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沢村斎(二十七歳)は、自他ともに認める有能な会社事務員である。
二年前、出会い頭に主従の関係を結ばされた悪魔クロガネ(ヒモ男)との出逢いを契機に、超がつくほどの現実主義は若干ながら改善されていた。五十年に一度の死神達の人間狩りに遭遇、明かされた両親の死の真相、斎を命懸けで守ろうとしたクロガネ……困難を乗り越えた二人の心は固く結ばれた。
「イツキちゃーんっ!」
「あぁーもうっ、鬱陶しい! あっち行ってな!」
わけでもなかった。
死神との死闘で負った傷を癒すため、この二年間ずっと冬眠状態だったクロガネは二ヶ月前にようやく目覚めたばかり。死神に封じられた魔力もいまだ完全には戻らず、真っ黒な蝙蝠のような羽や闘牛のような角も隠すことができない。相変わらず役立たずなヒモ悪魔のまま、斎に代わって炊事洗濯に精を出す毎日……二年前と全く変わらない日常が続いていたのだった。
しかし、ある日の朝、そんな二人にとっては今更な日常に最大のピンチが訪れる……何の前触れもなく。
「……え? 私がクビっ?」
雨島製薬会社は少し前まで規模の小さな有限会社に過ぎなかったが、去年の十月に同等格の製薬会社と合併、株式公開したばかりだ。組織改正のドタバタも年明けには一応の終息を迎え、ようやくホッと一息ついたところだというのに……全社的にみれば微力かもしれないが、それでも内勤事務として新会社に貢献したと満足していた矢先の信じられない辞令、然しもの斎も頭が巧く働かない。
「いやねぇー、牧村君ももう大丈夫だし、ウチの小さい営業所には二人も事務員要らないからねぇ……正直」
めっきり薄くなってきた頭のてっぺんをハンカチで拭き拭き、朝礼終わりの会議室で顛末を説明し始める営業所長いわく……この百年に一度ともいわれる未曾有の不景気で、幾ら株式上場したとはいえ、省ける無駄は極力省きたいという上からの人員削減の指示らしい。
「……私が、無駄だというんですか?」
もともと本社勤めだった斎は、新たにできた同県の営業所に即戦力として一時的に駆り出された身の上だ。右も左も分からない別会社から移籍してきたばかりの後輩事務員をしっかり育て上げて欲しい、それが終われば本社に戻ってこい……聞いていた話と、全く違うではないか。
「本社のもとの君のポストは雨島君が引き継いで、立派にやってくれているしねぇ」
私も辛いんだよ……そう続ける所長の声は、斎の頭には全く入ってこなかった。
雨島沙織。
その名が示す通り、この会社社長の血縁者で、ばっちり縁故入社してきた斎の同期であり、天敵ともいえる存在である。
パッと見、大人しめの可愛らしい様相で男どもには愛敬を振りまき、社長の後ろ盾を利用して他の事務員には己の仕事を振り分けるとんでもない女。
『三時以降はおやつの糖分が頭に回って集中力半減なんですぅー❤』
そう語尾にハートマークを盛大に飛ばしてのたまったときは……。
『ハンマーで悪趣味なでっかいリボン満載の頭をかち割って、その破壊力抜群の糖分を除去してあげましょーか?』
そんな心の声をぶつける誘惑に打ち勝つのに、どれだけの精神力を要したか……そんな沙織は、斎に並々ならぬ対抗心を持っていた。斎自身は何かと比較される同期であり、己に対する悪意に敏感な彼女に抱いた反感を見透かされてのことだろうと思っていたが、実際のところ、その理由は斎の生来の整った容姿にあった。大粒のアーモンドのようなぱっちり二重の双眸は、それだけでプチ整形前は糸ミミズのようだった眼の沙織には敵対勢力と認識させるものだったらしい。
今回の人事は、最初から仕組まれていたものだったのかも知れない……顔を合わせれば慇懃無礼な嫌味を言ってくる沙織が、やけに従順に引き継ぎに応じていたことを思い出し、斎はようやくそう思い至った。
「……そっ、そんなに多くはないけどね、退職金も出るんだよ。沢村君は七年も勤めてくれていたし……」
美しい女の怒り顔ほど恐ろしいものはない。斎が沙織を思って浮かべた表情を、己に対する怒気だと勘違いした所長の声は、どんどん尻すぼみになっていく。
そんな気の毒な中間管理職な彼に意識を戻し、斎は表情を緩める。悪いのは会社でも、目の前の気の小さい所長でもない。ここで揉めても、沙織が絡んでいるならこの人事は決して覆ることはあるまい……この会社を去る選択しか、自分には残されていないのだ。
「……短い間でしたけど、お世話になりました」
頭を切り替えた今、気にかかるのは我が家で鼻歌交じりに家事をしているだろう件のヒモ悪魔……これから彼をどうやって養っていくものか。
口を突いて出たため息は、頭を深々と下げたお陰で巧く隠れてくれた。
* * *
沢村家のルールその一、一生隠し果せないような嘘は吐くべからず。
それはクロガネがやって来てから出来上がった家訓に他ならない。沢村家に居ついた経緯、両親の死に死神襲来の顛末まで、全て彼が吐いた嘘のせいで、事態は最悪の一ミリ手前まで悪化していたのだ。自分を想ってのことだったということも分かる。
そして、超現実的だった自分が、突然目の前に現れたクロガネの突拍子もない話を信じるはずがないということも……けれど、今はもう違うのだ。とんでもない出逢いで、斎の魂を狙った死神も結局のところ自力で倒したと言っても過言ではないが、クロガネは天涯孤独の自分にできたたった一人の家族。ヒモ、役立たず、タダ飯食らい、彼を罵る言葉は瞬間湯沸かし器のように次から次へと湧いてきた。それも事実には変わりなくても、「きっぱり・さっぱり・すっきり」がモットーの斎が、大の大人のヒモ悪魔を締め出さないのだから、その気持ちは文字通り人の心が読めるクロガネにも伝わっている。息をするのと同じ感覚で人の心が読めてしまうクロガネに対し、自分は心に鍵はかけられないし、読まれて疚しいところなど何もない。ならば、クロガネも自分に対して嘘も秘密も持たないでくれ、というのがルールを作った理由だ。
しかし、いつもなら何の躊躇もなく開ける自宅の玄関前で、斎はそれを躊躇っていた。
ほぼ巣立った後輩女子へのもろもろの庶務の引継ぎに三日、離職手続きの書類が届くのは来月半ばくらいだろう。それからすぐにハローワークに行って失業手当の申請を出したとしても、ドサクサに紛れて退職理由を自己都合にされてしまった自分が失業手当をもらえるのは、三ヶ月は先のことだ。
来月は今月の給料があるので問題ないが、残りの三ヶ月間、どうやってしのぐものか……何度もいうが、百年に一度といわれるこの不景気、三ヶ月の間に再就職先が決まる見通しもなければ、失業手当六ヶ月分を食い潰した後もまだ定職につけていないなんて事態もあり得ない話ではない。自分にあるのは実務経験だけ、こんなことならクロガネが寝ている間に医療事務、もしくは簿記の資格でも取っておくべきだった。正社員雇用の身分の上に胡坐をかいていた我が身への今更な後悔の念が、吹き荒ぶ木枯らしとともに胸を突く。
木枯らし……こんな寒空の下にいつまでも立ち尽くしていたら風邪を引いてしまい、それこそ今後の就職活動にも差し支える。本日二度目のため息を吐くと、斎は持ち前の現実的思考を原動力にして、いつもよりも重く感じられるドアノブを回した。