第328話 漂白の階段
階段は歪んでいた。
一段ごとに高さが違う。膝まである段の次に、紙一枚分の段。踏み出すたびに身体の重心が崩れ、足首が悲鳴を上げた。靴底が石の角に当たり、その衝撃が膝を通じて腰に響く。
こよいは最初の一段に足を置いたとき、靴底を通して振動を感じた。この階段を上った者たちの足跡が、石の中にまだ残っている。微かで、古い。踏み込むたびに、その振動がこよいの足裏に伝わり、巾着の中の神々を揺らした。振動は一様ではなかった。軽い足音の残響と、重い足音の残響が、石の中で層になって積み重なっている。何人もの足が、この歪んだ階段を上ったのだ。
上を見た。
十段ほど先から、空間の色が変わっていた。灰色の石壁が、端から白くなっている。漂白だ。記録が消されていく。白の縁が灰色の石に食い込み、じわじわと下りてきている。水が砂に滲み込むように、白が石の色を呑み込んでいく。
「上で削られてる。俺たちが上るより速い」
久遠が義眼で上方を見ていた。蒼光が白い壁に触れ、弾かれるように戻ってきた。白い壁は蒼光を反射しない。吸い込みもしない。ただ弾く。情報を受け付けない壁になっている。
「石に刻まれた記録を、理が上から順に消している。このまま上れば、十段先で何もなくなる」
「止められるか」
「止められない。だが読める。消される前に、蒼光で文字を拾える」
久遠は階段を上りながら、義眼の出力を上げた。蒼光が石の表面を走り、消えかけの文字を照らし出す。文字が浮かぶ。一瞬だけ。蒼光が通過した端から、白く塗り潰されていく。光が文字を読み取った瞬間に、文字が消えていく。まるで読まれることを待っていたかのように、蒼光に触れた順に白くなっていった。
久遠の指が目録の上を走った。読み取った文字を、消される前に書き写している。片手で頁を押さえ、片手で筆を動かし、足は止めない。三つの動作を同時にこなしている。筆の先が紙面を叩く速さは、普段の久遠の三倍はあった。
額に汗が浮いた。義眼の光が明滅する。情報を読む速度が、消される速度にぎりぎりで追いついている。義眼の周囲の皮膚が赤くなり始めていた。出力を上げた反動が、生身の組織に負荷をかけている。
「……帰還の台帳の、続きだ。広場の下で取った台帳は井戸の位置だけだった。この階段の壁には、その井戸の状態が刻まれている。どの井戸が生きていて、どの井戸が観測者に封じられているか——位置と状態、二つ揃って初めて台帳は使える」
「全部読めたか」
「生きている井戸の側は、ほぼ拾った。白に食われたのは主に封印側の情報だ。……どこが封じられているか分からないというのは、地図に罠の位置が載っていないのと同じだが」
久遠の声にわずかな悔しさが混じった。失われた三割は、永遠に戻らない。
おたまは、今度は先頭にいた。広場の白い地下には降りなかった猫が、この階段は迷いなく上っていく。白くなった段の上を、猫の足だけが平気で渡る。踏まれた白が、一瞬だけ薄れて、灰色の石の記憶を覗かせた。
あさひが前を歩いていた。段差を読み、足場を選び、二人が安全に上れる速度を維持している。高い段は手を使って上り、低い段は二段飛ばしで。振り返らない。久遠が読み終えるまで、足を止めない。あさひの大きな背中が、白い壁と灰色の壁の境界線の上に立っている。
白い領域が下りてきていた。
十段先だったものが、五段先に迫っている。漂白の速度が上がった。三人が近づいたことで、理が反応したのかもしれない。記録を読み取ろうとする存在を感知して、消去の速度を上げている。
こよいの足元で石が軋んだ。段の表面に亀裂が走り、そこから冷たい粉が噴き出す。記録が消された石は脆くなる。踏むたびに崩れそうだった。こよいは足を置く場所を選びながら、壁の灰色の部分だけを踏んだ。白くなった石は信用できない。
巾着が熱くなった。神々が警告を打つ。名前たちが漂白の気配に反応して、布の中で身を縮めている。
「……上がすぐそこまで白い。あと三段で追いつかれる」
「充分だ」
久遠が目録を閉じた。
「座標は写し取った。ここは通過する。上で何が消されても、もう手元にある」
あさひが速度を上げた。石段を二段ずつ蹴って上る。こよいも続いた。白い壁が迫ってくる。冷たい。白さそのものが冷気を帯びていた。白に触れると、肌の表面が粟立つ。記録が消えるときの温度は、氷よりも冷たかった。
最後の三段を駆け上がったとき、背後の石が音もなく白くなった。
振り返ると、階段の下半分が全て白い壁に変わっていた。文字もなく、色もなく、何もない白。戻る道はない。三人が上ってきた足跡も、すべて消されている。
「前だけだ」
あさひが布包みの剣の石突で地面を叩いた。くぐもった、だが確かな音がした。まだ石がある。まだ記録がある。音が返ってくるということは、ここにはまだ情報が残っている。
久遠が目録を胸に抱えた。頁に写し取った座標が、蒼光の余韻でかすかに光っている。七割の座標が、紙の上で生きている。
白い壁の上で、三人の足音だけが続いた。振り返ることはもうしない。白に呑まれた記録はもう取り戻せない。記録が残る前方だけを見据えて、足を運んだ。
位置と、状態。二つ揃った帰還の台帳が、目録の中で静かに重さを増している。三十八柱の帰り道は、もう手探りではない。台帳に載った生きた井戸を、西から順に巡ればいい。
最初の行き先は、影の海図が示していた西の線の先——波里だった。




