第189話 あさひの帰郷
制御室を発つ朝、燈真は入口の柱に背を預けたまま見送った。
「ここの管理は引き受ける。再設計の下書きが終わるまでは、この部屋を離れない」
久遠は短く頷き、目録の余白に書き足した旅程を確かめた。目的地は燈真が路線図に印を付けた霜里——だが霧列車の路線は、まず南の乾いた土地を大きく回る。あさひの故郷に近い乾燥地帯だった。三人は霧列車の始発に乗り、制御室を後にした。
霧列車が止まると、車体の軋みだけが長く残った。
蒸気が抜ける音。鉄と砂の混じった空気が、開いた扉から流れ込む。
乾いている。
こよいは一歩踏み出し、足裏の感触に目を伏せた。砂だ。粒が細かく、靴底の隙間に入り込む。中陵の硬い石畳とは何もかもが違う。風は温く、鼻の奥を乾かし、唇がすぐにかさついた。舌で湿しても追いつかない。空気そのものが水分を奪いにくる。
あさひが動かない。
扉の前で立ち止まったまま、遠くを見ている。地平線の上に横たわる低い丘陵。稜線は削られたように平らで、その手前に枯れた灌木がまばらに散っていた。灌木の影は短く、真昼の日差しが容赦なく地面を叩いている。
「知ってるのか」
久遠が訊いた。
あさひは答えなかった。代わりに、鼻から深く息を吸った。乾いた草と、焼けた石と、かすかに甘い土の匂い。吸い込んだ空気が肺の底まで届いて、あさひの喉仏がゆっくり上下した。
「……ここ、歩いたことがある」
声が低い。いつもの荒さが削げ落ちて、むき出しの石みたいな声だった。
こよいは黙ってあさひの横顔を見た。頬の筋が一本、細く引き攣っている。剣の柄に置いた手は力が入りすぎて、指の関節が白い。目は開いているのに、どこも見ていないような顔だった。見ているのは今の景色ではなく、ずっと前にここにあったものだ。
霧列車が背後で音を立てた。蒸気を吐き、車輪が軋み、ゆっくりと動き出す。三人と、最後に降りた一匹を残して。おたまは錆びた標柱の上に飛び乗り、あさひが見ているのと同じ方角を、じっと見ていた。停車場には屋根もなく、その標柱が一本だけ立っていた。文字は風に削られ、読めない。標柱の根元に砂が吹き溜まり、半分ほど埋もれている。あと数年もすれば、柱ごと砂の下に消えるだろう。
あさひが先に歩き出した。
迷いのない足取りだった。砂を踏むたびに乾いた音がして、それがこの土地に響く唯一の人の気配だった。道は二手に分かれ、右は丘の裾を巻くように緩く曲がり、左は枯れ谷の底へまっすぐ降りていく。分岐点に、根ごと枯れた木が一本倒れていた。幹は白く乾き、樹皮が紙のように剥けている。あさひは立ち止まり、左を指差した。
「こっちだ」
理由は言わない。こよいは訊かなかった。あさひの足が覚えている道なのだと、背中が語っていた。
久遠が目録を開いた。義眼の蒼光が頁を走る。
「記録が薄い。この一帯の名前は、ほとんど蒸発している」
「蒸発?」
「凍結ではない。熱で乾いて、散った。砂と一緒に」
風が吹いた。砂粒が頬に当たり、かすかに痛む。その砂の中に、名前の欠片が混じっているのだとしたら、この風は誰かの記憶の残骸だ。
こよいは巾着を押さえた。布越しに神々の温もりを感じる。いつもより静かな脈動だった。眠っているのではない。耳を澄ませている、という感じがした。
あさひの歩幅が広い。こよいは小走りで追いかけた。走ると砂が靴の中にまで入り、足指の間でざらつく。久遠は目録を閉じ、無言で後に続く。三人の影が砂地に落ち、風が吹くたびに輪郭を薄くした。
枯れ谷の底には、石が敷かれていた。古い。角が丸く、隙間に砂が詰まっている。かつて誰かが道として整えたものが、使われなくなってから長い時間が経っている。石の表面に、日焼けの跡が層をなしていた。何十年分もの陽光が、石の色を白茶に変えている。
あさひが歩調を緩めた。
立ち止まりはしない。ただ、一歩ごとに足裏で石の感触を確かめるように歩いている。踏み慣れた道の記憶を、靴底で掘り起こしている。
「あさひ」
こよいが呼ぶと、あさひは振り返らずに言った。
「ガキの頃、ここを走った。裸足で」
それだけだった。声は乾いていたが、乾き方が砂とは違う。喉の奥で何かを堪えている乾きだった。こよいは何か言おうとして、やめた。今のあさひには、言葉より沈黙のほうが正しい。
風が谷底を抜けていく。砂が舞い、あさひの足跡を薄く埋める。消えかけた名前のように。
こよいはあさひの背中を見つめた。広い背中。剣を背負い、肩を張り、まっすぐ前を向いている。けれどその背中が、今だけはどこか小さく見えた。日差しの中を歩いているのに、影が薄い。この土地の光が、あさひの輪郭まで削ろうとしているようだった。
巾着が一度だけ、静かに脈を打った。
谷の向こうに、崩れた石垣の列が見えた。家の土台だけが残り、名前を失った集落の骨格が、乾いた風の中で黙っている。かつてここに竈があり、軒先に洗濯物が揺れ、子供の声が谷に響いていたのだろう。今はどれも砂の底だ。あさひはそれを見ず、足元の石だけを見て歩いた。
石垣の隙間に、枯れた蔓が巻きついている。
蔓の根元に、欠けた壺の破片が転がっている。日に焼けて白く、触れば崩れそうなほど脆い。誰かの暮らしの名残が、土に半分埋もれたまま風化している。
久遠は歩きながら、義眼で石垣を走査した。
「記録の残存率はほぼゼロだ。ここに住んでいた人々の名前は、一つも残っていない」
あさひの肩が小さく揺れた。振り返らない。ただ、歩く速度がわずかに落ちた。
こよいは石垣の上に手を置いた。石は乾いて温かく、日差しの熱を溜めている。けれどその温もりの中に、人の気配はない。ただの石の熱だ。指を離すと、指先に砂の粉がついていた。白い粉。骨のようだと思って、こよいは手を服で拭った。
あさひの足が止まった。
谷の出口に当たる場所で、道が細くなっている。両側の岩壁が迫り、隙間から向こう側の光が細い帯になって地面を照らしていた。岩の表面には細かな傷がついていた。子供の手で刻まれたような、不揃いの線。数を数えた跡か、遊びの名残か。あさひはその光の帯を見下ろし、長く息を吐いた。
「行くぞ」
短く言い、狭い隙間に身体を入れた。岩肌が剣の鞘を擦り、乾いた音が谷に反響した。
こよいは岩壁の傷に一瞬だけ指を触れた。線は浅く、爪で引いたような太さだった。指先に残る感触は、砂ではなく石の冷たさだった。ここだけが日陰で、谷の中で唯一、熱から逃れている場所だった。
久遠が小さく呟いた。
「帰郷か」
あさひは答えなかった。狭い隙間の向こうへ、すでに半身を消している。
石を踏む音だけが、谷底に短く響いて、砂に吸われて消えた。
こよいは乾いた空気を深く吸い、あさひの後を追った。
隙間を抜ける瞬間、岩壁の傷が目の端に入った。子どもの引いた線の隣に、もう一組、深い線がある。刃物の跡だ。誰かが、同じ場所に、あとから刻んだ。あさひはその傷を見なかった。見なかったことが、答えのようにも思えた。




