16 ケンは語る。プロミスリングが切れる時
「はあ、はあ…」
迫りくる闇に背中を押されるように、俺は森を歩く。
夜が明ける前の森は一番静かで、最も恐ろしい。
疲れてその場に座り込んだ瞬間…その命は瞬く間に失われるということを、ここ数か月で学んだ。
小さな虫たちは足元を這いずり回り、疲れた人間の破れた服の隙間から入り込むと、それは始まる。足を止め、身体に不調をきたした次の瞬間、虫よりも大きなネズミやら蛇やらが集まり恐怖を煽ってくる。場合によっては牙を立て、爪を立て、外傷を負わせてくる。
そして…最後に獲物を全て丸ごと飲み込もうと、目が光る肉食動物がこちらに向かってきて…それきり。それが、森を歩くすべての生物の摂理なのだろう。
(今も、俺が動けなくなる瞬間を待っている)
これが、彼らだけなら振り切れるのに、それに人間も絡んでいるから厄介だ。
だが、同時に森に踏み込んだものは、全ての命にその試練を与える。逃げるものにも、追うものにも好機を与えてくれるのだ。
「う、うわ、ぎゃああ!!」
「!」
どこかで誰かの叫び声と、獣の咆哮が響き渡る。
恐らく、追手の一人が獰猛な住人の餌食となったのだろう。森はとにかく不安をあおり、正気と方向感覚を狂わせ、精神を疲弊させる。それに陥った先に、待っているのは…『死』だ。
「ふん、修業が足りないな…」
ここは、アルキオ侯爵家の領域であり、そのまま行けばランドヒル山脈の北側の裾野に入り込める。そのあたりは境界があいまいで、あまり人が踏み込んでいない未開の領域。同時に不確定なリスクはあるが、そこに行けばしばらくやり過ごせるかもしれない。
(しばらく、かあ…なぜ、こうまで俺は憎まれてるんだか)
それは、言うまでもなく自分の出自が原因だろう。
先代の王の名は、『シュレット・アルキオ』…俺の実父で、記録を見る限り清廉潔白で、曲がったことが大嫌いな人だったらしい。たまたま、領内で見染めた女性に一目ぼれて、身分を顧みず妻にするあたり、多少強引な人だったのかもしれない。
らしい、とか、かもしれない、というのは、あの人には数えるほどしか会ったことがない。三歳の頃には、もう既に投獄されていたから。
…まあ、時が時なら、第一位の王位を継承するところだったかもしれないが、そうはいかなかった。
現在の王である『リヘイベン・パルティス』は、父と血のつながった兄弟で、弟に当たる。リヘイベンとシュレット、二人はいずれも侯爵の爵位を与えられ、それぞれの姓を名乗るのが許されていた。
しかし、ある事件をきっかけに、父は王としての地位をはく奪されることになる。
それは…いわゆる『身内殺し』である。
その対象となったのは、二人の兄弟の叔父にあたる人物、『クレイマン・コールト』。
曖昧で不可思議なことだらけの、毒殺だった。しかし、どこからか持ってきた決定的な物的証拠がリヘイベンによって明るみに出され、シュレットはその地位を追われてしまったのである。
王族の身内殺しは重罰―――その影響は俺たち家族にも及ぶものだが、俺と母親が生かされたのは理由がある。それは…ほかに、王族直径の男子がいないから、だった。
この国は厄介なことに、血統というのが非常に大事にされる。昔から脈々と続く血とやらを守るためには、多少罪人がいようが目を瞑るという選択を、当時の貴族会が決定したのだ。
それを選択したのは、今の王妃…つまり、リヴィエルトの母親・アルミーダ・ダイアン・パルティスだ。病がちの王に代わり、年齢も幼い王子の後見人として再び王家の頂点に返り咲いた王妃アルミーダは、ある決定を下した。
「わらわ達が守るべきは、血であり、歴史である。子供に罪はない。気が触れた母親など、害もない。ならば、彼らは赦されるべきだろう」
つまりは‥‥リヴィエルトに万が一があったときのための『スペア』として、ベルメリオ・ケン・アルキオを生かしておけ、ということ。
リヴィエルトが順当に大人になって、基盤が安泰した時にはもう不要となる部品の一つ。それが、ベルメリオという存在だったのだ。
…そして、リヘイベン陛下は病床で、息子のリヴィエルトは代行として職務を全うしている。アルミーダ・ダイアンは息子の地位が確固たるものとなったことを容認したからだろう。ある時から、俺は追われることになる。
丁度そのあたりだろう。母・リリーアンが、自ら死を選んだのは。
アルミーダにとって、俺の母親は人質。何かしようとするとき、俺の行動を制する駒の一つだったのだ。
母は、気が触れたと言われていたが、もう今となってはわからない。もしかしたら、そのふりをしていただけかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
どちらにせよ母は自ら死を選び、結果、俺はこうして自由に動き回ることができるようになった。
それを機に、王家直轄の始末人『黒の盾』共が動き出し、今に至るわけだ。
息を整えるために大きな木の陰に寄り掛かり、自嘲気味に天を仰ぐ。
「俺一人、いなくなっても…世界は回るんだよな」
見上げた空は…どこまでも広く、星が天から降ってきそうだ。
―――などと、弱気になっている場合じゃない。
一度大きく息を吐くと、ふと、どこかから湿った空気の気配と、水の流れる音が聞こえた。
「…川?」
(川は…開けてるし、あまり安全でもないんだが)
もうどれくらい水分を取っていないだろうか。喉は渇き、全身泥だらけだ。
「…東の空が白けているところを見ると、夜明けが近い」
少し迷ったが、ずるずると滑る斜面を下り、河を目指す。藪をかき分け、進んだ先に見つけたのは…簡単に跨がれるほどの小さな小川だった。
後ろを振り返り、辺りを見渡して…誰もいないことを確認してから、汚れたグローブを脱いで、その水を手ですくう。
…すると、腕に結ばれている金色の紐が目に入った。
「…五年ぶりだったのに。大きくなったな、おちびさん」
こんな状況でもふっと、笑えてしまう。
それほど、過ごしたあの季節は楽しかった。この腕輪も、なんだかんだと大事にしていたせいか、切れる気配が全くない。
それをぼうっと見ていると…がさがさ、と何かの気配を感じた。
「?!…しまっ」
立ち上がったはずみか、油断したせいか。
腕に絡まっていた金色の紐が突如ほどけた。それを拾うべくしゃがんだ瞬間、思いもよらない声が聞こえた。
「…ケン?」
(幻聴、か?)
あまりにも思い出に浸りすぎていたのか?
こんなところにいるわけがない、という思いと、でも、会いたいという思いが交錯して、顔を上げだ。
「ケン!!やっぱり…ケンだ!!」
「え…?」
がばっと、抱き着く小さな少女。
あの頃はもっと小さかったけど、今は少し大きくなった…か?それでも、両腕にすっぽり埋まってしまいそうな程小さな身体の少女は、きっ!と、潤んだバラ色の瞳でこちらをにらみつけてきた。
「お前!!無事か?!!なにしてんだよ、もお!!」
「あ…え?ほ、本物?」
「当たり前だ!このすっとこどっこい!!」
柔らかくて、糸みたいに真っすぐな金色の髪をそっと撫で…その感触が本物だと確認する。それでも、何だか現実味がなくてしばし茫然としてしまう。
だってまさか、こんなところにいるなんて。
「すっとこどっこいってまた、妙な悪口を…」
徐々にうれしさがこみ上げてくるが、反面今の自分の状況を思い出し、急に我に返ってしまう。そう言えば、今の自分の姿は。
「ちょ、待て。今俺は追われてて、もうしばらく着替えてないし、洗ってもいないし…要するに、汚い!!だから、ち、近づくな!」
みっともない姿を見られたくない。そんな複雑な気持ちでアリセレスの腕を放そうとするが、小さな腕はなおもぎゅっとしがみつく。
「んなもん知るか!心配したんだからな!!いつまで待ってても来ないし!!!せっかく逢えたと思ったらなんかボロボロだし…リングは切れるしな!!」
「リングって、うわ?!」
あまりに強く抱きつかれせいか、足元がおぼつき、そのまま草むらに転んでしまった。しかしアリセレスは体の上に乗っかったまま、ポケットから切れた腕輪を取り出して見せた。
「ほら、コレを見よ!」
「…それ、切れたのか?っていうか、ずっと持って」
「当たり前だ!この馬鹿者!…約束だろ?!」
「…ごめん」
…かれこれ5年ぶりの再会の上、他人と気兼ねなく話したのがあまりにも久しぶり過ぎて、涙が出てきそうだ。そ本当はアリセレスをしっかりと抱きしめ返したいけど、今はそれどころじゃない。
「離れて…まだ追手が」
「それなら私に任せろ」
「任せろって…」
「この辺は貴重な薬草が多いから、転送魔法の目印をつけているんだ」
「転送、魔法?」
「ケン一人くらいなら、なんとか運べる。…私はお前の味方だ!」
「…アリ」
ぱあっと周囲を光の膜のようなものが現れ、周囲の風景がぐらりと揺らぐ。…そして、目を開けた瞬間には、どこかの倉庫のような場所にいた。
「ここは…まさか、魔法を」
「はーっハーっ…」
「あ、おい…っ」
見れば、アリセレスはくらくらとその場にへたり込んだ。
「こ、これくら い、へい きだ!!」
「いや、平気じゃないだろ?!転移魔法なんて大層なもの使うから…!」
「ちょっと、休めば…へ―キ…」
きょろきょろとあたりを見渡すが、この場所にあるのはいくつかのクローゼット?と、机、それに大量の本や乾燥した草花で、アリセレスを寝かせるようなスペースはない。
しょうがないので、俺はそのまま自身の膝を提供するはめになったのだが。…こちらのことはお構いなしに、アリセレスはその小さな頭をちょこん、と乗せた。
慣れない感触が…気恥ずかしいやらなにやら。
(や、柔らかい、こいつの髪がくすぐったい…)
「ケン?」
「う、上は見るな」
自分でもわかる程顔が赤い。いや、でも、アリセレスはまだ子供で、年下だし。
俺が気にし過ぎなのかもしれない、だが。
「あ、ちょうどいい高さ」
「お前なあ…」
「ケンも休め…ここは、大丈夫だから」
「はあ、まあ、ここが安全なら」
いいかな。
そう思った瞬間、どっと疲労感が押し寄せ、そのまま深い眠りについてしまった。




