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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第6章 影の計量

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188/344

第188話 しおりのいない朝

挿絵(By みてみん)


朝、こよいは一番に目を覚ました。


 制御室(せいぎょしつ)の外は薄曇(うすぐも)り。窓から差し込む光は白く、影がない。風は弱く、音も少ない。昨日の休息日の余韻が、まだ空気に残っている静かな朝だった。壁の主盤(しゅばん)が淡い青で脈打ち、その光だけが部屋の中を動いている。


 こよいは毛布から出て、炉に残り火を起こした。炭を掻き寄せ、息を吹きかけると、赤い光が炭の中に広がった。薬缶(やかん)に水を足し、湯を沸かす。噴水の水量は少しだけ増えていた。六滴になっている。昨日より二滴多い。再生が、一滴ずつ進んでいる。器の底で六つの水滴が寄り集まり、小さな水溜(みずたま)りを作っていた。


 湯が沸く間に、帳面を開いた。机の上に広げ、筆を取る。インク壺の(ふた)を開け、筆先を浸す。

 いつもなら、向かい側にしおりがいて、最初の一行を先に書いてしまう。こよいが目を覚ます前に、しおりは日付と天気を書き終えている。帳面を開くと既に一行目が埋まっていて、こよいはその続きから書けばよかった。始まりをしおりが作り、続きをこよいが書く。それが二人の習慣だった。二人で一冊の帳面を分けていた頃の、当たり前の朝。


 今日は一行目が空白だ。

 しおりのいない朝。


 こよいは空白の一行をしばらく見つめた。筆を持ったまま、紙に触れない。白い紙の上に、罫線(けいせん)だけが薄く引かれている。何を書けばいいか分からない。日付を書けばいい。それは分かっている。でも日付を書く前に、一瞬だけ迷う。しおりならどう書いただろう、と考えてしまう。しおりの字は丸く、溜めがあり、日付の後に必ず半角分の余白(よはく)を取った。その余白(よはく)の幅まで覚えている。


 あさひが起きてきた。毛布をたたまず、肩を回しながら制御室(せいぎょしつ)に入ってくる。首の骨が鳴る音がした。こよいの手が止まっているのを見て、椅子を引いた。


 「難しい顔してるな」


 こよいは苦笑した。唇の端だけが上がる、薄い笑い。


 「しおりさんがいないと、書き出しが遅い。最初の一行が一番重いんだよ。一行目が決まれば、あとは流れるのに」


 あさひは向かいに座り、脚を組んだ。朝の光が横顔を照らしている。頬の傷跡(きずあと)が白く光った。


 「遅くていいだろ。速さはあいつの担当だった。お前は正確さ担当だ。正確な人間が速く書く必要はない」


 簡潔で、的確だった。あさひはいつも、余計な慰めを言わない。事実だけを言う。それがこよいには一番楽だった。


 久遠(くおん)も起きてきて、目録(もくろく)を机へ置いた。義眼(ぎがん)はまだ灯していない。朝はいつも、地の目で世界を見る時間を取っている。目蓋(まぶた)が少しだけ()れていた。昨夜、義眼(ぎがん)を使いすぎた(あと)だ。


 「書き出しが遅い日は、日付から書け。内容は後でいい。まず形式を埋める。それが手順だ」


 手順。久遠(くおん)らしい助言だった。感情ではなく手順で動く。迷う時こそ、決まった形から入る。形が感情を引き出してくれる。


 こよいは(うなず)き、日付を書いた。筆が紙に触れる音がする。インクが繊維(せんい)に染みていく。紙が墨を吸う(かす)かな音。その音を聞くだけで、指が動き始める。

 次に天気。薄曇り。

 次に現在地。中陵(ちゅうりょう)心臓空洞(くうどう)隣接、旧制御室(せいぎょしつ)


 書き始めると、手が少しずつ温まった。指先の冷えが取れ、筆が滑らかに動く。


 『本日、削除権限失効(しっこう)状態を維持。異常なし』


 『再生中庭、水量二滴から六滴へ。増加傾向』


 『分冊(ぶんさつ)配布、守り(もりびと)経由で北東へ。受領確認待ち』


 事実を並べる。

 感情はあとで付いてくる。事実の行間に、感情が自然に(にじ)む。無理に書かなくても、事実を正確に書けば、読む人には伝わる。しおりがそう教えてくれた。


 朝食の乾パンをかじりながら、あさひがぽつりと言った。窓の外を見ている。乾パンの欠片(かけら)が膝に落ち、払わなかった。


 「しおり、たぶんどこかで同じように書いてる気がする。朝起きて、帳面開いて、日付書いて。同じ手順で」


 久遠(くおん)が静かに返した。茶を一口飲み、(わん)を置く。(わん)が机に当たる小さな音が、静かな部屋に響いた。


 「同感だ。書く手順を残した人間は、手順を捨てない。帳面がなくても、紙切れでも壁でも、どこかに書いている」


 こよいの目が熱くなった。泣きはしない。だが目の奥が温かくなる。しおりが書いている。どこかで。同じ手順で。その確信が、朝の空白を少しだけ埋めた。空白が消えたのではない。空白のまま、少しだけ温かくなった。


 こよいはページの末尾に追記した。


 『不在(ふざい)欠落(けつらく)だが、空白ではない。不在の形に、その人の手順が残っている』


 燈真(とうま)は部屋の隅で、配置図の補正を続けていた。こよいたちの会話を聞いていたのかいなかったのか、表情は変わらない。だが手が一瞬止まった。筆先が紙の上で止まり、また動き始める。名前のことを、この男も考えているのかもしれない。


 窓の外で、守り(もりびと)の使いが通った。灰色の外套(がいとう)を着た若い女が、回廊(かいろう)を小走りに通過していく。外套(がいとう)(すそ)が足元で(ひるがえ)り、石壁に影を走らせた。新しい分冊(ぶんさつ)を受け取りに来たのだ。


 こよいは分冊(ぶんさつ)の束を使いに渡した。『風』『門』『避難』の三冊と、追記された更新分。使いは束を両手で受け取り、胸に抱えた。受け取った使いは一礼して去る。足音が回廊(かいろう)に反響し、遠ざかっていった。


 その封筒に、こよいは一枚だけ紙を添えた。帳面の端を裂いた小さな紙。紙は薄く、指で裂いた(あと)が不揃いだ。


 『しおりさんへ。見つけたら、続きから書いて。一行目は空けておくから』


 誰が届けるかは分からない。使いの手から別の手へ、別の手からまた別の手へ。どこで止まるか、誰が読むか、こよいには分からない。届かないかもしれない。海に流す(びん)のようなものだ。


 それでも出す。

 記録は、届く可能性がゼロでない限り出しておくべきだ。しおりがそう教えた。可能性がゼロになるのは、出さなかった時だけだと。


 しおりのいない朝は、静かで、少し痛い。一行目の空白が、しおりの不在を毎朝突きつける。でも作業は進む。日付を書き、天気を書き、事実を並べる。手順が感情を支える。

 進めること自体が、再会への最短距離だとこよいは知っていた。立ち止まれば距離は縮まらない。書けば、一行分だけ近づく。

 原初(げんしょ)術式(じゅつしき)の第三条件も、しおりとの再会も。動き続ける者だけが、答えに辿(たど)り着ける。


 荷物をまとめる横で、あさひが欠けた剣を、珍しく長いあいだ見ていた。


 「……ここから南の乾いた土地は、俺の生まれた方角だ」


 ぽつりと言った。師匠の言葉が芯で鳴る剣を、故郷の風の中で確かめたいのかもしれなかった。誰も理由を()かなかった。次の行き先は、それで決まった。


 帳面を閉じる前に、こよいは最後に一行だけ書いた。


 『続行』


 それは昨日と同じ言葉で、昨日より少し強い字だった。インクが濃い。筆圧が強い。同じ言葉が、日を追うごとに力を持っていく。


 おたまも、こよいの足元を離れずに進んだ。

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