振動がこよいの足裏に伝わり、巾着(きんちゃく)の中の神々を揺らした。振動は一様ではなかった。軽い足音の残響(ざんきょう)と、重い足音の残響(ざんきょう)が、石の中で層になって積み重なっている。何人もの足が、この歪んだ階段を上ったのだ。


 上を見た。


 十段ほど先から、空間の色が変わっていた。灰色の石壁が、端から白くなっている。漂白(ひょうはく)だ。記録が消されていく。白の(ふち)が灰色の石に食い込み、じわじわと下りてきている。水が砂に滲み込むように、白が石の色を()み込んでいく。


 「上で削られてる。俺たちが上るより速い」


 久遠(くおん)義眼(ぎがん)で上方を見ていた。蒼光(そうこう)が白い壁に触れ、弾かれるように戻ってきた。白い壁は蒼光(そうこう)を反射しない。吸い込みもしない。ただ弾く。情報を受け付けない壁になっている。


 「石に刻まれた記録を、(ことわり)が上から順に消している。このまま上れば、十段先で何もなくなる」


 「止められるか」


 「止められない。だが読める。消される前に、蒼光(そうこう)で文字を拾える」


 久遠(くおん)は階段を上りながら、義眼(ぎがん)の出力を上げた。蒼光(そうこう)が石の表面を走り、消えかけの文字を照らし出す。文字が浮かぶ。一瞬だけ。蒼光(そうこう)が通過した端から、白く塗り潰されていく。光が文字を読み取った瞬間に、文字が消えていく。まるで読まれることを待っていたかのように、蒼光(そうこう)に触れた順に白くなっていった。


 久遠(くおん)の指が目録(もくろく)の上を走った。読み取った文字を、消される前に書き写している。片手で(ページ)を押さえ、片手で筆を動かし、足は止めない。三つの動作を同時にこなしている。筆の先が紙面を叩く速さは、普段の久遠(くおん)の三倍はあった。


 額に汗が浮いた。義眼(ぎがん)の光が明滅する。情報を読む速度が、消される速度にぎりぎりで追いついている。義眼(ぎがん)の周囲の皮膚が赤くなり始めていた。出力を上げた反動が、生身の組織に負荷をかけている。


 「……帰還の台帳の、続きだ。広場の下で取った台帳は井戸(いど)の位置だけだった。この階段の壁には、その井戸(いど)の状態が刻まれている。どの井戸(いど)が生きていて、どの井戸(いど)観測者(かんそくしゃ)に封じられているか——位置と状態、二つ揃って初めて台帳は使える」


 「全部読めたか」


 「生きている井戸(いど)の側は、ほぼ拾った。白に食われたのは主に封印側の情報だ。……どこが封じられているか分からないというのは、地図に罠の位置が載っていないのと同じだが」


 久遠(くおん)の声にわずかな悔しさが混じった。失われた三割は、永遠に戻らない。


 おたまは、今度は先頭にいた。広場の白い地下には降りなかった猫が、この階段は迷いなく上っていく。白くなった段の上を、猫の足だけが平気で渡る。踏まれた白が、一瞬だけ薄れて、灰色の石の記憶を覗かせた。


 あさひが前を歩いていた。段差を読み、足場を選び、二人が安全に上れる速度を維持している。高い段は手を使って上り、低い段は二段飛ばしで。振り返らない。久遠(くおん)が読み終えるまで、足を止めない。あさひの大きな背中が、白い壁と灰色の壁の境界線の上に立っている。


 白い領域が下りてきていた。


 十段先だったものが、五段先に迫っている。漂白(ひょうはく)の速度が上がった。三人が近づいたことで、(ことわり)が反応したのかもしれない。記録を読み取ろうとする存在を感知して、消去の速度を上げている。


 こよいの足元で石が(きし)んだ。段の表面に亀裂(きれつ)が走り、そこから冷たい粉が噴き出す。記録が消された石は(もろ)くなる。踏むたびに崩れそうだった。こよいは足を置く場所を選びながら、壁の灰色の部分だけを踏んだ。白くなった石は信用できない。


 巾着(きんちゃく)が熱くなった。神々が警告を打つ。名前たちが漂白(ひょうはく)の気配に反応して、布の中で身を縮めている。


 「……上がすぐそこまで白い。あと三段で追いつかれる」


 「充分だ」


 久遠(くおん)目録(もくろく)を閉じた。


 「座標(ざひょう)は写し取った。ここは通過する。上で何が消されても、もう手元にある」


 あさひが速度を上げた。石段(いしだん)を二段ずつ蹴って上る。こよいも続いた。白い壁が迫ってくる。冷たい。白さそのものが冷気を帯びていた。白に触れると、肌の表面が粟立(あわだ)つ。記録が消えるときの温度は、氷よりも冷たかった。


 最後の三段を駆け上がったとき、背後の石が音もなく白くなった。


 振り返ると、階段の下半分が全て白い壁に変わっていた。文字もなく、色もなく、何もない白。戻る道はない。三人が上ってきた足跡も、すべて消されている。


 「前だけだ」


 あさひが布包みの剣の石突(いしづき)で地面を叩いた。くぐもった、だが確かな音がした。まだ石がある。まだ記録がある。音が返ってくるということは、ここにはまだ情報が残っている。


 久遠(くおん)目録(もくろく)を胸に抱えた。(ページ)に写し取った座標(ざひょう)が、蒼光(そうこう)余韻(よいん)でかすかに光っている。七割の座標(ざひょう)が、紙の上で生きている。


 白い壁の上で、三人の足音だけが続いた。振り返ることはもうしない。白に呑まれた記録はもう取り戻せない。記録が残る前方だけを見据えて、足を運んだ。


 位置と、状態。二つ揃った帰還の台帳が、目録(もくろく)の中で静かに重さを増している。三十八柱の帰り道は、もう手探りではない。台帳に載った生きた井戸を、西から順に巡ればいい。

 最初の行き先は、影の海図が示していた西の線の先——波里(なみざと)だった。

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