第245話 あさひの剣の行方
北へ向かう前に、確かめることが残っていた。復元された頁の最後の一行が、まだ読み切れていない。経蔵の芯に近づけば、原本との接続が強まる——久遠がそう言い、三人は峡谷から経蔵へ戻った。
正面の門は消えた。だが、霜里の回廊の青い石に刻まれていた裏門の座標が残っている。裏門は、月の峡側の岩壁の低い場所に、ひっそりと口を開けていた。あさひが剣の刃を近づけると、石の閂が共鳴して緩んだ。剣は、やはり鍵だった。
経蔵の回廊を進んでいたとき——先を歩いていたおたまが、突然横へ跳んだ。
その一拍あとに、壁の石組みが軋んだ。
天井の継ぎ目から砂が落ち、足元の床板が微かに傾く。あさひが咄嗟に剣を抜き、崩れかけた石を刃で受け止めた。石の重さが刀身を伝い、柄を握る手首に鈍い衝撃が走る。受けた瞬間、刃の奥で何かが裂ける感触があった。骨が折れる直前の、乾いた振動に似ていた。
石が転がり落ち、砂煙が収まった後、あさひは剣を目の前に掲げた。
刃の中ほどに、新しい亀裂が走っていた。
以前からあった刃こぼれの隣に、細い筋が斜めに入っている。爪で触れると、筋に沿って金属の粉が微かに剥がれた。粉は指の腹に乗ると青みを帯びた灰色をしていて、潰すと冷たかった。あさひは息を吐き、刃を光に透かした。亀裂は表面だけではなく、鋼の奥まで届いている。光が亀裂の内側を通り、刃の裏側に薄い線となって漏れていた。
こよいが傍に寄り、剣の状態を覗き込んだ。
「……割れてる」
あさひは答えず、刃を鞘に戻した。戻すとき、鯉口が微かに鳴る。いつもより高い音だった。鋼が薄くなっている証拠だ。あさひは鞘の上から刃の位置を確かめるように親指を滑らせた。師匠から受け取って以来、握らなかった日はない。手入れの仕方も、抜き方の癖も、全部この剣で覚えた。体の延長のように振るってきた鋼が、今は鞘の中で軋んでいる。
久遠は壁に手を当て、崩れた石組みの断面を義眼で調べていた。蒼い光が石の層を這い、表面に刻まれた紋様を浮かび上がらせる。断面の鉱物が蒼光に反応し、青灰色の粒が砂糖を溶かしたように光を吸い込んだ。
「この石——霜里の回廊で見たのと同じだ。経蔵の基礎を成す鉱が、ここでも使われている」
久遠は振り返り、あさひの腰の剣に目を向けた。あさひも同じものを見ていた。霜里の回廊で、剣と壁の鉱が同じ鉱脈だと分かったときの記憶が、二人の間で無言のまま共有された。
あさひは鞘越しに伝わる震えへ耳を澄ませた。
「鳴ってるか」
「鳴ってる。前より強い。ここは回廊より経蔵の芯に近い分、共鳴が深い」
あさひの指が鞘の上で止まった。壁を見て、剣を見て、もう一度壁を見た。鉱の色が同じだということは、あさひ自身の目でも確かめられた。
沈黙が落ちた。回廊の奥から冷たい風が流れ、三人の髪を揺らした。こよいの巾着の中で神々がわずかに揺れ、壁の鉱石に反応するように温もりが強まった。
「つまり、この剣を経蔵に返せば、基礎が補強される。崩れかけた構造を支える材になる」
久遠の声は平坦だった。事実を述べているだけで、勧めてはいない。だが言葉の重さは、回廊の石壁に跳ね返って三人の足元に溜まった。
あさひは鞘から剣を抜き、亀裂の入った刃を眺めた。光が亀裂に沿って屈折し、刃の影が二つに分かれて壁に映る。指先で亀裂の端に触れ、鋼の冷たさを掌に受けた。冷たさの中に、微かな震えがある。鉱が経蔵の壁と共鳴しているのだと、こよいの肌が先に気づいた。
「……次に強く振れば、折れるな」
「折れる」
久遠が短く認めた。
こよいが一歩前に出た。巾着を握る手に力が入り、声が上ずった。
「でも、剣がなくなったらあさひは戦えないよ。ここから先、何があるか分からないのに」
あさひは剣を鞘に戻し、鯉口をゆっくりと押さえた。
「切れない剣は、ただの重さだ。振っても斬れない。受けても折れる。持ってるだけで判断が鈍る」
「でも——」
「荷物を抱えて走る奴は、荷物ごと沈む」
あさひの声は荒くなかった。怒りでも諦めでもなく、道具の状態を見定める職人の目で、自分の剣を測っている。ただ、鞘を押さえる指先だけが白かった。手放す覚悟と、まだ手放せない指先が、同じ手の上で並んでいた。
こよいは言葉を飲み込んだ。喉の奥に、言いかけた音が硬く残る。あさひの横顔に、迷いはなかった。だが決断もまだしていない。刃を見つめる目は、別れの前の静けさに似ていた。こよいは巾着を抱き直した。雨の神の温もりが指の間から逃げていくようで、手に力が入った。
久遠が目録を開き、経蔵の構造図を指で辿った。
「基礎の損傷箇所は七つある。剣一本分の鉱で、少なくとも三箇所は塞げる。経蔵が安定すれば、凍った記録の解凍もやりやすくなる」
「急がなくていい」
あさひが目録を閉じさせるように、久遠の手の甲に指を置いた。
「今すぐ決める話じゃない。折れるまでは、まだ使える」
その声は静かだったが、指先には鞘を離さない力が籠もっていた。剣を経蔵に返すという選択肢を、否定はしていない。ただ、今日ではないと決めただけだ。
あさひは壁から背を離し、回廊の先に目を向けた。冷たい風が足元を撫で、砂粒が床の上を転がっていく。鞘の中で刃がわずかに揺れ、鯉口が小さく鳴った。亀裂の入った鋼が、歩くたびに経蔵の壁と囁き合うように共鳴している。
こよいはあさひの背中を見つめた。剣の重さを知っている背中だった。腰の鞘が歩調に合わせてわずかに揺れるたび、鯉口の高い音が薄く響く。その重さが消えたとき、何が残るのか。こよいには分からない。分からないまま、巾着を胸に抱いて、あさひの後を追った。
久遠は目録を懐に戻し、二人の後に続いた。義眼の蒼光を落とし、暗い回廊を経蔵の壁が放つ微かな残光だけで歩く。
回廊の壁に映る三人の影が、石組みの亀裂の上を静かに滑っていった。
剣の影だけが、他の影より少し短かった。




