第010話 追跡者
焚き火を完全に消して山道に戻った。空気だけが、動かない。
しおりの気配は、もうない。ただ、焚き火の跡が炭のように黒く残っているだけ。
こよいは、立ち上がった。
「……いかないと」
巾着を握る。冷たい。神々が震えている。
「……うん」
「……いそいで」
月が、山の稜線にかかっている。半月。木々の影が、青白い光で長く伸びている。
足元は暗い。何度も木の根に躓きそうになる。
それでも、止まれない。
しおりの言葉が、頭の中で響いている。
「あなたも、もう測られ始めてる」
測られている。
輪郭を捉えられようとしている。
捉えられたら、固定される。
霧原町みたいに。消えた村みたいに。
道は、緩やかに上っている。
息が上がる。足が重い。体が限界に近いことは、分かっている。でも、休んでいられない。
後ろに、何かがいる。見えないけれど、いる。
月が雲に隠れると、闇が一段と深くなった。自分の足元すら見えない。手探りで木の幹に触れ、方向を確かめながら進む。指先が冷え切って、感覚が薄れている。
「……どこ」
巾着に問いかける。
「……さき」
「……やま、こえて」
「……さかい、めざせ」
境。第一境界。そこを越えれば、少しは安全だと、しおりが言っていた。
木々が、徐々に疎らになっていく。
風が強くなる。尾根に近づいている。
草の匂いが変わった。湿った腐葉土から、冷たい岩石の匂いへ。
こよいは、足を速めた。
尾根に出た瞬間、視界が開けた。
三方が開けている。南西に向かって、山並みが連なっている。
月明かりが、露出した岩盤を青白く照らしている。
遠くに、谷の気配がある。暗くて、底が見えない。
こよいは、息をついた。
振り返った。
光が、見えた。
背後の山の斜面。
白い光が、点滅している。
一つじゃない。
三つ。四つ。五つ。
規則正しく、点滅している。
こよいは、息を呑んだ。
あの光だ。
尾根で見た光。遠くで点滅していた、あの光。
近づいている。
「……あれ」
巾着が、急に重くなった。
「……はかる、もの」
祠の神の声が震えている。
「……にげて」
空き地の神の声が続く。
光は、遠くにある。
二キロ、いや、もっとあるかもしれない。でも、確実にこちらの方角を向いている。
山肌にへばりついた白い点のように見える。
こよいは、光を見つめた。
規則正しい点滅。二秒光って、一秒消える。
機械的だ。人間の持つ灯火の揺らぎがない。
一つ一つが、等しい間隔で瞬く。意志を持たない目。
観測者たちの光だ。
尾根に立ったまま見ていると、体の奥が冷えていく。足先から、じわじわと。
しばらく、動けなかった。
光を見ていると、体が固まる。
恐怖が、足の裏から這い上がってくる。
「……うごいて」
巾着の中から、祠の神の声。
「……みて、いる」
その言葉で、我に返った。
見ている。
あの光は、こよいを見ている。
見つけようとしている。
こよいは、尾根を離れた。
西へ。境界に向かって。
足が、勝手に動いている。
下り坂に入る。
木々の影が戻ってくる。枝葉が顔を掠める。
振り返る。
光は、まだ見える。木々の間から、点滅している。
遠いはずなのに、近く感じる。
十分、二十分。
歩き続けた。
息が荒い。足が震えている。
何度も振り返る。
地面の傾斜が緩んできた。下りに入っているはずだが、足取りは鈍る一方だった。
光が、増えていた。
五つだったのが、六つになっている。
いや、七つ。
そして、近づいている。
確実に、近づいている。
さっきより、光が大きく見える。
点滅のリズムが、より鮮明になっている。
遠くの蛍火だったものが、今は手持ちの明かりほどの明るさに見える。
「……はやく」
巾着が震えている。
「……おいつかれる」
神々の声が、悲鳴に近い。
もう、歩いている暇はない。こよいは、走り出した。
木の枝が顔を打つ。足首を捻りそうになる。
それでも、止まれない。
背中に冷たいものがまとわりついている気がした。見ない方がいい。見たら、足が止まる。
どれくらい走ったのか。
息が、もう続かない。
脇腹が痛い。喉が渇いている。
足が、言うことを聞かなくなってきている。
大きな岩が見えた。
二つの岩が、重なるように立っている。
その下に、空間がある。人が一人、隠れられる。
苔が生えている。湿っている。ここなら、光に気配を悟られにくい。
こよいは、岩の下に滑り込んだ。
息を殺す。体を丸める。
岩の冷たさが、背中に染みる。
閉ざされた空間のせいか、自分の心音がやけに大きく響く。
しばらく、何も考えられなかった。
荒い息だけが、岩陰に響いている。
心臓が、壊れそうなほど打っている。
汗が冷えて、背中が凍るように冷たい。歯が鳴りそうになるのを、唇を噛んで堪えた。
岩の上空を、何かが通ったような気がした。風の向きが変わった。
息が、少し落ち着いた。
そっと、岩の隙間から外を覗く。
光が、見えた。
近い。
さっきよりずっと近い。
一キロもないかもしれない。
七つの光が、列を成して移動している。
規則正しく、点滅しながら。
こちらに向かって。
こよいは、息を止めた。
巾着を、胸に押し付けた。
神々が震えている。冷たい。氷のように冷たい。
光は、止まらない。
ゆっくりと、でも確実に、近づいてくる。
こよいは、岩陰で体を丸めた。
目を閉じても、瞼の裏に光が点滅している。
白い光。規則正しい点滅。逃げ場がない。
振り返っても、暗い森。
前に進んでも、観測者の光。
逃げ切れるのか、分からない。でも、ここにいたら、確実に追いつかれる。
「……いかないと」
自分の声が、震えている。
「……うん」
「……いっしょに」
神々の声が、小さく応える。
こよいは、岩陰から這い出た。
立ち上がる。足が震えている。
西を向く。暗い木々の隙間の先に、まだ下りの続きが見える。
そして、走り出した。
背後で、光が点滅していた。
七つの光が、確実にこちらに向かって移動している。
点滅の明滅が、肩越しに瞼の裏に焼き付く。
振り返れば、まだ追われている。明滅の間隔は変わらない。
下りの勾配が、一段と急になっている。足はもう限界だ。それでも、闇の中へ足を踏み出すしかない。




