表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第1章 霧の序章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/125

第001話 霧の始まり

挿絵(By みてみん)


朝、こよいが目を覚ましたとき、窓の外は白かった。

 白はただの白じゃない。見えるものの輪郭(りんかく)だけを、鋭い刃物で削り取っていくような、冷たく攻撃的な白だった。


 町の角が消え、屋根の端が溶け、遠くの山の形が半分しか見えない。


 こよいは布団の中で、耳を澄ませた。

 夜の声が、まだ耳の奥に残っている。甘い声。


 「……ねえ」


 声のようで、声じゃない。

 呼ばれている気がした。

 返事をしたら、自分の名前の端がほどけて霧に吸い込まれてしまう気がして、口は開かなかった。(のど)の奥が引き()るように痛い。


 台所から、母の包丁の音がする。トントントン、と規則正しいリズム。

 味噌の匂いが、霧より先に部屋へ届いた。


 「起きたの?」


 母の声は、いつも通りだった。


 「うん」


 母は鍋の蓋をずらし、湯気を逃がした。

 立ち上る湯気と外の霧が重なり、部屋の中がぼんやりと白くなる。


 「霧が濃いね」


 「うん」


 「足元、気をつけて」


 それは毎朝繰り返される呪文のようなものだ。

 こよいは頷いた。


 朝餉(あさげ)の卓は、いつも通り。

 白く輝く米の粒。箸が器に当たる硬い音。茶碗のふちの欠け。

 母は余計なことを言わない。

 こよいも、夜の声のことを言わない。

 言えば、言葉が形を持って自分を遠くへ連れ去ってしまう気がした。


 顔を洗うと、水が氷のように冷たく、指先を刺す。

 吐く息が白く、目の前で消えた。


 弁当を包んで、鞄を背負う。革のベルトが肩に食い込む感触だけが確かだ。

 玄関を開けると、霧が濡れた布のように肌に触れた。


 道標は滲み、文字が読みにくい。墨が流れて、黒い涙のようだ。

 霧原町(きりはらちょう)の名前だけが、かろうじて残っている。「霧」の字だけがやけに濃く、「町」の字は今にも消えそうだ。


 掲示板の紙は湿り、文字が波打っている。


 「祭」の字だけが読めて、その先が溶けていた。


 何の祭りなのか、いつあるのか、肝心なことは何も分からない。


 商店の暖簾(のれん)が揺れ、店の奥が見えない。

 人の気配だけが、白の中を動く。影法師(かげぼうし)のように、音もなく、質量(しつりょう)もなく。


 学校へ向かう道は、半分だけ見えた。

 足音が、少し遅れて返ってくる。カツ、カツ、という音が、地面の底から響いてくるような違和感。


 川の音は近くて、ごうごうと鳴っているのに、流れが見えない。

 橋を渡ると、欄干の冷たさが掌に残った。


 校舎の白い壁が、霧の奥から巨大な船のように浮かぶ。

 玄関で伊佐夫(いさお)先生が名簿(めいぼ)を開いていた。


 「おはようございます」


 「おはよう。霧が濃いから、帰りは寄り道しないように」


 先生の声は、くぐもって聞こえた。

 霧が、声を吸っている気がした。


 教室の窓は白い紙のようだった。

 外は見えず、外と内の境目が薄い。


 伊佐夫先生は出席を取り、子どもたちは声を揃える。

 名簿の端で、先生の指が一度だけ止まった。

 誰の名か、こよいは見たくなかった。

 黒板に擦れるチョークの音。机の(きし)む音。


 それでも、こよいの耳は、別の音を探していた。


 昼前、先生は授業を切り上げた。


 「今日はここまで。早く帰りなさい」


 誰も不満を言わない。

 霧の日は、そういうものだ。


 こよいは、いつもの帰り道を思い出した。

 けれど今日は、違う道を選びたかった。

 真っ直ぐ帰れば、母の待つ家がある。何かが足を引く。


 校門を出ると、霧はまだ厚かった。

 見慣れた商店通りが、遠くの方で切れている。


 こよいは家とは逆の道に足を向けた。

 駅へ続く道。

 家へ帰るには遠回りになる。

 母に叱られるかもしれない。

 それでも、足は勝手に動いた。見えない糸に引かれる(あやつ)人形(にんぎょう)のように。


 霧原駅の時計は、針だけが空中に浮かんで見える。文字盤は白に溶けている。


 切符売りの清蔵(せいぞう)が、小さな窓から顔を出した。

 指先で硬貨を揃え、箱の中でジャラリと音を立てる。


 「今日は列車、来るの?」


 こよいが聞くと、清蔵は首を振った。


 「霧の日は遅れる。(さかい)が落ち着くまでな」


 笑った顔は、霧の中でぼやけた。目だけが、静かに光っている。磨り減った銀貨のような光。


 こよいはうなずき、ホームの端を見た。

 霧の向こうから、遠い鈴の音が混じった気がした。チリン、という高い音。でも、それは自分の耳鳴りかもしれない。


 駅へ向かう道の脇に、板塀(いたべい)で囲われた空き地がある。


 「立入禁止」の札が、錆びた釘で留められている。


 札の向こう、空き地の真ん中に老人が座っていた。

 霧より濃い影のような老人だ。着ている着物は古びていて、色がわからないほど汚れている。

 杖を膝に置き、手を組んでいる。

 彼の周りだけ空気が淀んでいる。


 こよいは足を止めた。

 夜の声が、また耳の奥で揺れた。


 「……こっちへ」


 「この霧はいつまで?」


 こよいがそう言うと、老人は目を細めた。皺の奥の瞳が、一瞬だけ、別の何かに入れ替わった気がした。


 「(さかい)が動くまでだ」


 老人はそう言い、手元の闇から何かを弾いた。

 鈴の欠けた巾着(きんちゃく)だった。

 地面を滑るようにしてこよいの足元へ収まった。布は古く、手触りはざらついている。


 「……それ」


 「持っておけ」


 老人の声は、しゃがれていて、聞き取りにくい。


 「見えるなら、持っておけ。呼ぶな。見ておけ。見えるだけで残る」


 こよいは一歩だけ近づいた。


 草の生えない丸い場所が、空き地の中心にあった。


 こよいはその痕を避け、巾着の重さを確かめた。

 軽いのに、軽くない。


 「どうして、ぼく?」


 老人は、少し笑った。

 その笑い方が、おかしかった。

 口元は笑っている。けれど、目が笑っていない。

 井戸の底から覗く、濡れた闇のような目。

 笑いはすぐに消えた。


 「耳が空いてる」


 意味は分からない。でも、否定できない。自分の中に、ぽっかりと開いた穴があることを、こよいはずっと知っていたからだ。


 「……どういうこと?」


 老人は答えなかった。(ほこら)の方角から、風のようで風ではない囁きが混じった。

 名を呼びかけられた気がした。でも、その名は「こよい」ではなかった。


 坂の上の木立(こだち)の間に、(ほこら)の影が沈んでいる。

 こよいは振り返りたくなった。でも、振り返れば消える気がした。


 鈴は鳴らない。

 それでも、巾着は確かに手の中にある。指に絡む紐の感触が、現実へのアンカーだ。


 老人の姿が、おかしい。

 霧の中で、さらに薄くなっていく。

 溶けている。老人自身が、霧の中に染み出していく。

 まるで最初から、霧で出来ていたかのように。


 「……帰りな」


 その声だけが、はっきりと残った。

 四方八方から聞こえた。霧そのものが喋っているようだった。


 こよいは答えず、巾着の紐を結び直した。

 母が教えてくれた、固い結び方。

 駅のレールが、かすかに鳴った。


 振り返った。


 老人は、いなかった。草の生えない円い場所に、杖だけが立っていた。


 「……おじいさん?」


 声は、霧に吸い込まれた。

 返事はない。

 杖の先端に、水滴ではない、もっと冷たい金属のような光が宿った。


 こよいは、その場から動けなかった。

 巾着の紐が、手首に食い込む。


 杖が、一度だけ、ゆっくりと傾いた。

 北を指している。山の方。境の方。


 霧の奥で、人影ではない、もっと大きな曖昧な何かが動いた。

 それが、こちらを見ている気配がした。


 こよいは走った。

 家へ向かって、霧の中を、転びそうになりながら。


 背中に、視線を感じた。

 振り返ってはいけない。

 振り返ったら、もう戻れなくなってしまう。


 手の中の巾着が、微かに震えた。

 鈴は、まだ鳴らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ