【5】
「――――――――――あら?」
暗転、そして浮上した意識に、世津はぽつりと呟いた。
その自分の声のはずの声が、まるで自分のそれのようではなかったかのようで、あらあらあら? と妙に不思議になる。
身体が重い。けれどそれは年老いたゆえに付きまとう倦怠感にも似た重みではなく、病から回復したばかりの心地よい疲労感に似た重みだ。
「……え?」
反射的に身体を起こすと、はらりと長く伸ばした髪が落ちた。見慣れ切った、すっかり色が抜け落ちた白髪ではない。黒々と流れる、今は懐かしさすら覚えていない故郷で『みどりの黒髪』と褒めてもらえたそれ。
思わず両手を持ち上げる。刻み込まれていたしわはなく、みずみずしく張りのある肌。ぺたぺたと顔を触る。やはり慣れ親しんだ触感はなく、かわりに思い出すのは五十年前のかつての自分。
「わた、くし……?」
「――――起きたか」
「!」
静かな声音に身体をびくつかせると、その拍子に身体がよろめいた。けれどその身体が倒れ込むよりも先に、素早く手が差し伸べられ、驚くほど丁寧に支えてもらえる。
鼻孔をくすぐる薔薇の香りに、は、と息を呑んで、そちらを見上げる。
つややかな黒髪と輝く金の瞳を持つ、美貌の青年。
ヴラド・ツェペシュ。黒騎士と誉れ高いフィレンツ・ナーダシュディの親友であり、その冷酷さと圧倒的な魔力ゆえに、串刺し公と恐れられる、吸血鬼の始祖の一人。
はからずも今際の際に拝むことになったはずのその美しいかんばせを呆然と見上げると、彼はふん、と鼻を鳴らした。
「体調は?」
「……悪くは、ないかと」
「記憶に障害は?」
「そちらもおそらくは問題ございませぬ。ええ、そうです、わたくし、七十のおばあちゃんのはずでしたのに……」
そして、その七十歳の人間のおばあちゃんは、長らく仕えてきた主人とその御子を守るために戦地に残り、命を散らしたはずだった。
そのはずだったのに。
「わたくし、どうして生きて……しかも若返って……?」
「私が貴様を転化させたからだが?」
「は」
さらりと言われたせいで反応が遅れた。転化。誰が。
「……わたくしが、転化?」
「ああ」
「吸血鬼に、わたくしが?」
「ああ」
「あなた様が、わたくしを?」
「ああ」
何か問題が? とばかりに首を傾げられる。そんなささいな仕草すら凄絶なまでの色気を放ちぞっとするほど美しいが、それはそれとして、世津はそれどころではなかった。
くらりとめまいに襲われてベッドにまた沈みたくなるけれど、支えてくれているままの力強い腕がそれを許してはくれない。どうして。なぜ。ありえない。
「わたくし、何の苦しみも味わっておりませぬが」
「一か月、意識が戻らなかったからな。悪運だけは強いのは貴様らしい」
「いっかげつ……」
信じがたいがそういうことらしい。
いやだがしかし、まだだ。まだ解らないことがある。
吸血鬼が人間に転化を促す理由はただ一つであり、だからこそありえないと思わずにはいられない。
目の前で冷酷に判断を降す男が妙に安堵しているように見えるだとか、疲れがにじむ自身を取り繕っているように見えるだとか、そんなことはありえないのだ。
そう、ありえない、と断じられるからこそ、逆に世津は真正面からその問いを口にすることができた。
「あなた様――――ヴラド様」
「なんだ」
「あなた様、まさかとは思いますが、わたくしに惚れていらっしゃった?」
そんなまさか、ありえない。そう冗談交じりに問いかける。
「ふざけるな」、だとか、「殺されたいか」くらいの暴言が返ってくるかと思ったのだが。
何故だろう。返事がない。
代わりに、ぞっとするような、火傷よりももっとひどく、いっそ燃え尽くされてしまうのではないかと思うような熱を宿した金色の瞳に見据えられる。
ヴラドのそういう目を見るのは初めてで、何とも言えない居心地の悪さに身じろぐと、ぎし、とベッドがきしむ。
あ、と思う間もなく、ヴラドが椅子から身を乗り出して、吐息すら触れ合うような距離で、世津のあごを片手で固定した。
近い。なんでございましょうかこれは。
「……あの?」
「悪いか」
「は」
「今更気付いたのか、馬鹿め」
「…………は」
それは、どういう……と問いかけようとして、できなかった。
驚くほど自然に、流れるように、唇をそのまま奪われたからだ。世津が息を呑むことすらできずに瞳を見開き硬直したのをいいことに、ヴラドはそのまま好き放題に世津の唇を、その咥内を蹂躙する。
――わたくし、このまま食べられてしまうんじゃないかしら。
目を見開いたままの自分が、ヴラドの瞳に映り込んでいる。驚愕と、それだけではない何かにいよいよ震えだす自分の瞳もまた、彼と同じ金色に染まっていることを、改めてまざまざと突きつけられたような気がした。
「ん、んんんんん~~~~っ」
ヴラドの顔を引きはがそうにも、片手で両手を拘束され、もう一方の手で後頭部を抑え込まれてしまってはどうしようもない。
うそ、なに、なんでございましょうかこれは。
とうとう何もかもが限界に達し、じわりと数十年ぶりの涙が、世津の金色に変じた瞳ににじんだ、そのとき。
「セツから離れなさい、このけだもの!!!!」
目の前から、ヴラドの長身が吹っ飛んだ。
先ほどまでとは異なる意味合いで固まると、そんな世津に飛びついてくる小さな身体がある。
「セツ、セツ! うあ、ああああん、よかったあああああ!」
泣きじゃくりながらぐりぐりと頭を押し付けてくる小さな美少年のことなど、今更誰何するまでもない。世津がこの世の珠玉とあたため、磨き、かわいがって育ててきた、アンドラーシュぼっちゃまだ。
涙でぐしゃぐしゃになりながらも、決して放すものかとすがりついてくる宝物の少年を前に、もうどうしようもなくたまらなくなって、世津は彼のことを抱き締める。
「ぼっちゃま……! ああ、お怪我はございませんか?」
「うん、うんっ! セツが守ってくれたからっ!」
「それはようございました」
「ぜんぜんよくなくてよ!!」
「えっ」
心からの安堵とともに吐き出した台詞を一刀両断にしたのは、身重の身体でヴラドに飛び蹴りをかました世津の愛するお嬢様、もとい、我らがエルジェーベトお嬢様である。
夫と同じルビーのような紅の瞳に烈火のごとき怒りを宿した彼女は、そのまま片手を振り上げた。
――――ぱんっ!
乾いた音が響く。
遅れて世津は、エルジェーベトによって自らの頬を叩かれたのだと気付く。呆然と彼女を見上げると、紅の瞳にみるみるうちに涙がたたえられていく。
おじょうさま、と思わず唇をわななかせると、エルジェーベトはアンドラーシュごと世津のことを抱き締めてきた。
「ばか! あ、あたくしが、あたくしがあんな風に守られて、本当に喜ぶとでも思ったの!? ふざけるんじゃんなくてよ、世津、あなたはあたくしが許すまで、あたくしの側を離れちゃいけないんだから! アンドラーシュのことだって、もうすぐ生まれてくる次の子のことだって、あたくしはあなたにじゃなきゃ任せられないんだから!!」
「お嬢様……」
「おだまりなさい、返事は!?」
「……はい、申し訳ございません。お嬢様のご命令とあらば、この時村世津、喜んで拝命つかまつりまする」
おだまりと言いつつ返事を求める矛盾には気付かないふりをして、世津はやはりアンドラーシュごとエルジェーベトのことを抱き締め返した。
ああ、あたたかい。自分が生きていることを、今、ようやく、自覚する。そして、感謝せずにはいられない。それはとても、悔しいことだけれど。
そっと視線を巡らせると、エルジェーベトに蹴り倒された体勢から立て直したヴラドが、実に不満げな瞳でこちらをにらみ付けてくる。
――あらまあおそろしいこと。
――どうしようかしら。
――というか本当にこれからこのお方との関係をどう清算すればいいのかしら。
久々に心の底から困ったことになったと途方に暮れる世津を後目に、しばし思案するように自らのあごに片手を寄せたヴラドは、おろおろとらしくもなく視線をさまよわせている世津から視線を外さずにその唇を開いた。
「おい、エルジェーベト、アンドラーシュ」
「何かしら、このけだものが」
「どうしましたか、けだもの先生」
「お、お嬢様、ぼっちゃま……!?」
世津が利いたこともないような冷たい声である。お嬢様、ぼっちゃま、いつものおかわいらしいあなた様がたはどこへ……!? とおののいていると、そんな世津の瞳を確かめるようにひとたび見据え、そして深く頷いたヴラドは、にやりと口角をつりあげた。
「いつまで私の伴侶を拘束しているつもりだ。私達は新婚だぞ? 少しは気を遣え」
えっ、いや、その辺から目を逸らしたかったのですが、やはりそういう方向性になってしまうのでございますか?
そう世津が問いかけるよりも先に、エルジェーベトとアンドラーシュがザッと二人がかりで世津を背に庇い、ヴラドをにらみ据えた。
「セツを助けてくれたことに関しては感謝するけれど、それ以上のことはあたくしは認めてないわ!!」
「セツは僕のお嫁さんになるんです!!」
「往生際が悪いぞ」
「五十年も手が出せなかった腑抜けに言われたくなくてよ!」
えっお嬢様なんですかその情報初耳なのですが……と、口を挟めるはずもなく。
そのまま言い争いを始めたエルジェーベト、アンドラーシュ、そしてヴラドのやりとりを見守ることしかできない世津のもとに、愛する妻と子を迎えに来たフィレンツが婚姻誓約書を持ち込み、またひと悶着どころでない騒ぎが始まることになる。
かくして、時村世津の七十年の人間としての人生は幕を閉じた。
そして新たに、永い吸血鬼としての生が始まるのだが、それはまた別の話となる。