第325話 波の入口
停車場に降り立ち、金色の糸の集まる方角へ急ぐと、石碑の広場はすぐだった。
星野の地面が、覚えていた。
前に写本を並べた場所——石碑の列に沿った地面に、光の跡が残っている。消えていなかった。薄いが、確かに光っている。前よりも広がっていた。光の色は金色で、石畳の灰色の中に細い血管のように浮かんでいる。
光の根が、石畳の隙間を伝って四方に伸びている。根の先端は髪の毛より細く、石の継ぎ目に沿って這うように広がっていた。
こよいは石碑の根元に膝をついた。石の冷たさが膝を通して骨に届く。だが、光の根が通っている場所だけは、冷たさが和らいでいた。巾着を地面に近づけると、光が反応した。前よりも強い。根が巾着の方に向かって伸びてくる。布に触れようとするように、金色の筋が石の隙間を縫って近づいた。
「育ってる」
こよいが声を低くして言った。
久遠が義眼で地面を透かし見た。蒼光が石畳の下の層を照らし、金色の根の広がりを可視化する。根は予想以上に深く、石の表面に見えているのは全体のほんの一部だった。
「堆積層の情報が活性化している。写本を置いたことで、消去された名前の残像が刺激を受けた。残像が残像を呼び、互いに増幅している」
こよいは写本の束を取り出した。五十一枚。紙の束は手の中で微かに震えていた。地面の光に呼ばれるように、紙の繊維が共鳴している。石碑の列に沿って、一枚ずつ並べていく。一枚置くたびに、その下の石畳が微かに光った。あさひが小石を拾い、紙の角に載せた。風で飛ばないように。小石を置く手つきは丁寧で、紙の端を潰さないように指先で位置を調整していた。
光が強くなった。前は微かだった光が、今は石碑の根元をはっきりと照らしている。写本の文字と地面の根が呼応し、光の網が石碑を包み始めた。
「呼ぶ」
こよいが最初の写本の前に座った。名前を読んだ。声に出した。小さな声だった。凍りついた広場に、こよいの声だけが響いた。声は石碑の列を縫って広がり、石の表面を薄く震わせた。
地面の光が跳ねた。一瞬だけ、強く。すぐに戻ったが、確かに反応した。名前が声を聞いた。地面の下で、根が一斉に震えた。
二柱目。三柱目。
こよいは写本を一枚ずつめくり、名前を読んだ。声はかすれていったが、止めなかった。あさひが横に座った。こよいが読んだ名前を、あさひが繰り返した。あさひの声は太く、低い。こよいの声とは全く違う音色で、同じ名前を呼んだ。高い声と低い声が交差するたびに、空気の厚みが変わった。
光が二重になった。二人の声が交差するたびに、地面の光が複雑な模様を描いた。声の重なりが、名前の輪郭を明確にしている。一人の声では曖昧だった形が、二人の声で輪郭を得る。
五枚目を呼んだとき、空から金色の糸が一本、降りてきた。細く、頼りない。風に揺れて何度も途切れそうになる。けれど確かに、空から地面に向かって降りてきている。霧の層を貫いて、金色の光が一筋、まっすぐに落ちてくる。
名前が帰ろうとしている。
糸の先端が地面の光に触れた。光が弾けた。小さな閃光が石碑の根元を照らした。光が消えた後、地面に文字が浮かんでいた。名前だった。石畳の表面に、金色の墨で書かれたように文字が刻まれている。
「一柱、戻った」
久遠の声が掠れた。義眼の蒼光が文字を読み取り、目録に記録していく。
こよいは手を止めなかった。六枚目。七枚目——雨の神の兄の名前。
巾着が熱い。布越しに光が溢れている。名前を呼んだ。
空から二本目の糸が降りてきた。雨の神の兄の糸は他より太く、降りる速度が速かった。巾着の光が糸を引き寄せている。地面に触れた瞬間、石畳が震えた。
二柱目。
こよいの指先が透け始めていた。自分の輪郭が滲んでいるのが分かる。指の向こうに石畳の模様が薄く透けて見える。
止めなかった。八枚目。九枚目。十枚目。
金色の糸が、三本、四本と空から降りてきた。全てが同時ではない。名前を呼ぶたびに、その名前に応じた糸が降りてくる。降りてこない名前もある。声が届かなかったのか、まだ遠いのか。
十一枚目で五柱目が地面に着いた。十四枚目で六柱目。十七枚目を呼んだとき、三本の糸が立て続けに降りてきた。待っていたように。
「一本ずつじゃない。まとまって来る」
久遠が空を見上げた。糸は、寄せては引く潮のように、数本ずつ束になって霧を割ってくる。
「波だ。名前は、波になって帰ってくる。……ここは、その波が最初に打ち寄せる岸——波の入口だ」
九柱。
こよいの手が震えている。声がかすれ、喉が痛い。あさひが代わりに名前を読み上げた。こよいの口が動くのを見て、その形を声にした。文字は読めない。だがこよいの唇の動きを写して、音にした。
二十三枚目で十柱目。二十八枚目で十一柱目。
こよいの肩から先が薄くなっていた。石碑の向こう側が、こよいの腕を透かして見える。
三十一枚目。十二柱目の糸が降りてきた。
三十五枚目。十三柱目。
糸が地面に触れるのと同時に、こよいの身体が大きく揺れた。膝が崩れかけた。
あさひがこよいの肩を掴んだ。
「止めろ」
こよいは首を振ろうとした。あさひの手に力がこもった。
「十三だ。十三戻った。充分だ」
「まだ——」
「お前が消えたら、残りの三十八は誰が呼ぶんだ」
こよいの手が止まった。
三十六枚目の写本を握ったまま、動けなくなった。
おたまは儀式のあいだじゅう、並べた写本の列の外周を、ゆっくりと回り続けていた。夜風が紙をさらおうとするたび、猫がそこにいる側だけ、風が静かになった。
久遠が目録に書き込んでいた。戻った十三柱の名前を、一つずつ記録している。義眼の蒼光が地面の文字を拾い、頁に移していく。
「十三柱。全て着地を確認した。地面に定着している。飛ばない」
久遠は、帰還した十三柱の頁の隅に、小さな点を打った。墨ではない。爪で紙を押した、消えない窪み。どの頁が済み、どの頁が待っているのか——残数は、これで追える。
久遠の声に、安堵が混じった。
石碑の列に沿って、十三の名前が石畳の表面に光っている。前は経蔵のインクの井戸の中にしか存在しなかった名前が、この世界の地面に刻まれている。薄いが、消えない光だった。
巾着の温もりが、肩のあさひの手の温もりと重なった。
こよいは透けかけた指先を、あさひの手の下でゆっくりと握った。指の向こうに石畳が透けている。温かさだけが、まだ確かに残っている。
五十一のうち、十三。残り三十八。
石碑の列に沿って並べた写本が、夜風にかすかに揺れている。地面に刻まれた十三の名前の光が、写本の文字と呼応するように明滅を繰り返していた。




