第250話 砂の際
境界は、線として見えなかった。
だが港では、水が教えてくれる。
霧列車を降りた三人の前に、海図の町の港が広がっていた。潮の匂いが濃い。それなのに波の音が、どこかで途切れている。港の板敷は湿っていて、足を置くたびに木が軋む。こよいの靴底に染みる冷たさが、ここまで乗ってきた列車の振動とは違う種類のものだと伝えてくる。
堤の先で、水面が二つに割れていた。
同じ水なのに、揺れ方が違う。片方は自然にゆらぐ。潮に押され、風に引かれ、ばらばらの間隔で寄せては返す。片方は、一定の周期でだけ揺れる。歯車に噛み合った水のように、正確で、冷たい。
久遠が義眼を細め、蒼光を水面へ落とした。光が水の継ぎ目をなぞり、二つの揺れの境目を照らす。照らされた水面に、蒼い筋が一本走った。筋の左右で、水の色がわずかに違う。片方は潮の緑。片方は、墨を一滴落としたような灰色だった。
「……ここが境だ。海そのものが、記録の継ぎ目になってる」
港の木杭には、古い海図が何枚も干されていた。紙は潮で波打ち、墨が滲んで輪郭を失いかけている。けれど、その滲みの中にだけ残る線もあった。誰かが必死に守ろうとした線だ。こよいは指先で海図の縁に触れた。紙の湿り気が、冷たいのに温もりを持っている。守った人の体温が、まだここにある気がした。
こよいは喉が乾くのを感じた。
「越えたら……どうなるの」
久遠は目録を閉じたまま言う。
「越えた瞬間に、『どっち側の自分か』を決めさせられる」
「決めさせられる、ってことは……」
「固定だ。戻っても、越える前の自分には戻れない」
あさひが堤を叩いた。拳が木を打つ音が、港の静けさに硬く響いた。
「なら、決めてから渡る」
こよいは巾着を抱え、神々の脈を聞いた。雨の神と、他の神々。温度が少しずつ違う。温度差が、境の匂いを作っている気がした。
潮の匂いの奥に、紙と鉄の匂いが混じる。港なのに、停車場みたいな匂い。始まりと終わりが入り混じった場所の匂いだ。
こよいは堤の縁に立ち、水面の継ぎ目を見つめた。二つの揺れの間に、ほんの一瞬だけ水が止まる場所がある。どちらにも属さない隙間。その隙間に、自分の足を置こうとしている。
「……ぼくは、助ける側にいる」
こよいが言い切った。声が港の空気を震わせた瞬間、胸の奥で何かが定まった。迷いが減ったのではない。迷いの形が、一つの方角を向いた。
久遠が小さく息を吐く。
「……それでいい。決めた言葉は楔にもなるが、盾にもなる」
あさひが先に境へ足を置いた。水面の揺れが、足元で一瞬止まる。止まったのに、落ちない。境が、橋として固まった。あさひの重さを受け止めた水面が、薄い氷のように白く光る。
「来い」
あさひが手を差し出した。掌が潮風で冷えている。
こよいはその手を掴み、境へ踏み出す。冷たい。水の冷たさじゃない。選択の冷たさだ。骨の芯まで通る冷たさが、こよいの足首から膝を這い上がる。
境に足を置いた瞬間、耳の奥で小さな確認音が鳴った気がした。誰かが帳面を閉じる音。判を押す音。それが体の内側で反響して、やがて静かに消えた。
こよいは、あさひの手を握り直した。久遠の足音もすぐ後ろに重なる。三人の歩幅が揃うと、確認音は薄れた。固定される前に、固定の形を自分たちで作る。
久遠が最後に渡る。義眼の蒼光が、境の線を最後まで追った。三人が渡り終えた瞬間、背後で水面が小さく弾けた。橋だったものが、ただの水に戻る音だった。
おたまは、まだ向こう岸に残っていた。
そして、橋のなくなった水面を、当たり前の顔で渡ってきた。境は、猫には何も尋ねなかった。決めさせられることも、固定されることもない。どちら側の自分か——その問いが、最初から猫には向けられていなかった。
渡り終えたおたまは、一度だけ身体を振るった。毛の先まで、乾いたままだった。
境を越えた側の港は、同じ港なのに、色が少し違った。潮の匂いが薄い代わりに、紙の匂いが強い。干された海図の一枚が、風もないのに一度だけ捲れた。裏面に、誰かの走り書きが見えた。
『名を呼ぶな。名を付けろ。付けた名は、道になる。』
こよいはその言葉を読み、胸の奥で小さく反芻した。呼ばない。付ける。奪われる前に、自分たちの手で。
久遠は海図の走り書きを義眼で照らし、目録の余白に線だけを写した。文字ではなく、形だけを。
あさひは堤の縁に立ち、越えてきた境を振り返った。水面の揺れは、もう二つに割れていなかった。ひとつの揺れに戻っている。
「……戻れねえな」
あさひの声に、後悔はなかった。確認だった。自分の足が踏んだものの重さを、声にして確かめている。
「戻る必要がない」
久遠が短く言った。目録を懐に仕舞いながら、一度だけ境のあった方角を見た。もう継ぎ目は見えない。
こよいは巾着を押さえた。雨の神の温もりが変わっていた。砂の境にいた頃の、怯えた温もりではない。何かに向かっている温もりだ。前へ進もうとする温もりが、掌を押し返してくる。
「次は、北洲だね」
「ああ。名前を持ったまま隠れている神が、そこにいる」
港の向こうに、見たことのない色の霧が広がっていた。砂の境の白い霧とは違う。少し青みがかった、深い色の霧だった。霧の奥に、陸地の輪郭がかすかに見える。まだ形しか分からない。けれど、そこに何かがあることだけは確かだった。
こよいは一歩踏み出した。靴底に返る地面の感触が、砂の境とは違った。砂ではない。硬い土だ。踏むたびに、乾いた音が返ってくる。地面が、こよいの重さを拒まなかった。受け入れている。ここを歩いていい、と言っている。
あさひが肩を回し、首を鳴らした。長い旅路の疲れを振り払うように。
久遠が目録を開き、最後の頁の余白に、今日の日付だけを書き込んだ。文字は小さく、けれど確かだった。
こよいは振り返らなかった。背中に、越えてきた港の気配がまだ残っている。潮と紙と鉄の匂いが、少しずつ薄れていく。代わりに、硬い土と冷えた草の匂いが近づいてくる。
その硬さが、次の旅の始まりを告げていた。




