第327話 名の帰還
広場の石畳には、罅が入っていた。
凍った通りを抜けた先にある広場は、温かかった。足裏に伝わる石の温度が、さっきまでの凍てついた路面とは明らかに違う。だが温かさの中に、亀裂がある。石畳の表面を走る細い線が、広場の中央に向かって放射状に伸びていた。
亀裂の底は暗い。光がない。
凍った通りの氷の中で見た名前の光は、ここには届いていなかった。
「温かいのに、割れてるな」
あさひが足元を見ながら言った。大剣の石突で石畳を軽く突くと、鈍い音が返った。空洞ではない。だが、密度が均一でもない。何かが抜けた後の、詰まりきれない石の響き。
久遠が広場の端まで歩き、亀裂の先端を義眼で追った。蒼光が石畳を透過し、地下の構造を映し出す。
「この下に空間がある。凍った通りから流れ込んだ冷気が、地下で溜まっている。温かい石畳と冷たい地下の温度差で、石が割れた」
「名前は」
「ない。ここは保管場所ではない。通路だ。凍った通りと、この先の階段を繋ぐ中間地点にすぎない」
こよいは広場の中央で四方を見回した。北に凍った通りの入口。南に石段の降り口。東西の壁には窓のない建物が並び、その壁面に、かすかな跡がある。
「久遠くん。あの壁に何か」
久遠が振り返り、蒼光を壁に当てた。石の表面に、何かが刻まれた痕跡がある。だが文字ではない。文字になる前の、線の集合だった。縦線、横線、斜線が重なり合い、何かを形作ろうとして途中で止まっている。
「下書きだ」
久遠が目を細めた。
「名前の下書き。刻もうとして、完成しなかった。ここに名前を定着させようとした者がいたが、凍結が始まる前に中断された」
こよいは壁に近づいた。指先で線をなぞる。石は温かい。温かい石の上で、名前になれなかった線が残っている。完成していれば名前だったもの。あと数画で、誰かの名前になっていたかもしれないもの。
胸の奥が軋んだ。
巾着の中で神々が反応した。雨の神が一度だけ強く脈打ち、風の神が布の内側で微かに身じろぎした。名前になれなかった線に、神々が何を感じているのか。こよいには分からなかった。ただ、温度が変わった。巾着の温もりが、壁に向かって偏った。
「こよい」
あさひが呼んだ。
南の石段の降り口に立っている。
「見ろ。下が変だ」
こよいは壁から手を離し、あさひのそばに行った。石段は狭く、急で、暗い。下に何があるのか見えない。だが、暗闇の底から白い光が上がってきている。冷たい光だった。凍った通りの氷の光とも違う。もっと強く、もっと均一な白。
「漂白だ」
久遠が背後から声を出した。広場を横切り、石段の縁に片膝をついている。義眼の蒼光を下に向け、白い光の正体を測る。
「下から漂白が上がってきている。あの白は、記録を消す力だ。階段を降りれば、漂白の領域に入る」
「降りるしかねえんだろ」
あさひの問いは確認ではなく、覚悟だった。
久遠が頷いた。
「この先に座標がある。名前たちが帰るべき受け皿——各地の生きた井戸の位置の一覧だ。星野で降りなかった三十八柱を還すには、次の受け皿の場所が要る。避けては通れない」
こよいは石段の一段目に足をかけた。石は冷たくない。広場と同じ温もりがまだ残っている。だが二段目は少し冷たく、三段目はさらに冷たかった。降りるほどに温もりが抜けていく。広場の温かさが、ここまでしか届いていない。
「久遠くん。漂白に触れたら、どうなるの」
「色が消える。次に名前が消える。最後に輪郭が消える。その順番だ」
「速いの」
「漂白の濃度による。薄ければ時間がかかる。濃ければ一瞬だ」
こよいは巾着を胸に抱えた。神々の脈動が速くなっている。怯えではない。備えだ。四柱がそれぞれの力を巾着の内側に集め、壁を作ろうとしている。
おたまは、石段の降り口の縁に座って動かなかった。白い光を見下ろす猫の目が、珍しく細くなっている。今回ばかりは、先導しないつもりらしい。降りるべきではない、と言っているのか——それとも、猫には要らない道なのか。
あさひが先に降り始めた。大剣を背に負い直し、片手を石壁に添えて、一段ずつ確かめるように足を下ろしていく。
「来い。速く降りて、速く済ませて、速く戻る。それだけだ」
あさひの声は硬いが、迷いがない。こよいはその背中を追った。久遠が最後に続く。
石段を十段降りたところで、温もりが完全に消えた。石壁に添えた指先が冷え、吐く息が白くなった。だが凍てついた通りの冷たさとは質が違う。あの冷たさは閉じ込めるものだった。ここの冷たさは奪うものだった。体温を、色を、輪郭を。
白い光が強くなった。石段の下方から差し込む光が壁に反射し、三人の影が上に長く伸びている。影の輪郭が微かにぼやけている。漂白が、影の端から侵食を始めている。
こよいは袖を見た。藍色の布地が、少しだけ薄くなっている。気のせいかもしれない。だが巾着の温もりが、袖に向かって偏った。神々が布地の色を守ろうとしている。
「走れ」
久遠が言った。
三人は石段を駆け下りた。足音が白い空間に吸い込まれ、反響もなく消えていく。白い光の中へ、一段ずつ深く潜っていく。
階段の終わりが見えた。最後の段を飛び降りると、足元は白い石の床だった。広い空間。天井は高く、壁は見えない。全てが白い光に満ちている。
その白の中に、文字が浮かんでいた。
白い床に、白い文字。見えるはずがないのに、見える。文字が床と微かに異なる白で書かれていて、角度によって読める。座標だった。
久遠が膝をつき、義眼を床に押し当てた。蒼光が白い文字を走査し、目録の頁に転写していく。蒼光が触れた場所から、白い文字が消えていく。読み取ると同時に消える。一度きりの記録だった。
「急げ。漂白が濃くなってる」
あさひが周囲を見回した。白い光の密度が上がっている。壁がないと思ったのは、白い光が壁を覆い隠していただけだった。光が薄くなった一瞬、遠くに石壁の輪郭が見えて、すぐにまた白に呑まれた。
こよいの袖の色が、確実に薄くなっていた。藍色が水色に近づいている。巾着が熱い。神々が全力で内部を守り、余力をこよいの衣服に分けている。
「七割、取った」
久遠が立ち上がった。目録を胸に抱え、義眼の蒼光を消す。
「残りは」
「消えた。漂白が先に食った。戻るぞ」
三人は石段を駆け上がった。
白い光を背に、一段ごとに温もりが戻ってくる。広場に飛び出したとき、石畳の温度がこれほど有り難いと思ったことはなかった。
こよいは袖を確認した。色は戻りかけている。薄くなった藍色が、広場の温もりの中でゆっくりと濃さを取り戻していく。
久遠が目録を開いた。転写した座標が、蒼い光の中で脈打っている。
「七割だが、次の場所の位置は特定できた。南だ」
久遠は頁を指で押さえた。
「これは、ただの座標の羅列じゃない。名前がどこへ帰れるか——帰還先の受け皿を列挙した、帰還の台帳だ。名の帰還は、この台帳に沿って進めることになる」
あさひが南を見た。石段の降り口は、まだ白い光を吐き出している。だがその向こうに、別の道がある。
「歪んだ階段だ。あの先に、次の手がかりがある」
こよいは巾着を握り直した。神々の脈動は落ち着きを取り戻しつつある。漂白の中を生き延びた四柱が、こよいの掌の中で静かに呼吸を整えている。
広場の亀裂を踏み越え、三人は南へ向かった。




