第244話 しおりの記録の最果て
岩室を出て、峡谷のさらに奥へ進んだとき、おたまが足を止めた。
岩壁の窪みの、乾いた砂の上。猫の視線の先に、それはあった。
胸元に仕舞ってある地図の帳面と、同じ革。同じ手の、ひび割れた綴じ。しおりの——もう一冊の帳面だった。誰が、いつ、こんな場所に置いたのか。砂の上に、足跡はなかった。
帳面を開くと、空白が続いた。線があるのに、文字がない。凹凸だけが記録を作り、読むためには温度が要る。
帳面は、革の表紙がひび割れ、綴じ糸がほつれかけていた。持ち上げると、紙の重さよりも時間の重さのほうが手首にかかった。頁を繰るたびに、古い紙の匂いが立つ。甘さのない、乾いた匂い。墨が酸化した匂いに似ていたが、もっと深い場所から来ている。
こよいは巾着を頁の上に置いた。雨の神の温もりで線を浮かび上がらせた。布越しの熱が紙に移り、指先では感じ取れなかった凹凸が影を帯びていく。線は鋭く刻まれたものではなかった。何度も何度もなぞるようにして、紙の繊維を少しずつ押し潰して作られた跡だった。
線は確かに続いている。でも、ある頁で突然、止まった。最後の線。その先に、最果てだけが広がっている。頁の右端から始まった線が、中央を過ぎ、左端に届く手前で途切れていた。途切れた先に何もない。白い紙面が、沈黙のように広がっていた。
「……最果てだ」
久遠が確認するように言った。義眼の蒼光を帳面に落とし、線の途切れた箇所を照らしている。蒼い光が紙の繊維を透かし、最後の線の断面が浮かぶ。筆圧が急に消えたのではない。ゆっくりと、丁寧に、線を置き終えている。
「ここから先は、しおりが『記録しなかった』。……できなかったのか、しなかったのかは分からない」
あさひが帳面の端を指で弾いた。乾いた紙の音が峡谷の岩壁に跳ね返り、小さく反響する。
「記録の終わり、ってことか」
こよいは首を振った。帳面を両手で支え直す。紙が手の体温を吸って、ほんの少しだけしなやかになっていた。
「終わりじゃない。……ここまで持ってきた、ってことだと思う」
空白の頁の角に、ひとつだけ、浅い凹みがあった。指でなぞると、文字の形だ。爪の先でかろうじて触れられる程度の深さで、目では見えない。紙の表面にある微かな起伏を、指の腹だけが読み取る。
こよいは巾着を近づけた。温もりが伝わり、凹みが影を作る。紙の白さの中に、ほんのわずかな陰影が生まれた。巾着の熱が凹みの縁を温め、紙が膨らもうとして、逆に凹みが深くなる。そこに浮かび上がったのは、一行。
『ここから先は、あなたが書く』
こよいは喉が詰まった。息を吸おうとして、吸えなかった。胸の中で何かがつかえている。悲しみではない。もっと手前にある、名前のない感情だった。峡谷の冷たい空気が肺に入り、目の奥が熱くなる。
「……しおりさん」
呼んだ名前は、霧に消えない。帳面の中で、ちゃんと残った。声が紙の上を滑り、凹みの中に染み込むように沈んでいく。しおりという名前の持つ温度が、帳面の繊維に触れたとき、紙がかすかに震えた。震えは指を伝い、手首まで上がって、そこで止まった。
久遠が小さく息を吐く。義眼の蒼光を帳面から外し、峡谷の暗い岩壁に目を向けた。
「記録の最果ては、崖じゃない。……筆を渡す場所だ」
あさひが頷いた。腕を組み、壁に背を預けたまま、帳面に視線だけを落としている。
「渡されたなら、書け」
短い言葉だった。だが、その声にはあさひなりの敬意が混じっていた。しおりが残した最後の一行に対して、あるいはその一行を受け取ろうとしているこよいに対して。
こよいは帳面を閉じ、胸に抱いた。革表紙の硬さが肋骨に当たる。最果ては怖い。でも、最果てに立ったという事実は、ここまで来たという証拠だ。帳面の重さが胸に食い込むたびに、しおりが歩いた距離の分だけ、紙が重くなっているのだと感じた。
しおりの記録の最果て。そこには、続きを押し付ける言葉じゃなく、続きを信じる言葉が残っていた。「書け」ではなく「あなたが書く」。命令ではなく、予言のような、あるいは祈りのような一行。
「……ぼくはまだ上手く言葉にできない」
こよいが小さく言う。声が喉の奥で震えた。指先が巾着の紐を握り、雨の神の温もりを確かめるように力を込めた。
久遠は視線を上げず、指先で帳面の空白を示した。目録を膝の上に置き、しおりの帳面と自分の記録を並べるようにして、空白の面積を見比べている。
「しおりは書ける限り書いた。空白は、書けなかったのではなく、お前のために空けたんだ」
あさひが口の端を上げた。笑みというほどの形ではない。唇の片側がわずかに持ち上がる、あさひ特有の表情だった。
「白紙が怖いなら、最初の一文字だけ置け。あとは勝手に続く」
こよいは帳面を巾着の隣に仕舞った。二つの温もりが重なって、腰のあたりが少しだけ温かくなる。しおりの帳面の紙と、神々の体温。異なる種類の熱が布を隔てて寄り添い、こよいの腰骨に伝わっていく。
帳面を仕舞う手が、わずかに名残を惜しんだ。指が革表紙の端を撫で、それから離れた。
遠くで鉄が擦れた。音は短く、だが消えなかった。列車がまだどこかを走っている証だった。峡谷の壁が音を反射し、擦過音が幾重にも折り重なって耳に届く。列車の車輪と軌道が噛み合う音。この世界がまだ動いている音。
あさひが先に立ち上がり、北を見た。背中側の空気が薄くなっている。戻れなくなる前に、進む方向だけは決めておく必要があった。峡谷の岩肌に苔はない。水の跡もない。ただ、風が削った滑らかな石面が、蒼い光を鈍く反射していた。
こよいは帳面の空白を思い出した。しおりが最後に残した凹み。あの一行の下には、まだたくさんの余白がある。
余白は、怖い。何も書かれていない頁が、こよいの背中越しにこちらを見ている気がした。
でも、白紙であるということは、まだ何も奪われていないということでもある。しおりの線が止まった場所から、次の線を引くのはこよいだ。その覚悟を言葉にする必要はなかった。帳面の重さが腰にある限り、歩くことそのものが答えになる。
三人は立ち上がり、峡谷の奥へ向かって歩き始めた。帳面の余白が、背中の荷物の中で静かに揺れている。岩壁の隙間から冷たい風が吹き込み、三人の髪を後ろへ流した。進む方向から吹く風だった。押し戻そうとしているのか、それとも迎えようとしているのか。
こよいは風に目を細めながら、一歩ずつ、砂利を踏んだ。靴底の下で石が鳴る。その音が、空白の帳面に最初に書き込まれる一文字のように、峡谷の奥へ落ちていった。




