第011話 夜を越える
走った。
闇の中を、ひたすら走った。
後ろを振り返る余裕はない。光が追ってきている。
足元が見えない。
月明かりが木々の間を照らしているが、地面までは届かない。
根に躓く。石を踏み外す。枝が顔を打つ。
それでも、止まれない。
「……はしれ」
巾着が震えている。
「……とまったら……」
神々の声が途切れる。
急斜面に差し掛かった。
足が滑った。
体が前に投げ出される。
受け身を取る暇もなかった。
転がった。
落ち葉と土が視界を埋める。腕をぶつける。膝を打つ。
五メートルほど転げ落ちて、ようやく止まった。
「っ……」
痛い。
左腕が熱い。擦りむいたのだ。血が滲んでいる。
左膝も痛む。服が破れている。
右手のひらが切れている。石で切ったらしい。
振り返った。
斜面の上、木々の間に、光が見えた。
点滅している。規則正しく。
近い。さっきよりずっと近い。
立ち上がった。
足が震えている。膝が笑っている。
それでも、走り出した。
杉林に入った。
木々が等間隔で並んでいる。人工林だ。
走りやすい。下草が少ない。でも、隠れる場所もない。
木の幹の間を縫うように走る。
枝をかわす。根を跳び越える。
息が上がる。肺が焼けるようだ。
振り返る。
光が、まだ見える。
点滅しながら、追ってくる。
七つ。いや、八つ。
増えている。
「……はやく」
巾着の中から、悲鳴のような声。
「……おいつかれる」
走り続けた。
どれくらい走ったのか、分からない。
時間の感覚がない。
ただ、前へ。前へ。
杉林が終わった。
崩れた石垣があった。
古い。苔むしている。段々畑の跡だろうか。
石垣の隙間に、空間があった。
こよいは、滑り込んだ。
体を丸める。息を殺す。
心臓が、壊れそうなほど打っている。
息を整えようとしても、喉が詰まる。
右手から、血が滴っている。
巾着を握りしめた。
氷のように冷たい。
神々が震えている。言葉にならない。
じっと、待った。
石の冷たさが背中に染みる。
傷が痛む。体中が痛い。
光が、近づいてくる。
点滅が、明るくなっていく。
木々の影が、揺れている。
息を止めた。
口を手で押さえた。
自分の息が、聞こえてしまう気がした。
光が、石垣のすぐ向こうを通過した。
点滅が、目の裏に焼き付く。
白い光。規則正しい。機械的な。
通り過ぎた。でも、止まらない。また戻ってくるかもしれない。
石垣から這い出た。
走り出した。
まだ終わっていない。
坂を下る。
足がもつれる。何度も転びそうになる。
傷口から血が流れている。服に染みていく。
谷が、見えた。
暗い。深い。底が見えない。
渡れない。飛び越えられない。
行き止まりだ。
振り返った。
光が、見えた。
七つ。列を成して、近づいてくる。
距離は、二百メートルもないかもしれない。
左右を見回す。
急斜面。岩場。どちらも登れない。
逃げ場がない。
「……どうしよう」
声が震えていた。
「……にげて」
「……どこへ」
神々の声も、震えている。
谷に沿って走った。
縁が崩れやすい。足を滑らせたら、落ちる。
それでも、走るしかない。
倒木が、見えた。
大きな杉が、斜面に沿って倒れている。
その下に、空間がある。
小さい。でも、入れる。
這いつくばった。
腹這いで、倒木の下に滑り込んだ。
狭い。高さは四十センチもない。
体を捻って、奥に潜り込む。
巾着を、胸の下に押し込んだ。
目を閉じる。
息を殺す。
腐葉土の匂いがする。
湿った木の匂い。冷たい土の匂い。
虫が、腕の上を這っていく。
動けない。動いてはいけない。
待った。
どれくらい経ったのか、分からない。
十分。二十分。もっとかもしれない。
光が、近づいてきた。
点滅が、倒木の上を照らしている。
影が、揺れている。
息を止めた。
体中が強張る。
心臓の音が、地面を伝わって聞こえる気がした。
光が、真上を通過した。
点滅が、目の前を横切る。
白い光。青みがかった白。
機械の光。測る者の光。
止まった。
光が、止まった。
真上で。
こよいは、目を閉じた。
祈るように。いや、祈っていた。
見つかりませんように。捕まりませんように。
巾着が、凍りついたように冷たい。
神々が、動かない。息を殺している。
こよいと一緒に。
永遠のような時間が過ぎた。
実際には、数秒だったのかもしれない。
光が、動いた。
通り過ぎていく。
点滅が、遠ざかっていく。
まだ、息を止めていた。
まだ、動けなかった。
光が、戻ってきた。もう一度、真上を通過する。
今度は、止まらなかった。
また、遠ざかった。
点滅が、小さくなっていく。
木々の向こうに、消えていく。
こよいは、まだ動かなかった。
また戻ってくるかもしれない。
また、真上に来るかもしれない。
待った。
一時間。二時間。
体が凍りつきそうだった。
傷が痛む。血が乾いていく。でも、動けなかった。
空が、白み始めた。
夜明けだ。
木々の間から、薄い光が差し込んでくる。
こよいは、ゆっくりと動いた。
腕を伸ばす。体を捻る。
倒木の下から、這い出た。
立ち上がろうとした。
足が、震えて立てなかった。
膝をついたまま、周囲を見回す。
光は、見えない。
観測者の光は、消えていた。
「……いった?」
巾着に問いかける。
「……うん」
「……いま、は」
神々の声が、小さく応える。
「……こっち」
「……みず、きこえる」
耳を澄ませた。
遠くで、水の音がする。
渓流だ。
立ち上がった。
足が震える。体が重い。
一歩ずつ、音の方へ歩いた。
木々の間を抜けると、渓流があった。
小さな川。三メートルほどの幅。
水が、サラサラと流れている。
川岸に座り込んだ。
いや、崩れ落ちた。もう、体が言うことを聞かない。
傷を見た。
左腕の擦り傷は、乾いて黒くなっている。
左膝も同じ。服がこびりついている。
右手のひらの切り傷からは、まだ血が滲んでいる。
水で、傷を洗った。
冷たい。痛い。でも、少しだけ、気持ちが落ち着いた。
空気が、少し違う。
軽い。澄んでいる。
さっきまでの、重く冷たい空気とは違う。
巾着の温度が、戻り始めていた。
冷たいけれど、氷のようではない。
「……ここ」
祠の神の声。
「……すこし、さかい、ちかい」
「……こえた、わけじゃない」
空き地の神の声が続く。
「……でも、すこし、あんしん」
こよいは、渓流を見つめた。
水が、流れている。
生きている。自分は、まだ生きている。
逃げ切った。
夜を越えた。でも、体は限界だった。
傷から、まだ血が滲んでいる。
服は泥だらけで、破れている。
体中が痛い。
立ち上がろうとした。
足が震えて、また崩れた。
「……やすまないと」
巾着の声。
「……でも、ながくは」
「……すぐ、うごかないと」
分かっている。
観測者たちは、まだいる。
また追ってくるかもしれない。でも、今は動けない。
少しだけ。少しだけ休んだら、また歩き出す。
境界を目指す。第一境界を越えれば、少しは安全だと、しおりが言っていた。
こよいは、渓流の音を聞きながら、体を横たえた。
空が、明るくなっていく。
夜が終わる。新しい一日が始まる。
右手から、血が滴っていた。
赤い雫が、川岸の石を染めている。




