第249話 灯の距離、再考
中陵の停車場のベンチに座ると、ようやく呼吸が揃った。
木のベンチは冷えていた。座面の節目が太腿に当たり、そこだけ硬い感触が残る。こよいは背もたれに体を預け、肩の力を抜いた。経蔵を出てからずっと張りつめていた筋肉が、ゆっくりと緩んでいく。足首が重い。歩いた距離が、骨の奥に溜まっている。
行灯の火が三つ、霧の中で揺れている。
灯の周囲だけ霧が薄く、小さな輪を作っていた。その輪の外は暗く、停車場の端がどこにあるのか分からない。世界が三つの灯の範囲にまで縮んで、そのぶんだけ静かだった。
こよいはその灯を見ながら、ここまで辿ってきた道を頭の中で繋ぎ直した。
「いっぱいあったね」
ぽつりとこよいが言う。声が霧に吸われて、すぐ隣にしか届かない。それがかえって安心できた。三人の間だけに落ちる言葉は、整理するためのものであって、誰かに聞かせるためのものではなかった。
久遠が目録を膝に置く。灰色に覆われた表紙に、金色の筋が一本だけ残っている。
「月影井戸。氷の聖域。名の重ね。約束の裂け目。経蔵の原本」
指を折りながら数えた。五つ。
久遠の声は淡々としていたが、指を折る動作がわずかに遅い。数えるたびに、そこで見たものの重さを確かめ直しているように見えた。
おたまはベンチの背もたれの上で、北を向いたまま香箱を組んでいる。
あさひが短く息を吐く。ベンチの端に腰を下ろし、腕を組んだまま目を閉じている。経蔵の冷気がまだ服の繊維に残っているのか、時折り肩が小さく揺れた。
「で、残ったのは一つだ」
「最初の神」
こよいが言った。
久遠が頷く。
「始まりを作った者が、まだこの世界にいる。そこに行かない限り、ここまで集めたものは全部、途中の断片のままだ」
霧が濃くなった。行灯の輪が少し縮み、三人の影が近づいた気がした。
久遠は目録の経蔵で復元された頁を開いた。三枚だけが鮮明に残っている。蒼光の薄い照り返しが文字の輪郭を浮かび上がらせ、行灯の火と混ざって頁の上に淡い二色を落とした。
「最初の神は、自分の名前を凍結させず、名を持ったまま他の神々の凍結を命じた。理由は分からない」
「じゃあ、約束を残したのは?」
こよいが訊くと、巾着の中で風の神がかすかに震えた。
「最初に自発的な凍結を選んだ別の一柱だ。目録には、その凍結を前例にして、観測者が制度を作ったとある」
久遠の声の末尾がわずかに沈んだ。義眼の蒼光が行灯の火を掠め、小さく揺れた。経蔵で、壁龕の帳面を読んだときの指の震えを、まだ覚えている。
あさひが目を開けた。
「名前は分かってるのか」
久遠は最後の行を蒼光で照らした。文字が浮かんだ。だが、読み上げなかった。唇が一度動きかけて、止まる。
「声に出せない。この名前には凍結命令の最初の権限が紐づいている。呼べば、経蔵が反応する」
「居場所が割れる」
あさひが言い換えた。
「そうだ。だが場所を特定する方法はある」
あさひは再び目を閉じた。答えを急がない。急いでも変わらないことを、身体で知っている。
久遠はこよいの巾着を見た。
「巾着の中の神たちは、最初の神と同じ場所にいた時期がある。近づけば、神々が教えてくれる」
こよいは巾着を膝の上に持ち上げた。
神々が穏やかに脈打っている。月の峡の約束に触れてから、温もりが変わった。助けを求める温もりではなく、何かを伝えようとする温もりだった。掌を通して、方角を示すように脈が一方向へ傾いている。
「分かったよ」
こよいが巾着に言った。
「あなたたちの本当のことを聞きに行く。怖くても、行く」
雨の神が一つ、強く脈打った。巾着の布越しに温もりが広がり、こよいの掌が一瞬だけ熱くなる。
あさひが立ち上がった。ベンチの木が軋み、霧の中に小さな音が響く。
「方角は」
久遠は目録の金色の筋に触れた。筋が微かに光り、北を指した。
「北だ。北洲の奥に、名前を持ったまま隠れている神がいる」
こよいはその名を反芻した。聞いたことがない。目録に記されているのは、名前と方角だけ——そこから先は、誰も書き込んでいない空白だった。
北。こよいはその方角を体で感じようとした。霧は均一で、どちらが北かは見た目では分からない。だが巾着の脈が、目録の金色と同じ方角へ傾いていた。身体の外と内の両方が、同じ場所を指している。
見えない方角へ歩き出すこと。それが、ここまで辿ってきた五つの断片の先にある、最後の道だ。
行灯の火が瞬いた。霧の奥から、列車の気配が近づいてくる。重い車輪が軌条を踏む振動が、ベンチの脚を伝って腰骨に届いた。まだ姿は見えない。音と振動だけが先に着いて、停車場の空気を少しずつ変えていく。
こよいは三つの行灯を見つめた。三人分の灯。ここに座っていた時間が、灯の数になって残っている。
久遠がベンチから立ち上がり、目録を懐に仕舞った。
「灯の距離、か」
誰にともなく呟いた。
「灯から灯への距離は、歩かないと分からない。地図に描ける距離じゃない」
こよいは頷いた。足首の重さが、少しだけ軽くなっていた。疲労は変わらない。ただ、座っている理由がなくなった。
「だから、行こう」
霧の中に、ぼんやりと灯った車窓が見えた。北へ向かう列車だ。窓の光が霧に滲んで、輪郭のない四角が浮かんでいる。
三人はベンチを離れ、停車場の端に立った。立ち上がった拍子に、ベンチの温もりが太腿の裏から剥がれた。座っていた場所だけが、少しだけ温かかったはずだ。それも霧がすぐに冷ます。
行灯の火が、背中の後ろで三つ揺れている。




