第024話 別れと出発
三日が経った。
傷は、まだ完全には癒えていない。でも、歩けるようになった。
洞窟の入口から、朝の光が差し込んでいる。
こよいは、荷物をまとめた。手が少し震えている。
干し餅。水。予備の包帯。
救助者の少年がくれたものだ。
「……行くのか」
少年の声。
入口の近くに立っている。背中で光を遮っている。
「……うん」
こよいは、立ち上がった。
額の包帯が、少し緩んでいる。巻き直した。
布の端を歯で引き締め、指先で確かめた。きつすぎないか、緩すぎないか。鏡はない。洞窟の暗闇の中で、触れるものだけが頼りだった。
「まだ無理だろう」
「……大丈夫。歩ける」
「傷が開く」
「……でも、いかないと」
こよいは、巾着を握った。
中で、神々が静かに揺れている。
「……あと二つ、届ける場所がある」
「祠の神と、空き地の神」
「この二柱を、ちゃんと届けないと」
少年は、黙っていた。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「……分かった」
少年は、入口から離れた。
道を開けてくれた。
こよいは、洞窟の入口に立った。
外は、明るい。目を細めるほど眩しい。
森の木々が、朝日を浴びている。
洞窟の薄暗さに目が慣れていたせいで、光は痛いほどだった。まつ毛の隙間から、少しずつ外の世界を取り込む。三日ぶりの光は、やさしかった。
振り返った。
少年が、洞窟の奥にいる。
顔は、暗くてよく見えない。
「……ありがとうございました」
こよいは、頭を下げた。
「助けてもらって」
「……気をつけろ」
少年の声は、静かだった。
「観測者が、まだいるかもしれない」
「……はい」
「見つかるな。測られるな」
「……分かりました」
こよいは、もう一度頭を下げた。
そして、歩き出そうとした。
背中に、少年の気配が残っている。名前を知らない人。名前を教えない人。それでも、この三日間、生かしてくれた人。こよいはその無名の温もりを、胸の奥にしまった。
「……待て」
少年の声。
こよいは、足を止めた。
「……名前は」
少年が聞いた。
「お前の名前は」
「……こよい」
「そうか」
沈黙。
それから、少年が口を開いた。
「俺の名前は……覚えなくていい」
「……え」
「忘れた方がいい。名前を知れば、繋がりができる。繋がりは、弱点になる」
こよいは、何も言えなかった。
少年の顔が、影の中に沈んでいる。
「行け」
少年は、静かに言った。
「まだ、届けるものがあるんだろう。行け」
こよいは、頷いた。
振り返らずに、歩き始めた。
◇
森の中を、歩いた。
足元は、昨日までより楽だった。
道が、少しずつ開けていく。
朝の光が木々の隙間を縫って、地面にまだら模様を描いている。鳥の声が、高く澄んで聞こえた。風が吹くたびに、木の葉が光を散らして、森全体がきらきらと揺れている。三日ぶりに見る、穏やかな朝だった。
体は、まだ痛い。
額がずきずきする。左腕も、時々痺れる。でも、歩ける。
歩けることが、嬉しかった。
左腕をそっと前に伸ばす。指先まで力が届くか、確かめる。腫れは引いていたが、急に握ると骨が軋む。杖はない。自分の足で、自分の体重を支えるしかない。
「……いたい?」
祠の神の声。
「……少しだけ」
こよいは、正直に答えた。
「……でも、歩ける」
「……むりしないで」
空き地の神の声。
「……やすんで、いいよ」
「……ありがとう」
こよいは、巾着を握った。
温かい。神々が、心配してくれている。
「……ねえ」
歩きながら、こよいは話しかけた。
「……一緒に逃げたね」
「……うん」
祠の神の声。
「……こわかった」
空き地の神の声。
「……でも、逃げ切った」
「……うん」
「……きみが、はしってくれた」
「……ぼくたちも、いっしょに、にげた」
こよいは、小さく笑った。
一緒に逃げた。一緒に生き延びた。
それだけで、何かが変わった気がした。
巾着を通じて伝わる温もりが、手のひらに広がっていく。以前は、ただ重いだけだった巾着が、今は違う。確かな信頼の証のように感じられた。
あの時、洞窟の中で、神々はただ震えていた。いまは、こよいの声に応える。言葉が通じる。その変化だけが、この先へ歩く理由だった。
「……まだ、一緒に行ってくれる?」
こよいは聞いた。
「……うん」
祠の神の声が、すぐに答えた。
「……いっしょに、いく」
空き地の神の声も。
「……あと二つ、届ける場所がある」
こよいは、前を向いた。
「祠の神の場所と、空き地の神の場所」
「ちゃんと、届けるから」
巾着が、少しだけ重くなった。
温かい重さ。信頼の重さ。
こよいは、それをしっかりと受け止めた。
◇
しばらく歩くと、木々が疎らになってきた。
光が増えている。空が見え始めている。
森の出口が、近い。
風の匂いが変わった。森の苔の匂いから、冷たく重い空気へ。どこか底深い場所からの風が、足元を掠めていく。
一歩、また一歩。
木々の間を抜けていく。
そして。
視界が、開けた。
前方に、谷が見えた。
深い谷。底に、霧がかかっている。
白い霧が、谷底を覆い尽くしている。
「……あれは」
こよいは、立ち止まった。
「……なのないたに」
祠の神の声が、囁いた。
「……名前が溶ける場所」
「……だいにきょうかいへの、みち」
空き地の神の声が続いた。
「……あそこを、こえる」
名無しの谷。
長が言っていた。第二境界へ行くには、谷を越えなければならない。
あの谷を。
巾着が、少しだけ冷たくなった。
神々も、緊張している。でも。
こよいは、谷を見つめた。
霧が揺れている。風が、谷底から吹き上がってくる。
冷たい風。でも、不思議と恐怖はなかった。
見つかるな。測られるな。少年の言葉が、蘇る。谷は、観測者の手が及びにくい場所だと、神々の声から分かっていた。ここで立ち止まれば、残りの二柱は永遠に届かない。
「……行こう」
こよいは、言った。
「あの谷を越えて、届けに行こう」
「……うん」
祠の神の声。
「……いっしょに」
空き地の神の声。
こよいは、一歩を踏み出した。
第二境界への道が、見えていた。




