四話
小田原城は歴史ある城であり平成の大改修を得て現在は観光地として多くの人で賑わっていた。年々、来日する中国人の旅行客は増え日本に大金を落としていく存在であったが、マナーの悪さから宿泊を拒否されたりなどその存在は一長一短であった。
第一通報者は近くに通う女子高校生であり、特危獣をニュースで知っていたとしても直に見た事はなく、警察のオペレーターも声から伝わる動揺から事実であると判断しパトカーを派遣したのである。
自治体を通して避難警報の発令が準備され、実際に流されたのは五分後であり、警察と自衛隊からなる警戒情報指令所は直に市長と県知事に対する勧告を行った。第一通報者以外にも通報が相次ぎ、普段は悪戯ぐらいしか着信がないために暇となっていた指令所は慌ただしく自分が出来る事をし始めた。
明石昇は警察庁からの出向組であり、若くして警視になった警察官僚である。将来の警察庁長官とももくされる人物であり、勉強だけでなく状況を冷静に見ることができ、適切な判断ができる逸材であった。
明石は関東を統轄しており、出向は明石を疎ましく思った上司からの嫌がらせの左遷ではなく、志願してここに配属される様に立ち回ったのだ。警察官は職務執行法に基づいて行動しなくてはならないが、特危獣に対応するために一部権限の拡大を特措法で認められており、広域捜査の権限が明石には与えられていた。
一般の警察官は地方公務員であり、原則的に県を跨いでの捜査は認められていない。合同本部でも県警の捜査官達は警視庁の手駒として捜査を命令されるだけで、手柄は横取りされる事になるのだ。
それが警察組織だと言ってしまえばそこまでだが、優秀な現場で働く警察官を蔑ろにしていて警察という組織は腐っていく一方だと明石は感じていた。犯罪を取り締まるべきの警察が犯罪を犯すなど喜劇でしかなく、容疑者の有罪率が日本の警察の優秀さを示していると言う人もいるがそれは違うと明石は考えていた。
冤罪事件もなくならず、日本は昔に言うほどの安全な国では無くなっていた。確かに人口に占める殺人事件の割合は先進国でも低い方ではあるが、それでも若者には覚醒剤や脱法ハーブなどが蔓延しており、毎年の自殺者も三万人を下回る事はないのだ。
詐欺の手口も巧妙化されており、生活費を奪われた老人も多く、先進国での幸福度は最悪に近い。能力が努力が足りないからそうなったとワーキングプアの人達を馬鹿にする事はできない。
日本は学歴社会であり、一部の出身大学のみにその名残りがあるだけとなりつつあるが、社会的な構造が、貧困を生み出すとも考えていた。奨学金を返済するために若い女性が風俗で働くなど良くある話であり、大学を卒業していても今は安心できる時代ではなく、終身雇用制度は崩壊しているのだ。
大学の同期には他庁に勤める官僚や大企業の課長など成功者となっていたが、明石はそれを誇る事はしないが、仕事には正当な報酬が必要であり、今の給料には満足しているが向上心を忘れる事は無かった。
先ずは最寄りの警察官によって対処するのが妥当であり、機動隊員や銃器対策課を出動させる事にした。民間人の避難誘導は警察官の職務であり、自衛隊を出動させる事は警察の敗北を意味するのだから当然である。
弟の亘は頭は良くないが余りある体力を生かして自衛官となった。現在は三曹として現場で活躍している。そして、レンジャー資格保有者として新設部隊に異動したと聞いたが、身内贔屓で悪いとは思っているが危険な現場には出てほしくないと兄として考えていた。
関係各所の円滑な情報伝達の為に自衛隊の藤堂三佐に会う機会があった。弟の部隊の指揮官であり、海外派遣にも積極的に参加している歴戦の自衛官であり、頼りにできる人柄であったが、藤堂が弟を引き抜いたと聞いた時には、顔をしかめる事しかできなかった。
父と母は一般家庭に育ち、普通のサラリーマンと主婦である。勉強の為に無理して塾に通わせてくれたり様々な習い事をやりたいならやってみろと裕福な家庭でも無かったのに無理して働いてでも大学を卒業させてくれた事には感謝をしている。
息子が警察官僚と自衛官であり、母親は心労から倒れ、今は父が介護をしながら働いている。仕送りをする為にも安定した収入が必要であり、仕事に生き甲斐を感じているために辞めるつもりはないが、それでも本当にこれで良いのかと思う時はある。
出世レースから脱落した同期を何人も見てきた。他庁の事であってもいつ自分の身に降りかかるか分からない事であり、失敗は緩やかな死を意味するのだ。ここで成果を挙げなくては出世レースから脱落し、警察を辞めなくてはならなくなり、警察の改革は泡として消え去るのだ。
無難な指示など意味はなく、攻めの姿勢で行かなくてはならない。死傷者の全責任が警察や自衛隊にある訳ではないが、少なくともミスをしていれば遺族や人権団体は黙っていないだろう。
「現場に到着した警察官に報告させろ。また非常動員をかけて非常線を張り、救急の受け入れ体制の確保と暴動に備えろ」
市街地での駆除はとにかく民間人を排除する。それに尽きた。警察官の持つ拳銃はアサルトライフルに比べれば殺傷能力は低いが、それでも人なら死に至らしめることができるのだ。
そして、警察官の殉職はこれ以上はあってはならない事であり、防弾盾では特危獣の攻撃に耐えられない事も判明しているが第十等級(兵士級)ならば、少なくとも死に至る傷を受ける事はない。警察官も人型特危獣ゴブリンが現れた時には何かの悪質な冗談だと思った。
現場の指揮に当たる事になった警視庁の管理官は寝言をいう部下を叱責したが、映像が送られてくる事によってようやく信じたのだ。SNSでも拡散してしまったが、ゴブリンは人に近く、非現実世界に迷い込んだ様に錯覚させた。
指揮官が狼狽えれば部下に伝わる。地域課の警察官は明石の目から見ても良くやっていると思う。官僚であるが故に明石は現場を知らない。警察官を管理するのが仕事であって実働部隊は地方公務員である警部以下に任せるべきだと考えている。
管理官や理事官が現場に口を出しても碌な事にならないのを知っているからであった。それでも現場を知ろうとする努力をしなくて良い理由にはならない。関東一帯を任せられており、他にも数人の警察官僚が派遣されていたが、顔には貧乏くじを引かされたと書いてある。
警視でしかない明石が次席扱いとなっているのも閑職ではないが、好んで責任を取ろうとした警察官僚が居なかったからである。理由は分からないが神奈川は全国で東京に次いで特危獣の出現率が高かった。
人口密集地に出現するあたり人為的なものを感じるが、その捜査の主導権は公安に握られており、情報は中々、下りてこないのだ。警察官の装備は非殺傷系が多く、発砲も後の報告書を考えればなるべくはしたくはないという考えが大半を占めているだろう。
刑事課の警察官は普段は銃を携帯していなかったが非番の警察官を除いて携帯することが義務になったことで不祥事も起きている。一番、多いのは公衆トイレなどの公共の場への置き忘れである。
行方不明となった銃はなく、善意の第三者によって全て回収されたが、問題は悪意ある第三者に渡ることである。もし、その銃が犯罪に使用されれば置き忘れた警察官だけの問題で済まないのだ。
警察庁と警視庁のトップは引責辞任となり得るし、民間人の信頼を失えば取り戻すのにどれほどの時間がかかるか分からないのである。警察に対する信頼がなければ捜査はしにくくなり、日本の治安は確実に悪化する。
得をするのは犯罪者くらいであり多くの善良な者にとって損でしかない。一部の市民団体は銃の所持・携行の規制を緩和するべきだと活動しているがアメリカの現状を知ってそう発言しているのだろうか。確かに個人も自己防衛の権利はあるだろう。
だが、特別な許可を持たない民間人が銃を所持できる土台は日本にはない。防犯グッズや保存食、防刃・防弾ベストの売上が高くなったが、それでも個人レベルでの対処には限界があり、そのために警察や自衛隊があるのだ。
明石はここを離れる訳にはいかなかった。関東を担当する警察官は他にもいるが、責任を取れる役職に就く者はそう多くはないからだ。クリスマスに特危獣が現れた時にはまだ組織されておらず、日本では自衛隊が主に駆除を行っていた。
機動隊は暴動の鎮圧に向けざるおえず、人員はどこも足りていなかったのだ。治安が回復すれば警察権は自衛隊から返還されたが、不用意に出歩く人は減り経済活動は停滞した。世界規模の混乱も年が明ける頃には沈静化したが、原因は不明でありインターネットでは異世界へのゲートが開いたと主張する者や今でも年輩の方は覚えているかも知れないがノストラダムスの予言との関係性を主張するコラム二ストが現れ混乱していた。
素直に警察の誘導に従う者もいれば、規制がされた事によって帰宅が困難になった者達は警察官へと詰め寄ったりし、特危獣の捜索は遅々として進まない。目撃情報から駅周辺を虱潰しに探しているが、明石もどこが危険でどこが安全なのかを判断できないでいた。
JR東日本は通常通りの運行を強行していたが、警察は協力を要請できても強制はできない。結果、小田原駅に多くの人が溢れかえる事になり、転倒事故も起きていたが、消防は規制線の中に入る事はできず、警察官によって重病者の報告がない限りは救急車が来る事はないのだ。
群集心理によって多くの人が特危獣の現れた小田原駅周辺から逃げだそうとしたが、明石は危険性を認識していた。規制線の内側に入る事は出来ないが、バス会社の協力を得て外側に移動する事に関しては制止していない。
実際に人を喰って生き残った個体は少ないが、存在している。警察と自衛隊による捜索も完璧ではなく住民の行動を長期間、制限する事は難しいからである。銃という武器で襲われた事によって人がいる場所に下りてくる個体は少ないと考えられており、警察の対応も完璧とは言えないが最善を尽くしていたからである。
「機動隊員には、いつでも特危獣に対応できる様に準備を。県知事には自衛隊の出動要請が直ぐにできる様に県庁での待機を要請しておいてくれ」
特危獣対策特措法においても自衛隊の出動は治安出動に準じた扱いを受けている。地方自治体の首長もしくは内閣総理大臣の要請なくして出動することはない。例外事項として国家公安委員会の要請と警視総監もしくは警察庁長官が必要と認めた場合のみである。
明石も警察庁の指示を受ける立場であり報告の義務もあったが報告書は簡易的に纏めて時系列に報告するつもりであった為に大量のメモをとっていた。明石の子供時代からの癖であり、メモ魔である。
上がってくる報告は優先順位で分けられていたが、それでも明石による手書きのメモが添えられいた。明石は特危獣よりも人の動きに注目していた。
誰かが人為的に連れてこなければ、それまでに通報がないというのは余りにも不自然である。変異する瞬間を目撃した者はいるが曖昧であり信憑性に欠けていた。そして、動物が変異するのであれば人間だけが対象外であるとは考えにくく、研究機関でも調査が行われたが、変異の原因は特定できていない。
変異前の生物との類似性は多かったが、通常の生物の進化とは考えにくかったのだ。キリンも最初から首が長かった訳ではなく環境によって生存と種の保存に有利になる形で長い時間をかけて進化するのだ。ゴブリンが人が変異させられたものであったのなら警察に提出される行方不明者である可能性は高くなる。
極端な失踪者の増加は報告されていなかったが、ゴリラやチンパンジーが進化した姿とも考えにくかったのだ。そして、特危獣の存在は観光業と食品業に大きな損害を与えた。観光業では動物園に訪れる人は激減し、食品業では安全性に対する不安の声が上がったのだ。
遺伝子組み換え食品ですら拒否反応を示す者がただでさえ多かった。品種改良と遺伝子組み換え食品の境が曖昧になっている現代でも高いお金を払って無農薬野菜を購入する者もいた。
農林水産省は初期の頃より植物の変異について確認しており、現在に至るまで植物型は確認されていないが、マスメディアが不安を煽る報道に終始した為に国民は何を信じて良いのか分からない状態となっていたのだ。
普段であれば減反を行う様な農作物も海外への輸出の需要が増えた為に行っていない。政情が不安定な国はもとより発展途上国は特危獣対策で手一杯であり、世界の食糧事情は悪化の一途を辿っていた。そして藤家は内閣総理大臣として食糧支援を世界に発表した。
輸入に頼っている食品も多いがそれでも米ならば余裕はある。好き嫌いを言っている状況ではなく、国民を飢えさせないには行動することが求められているのだ。
日本は世界から孤立しない為にも周辺国家の理解と賛同が必要であった。島国である為に陸地を移動する特危獣が日本へ侵入する事はない。そして飛行型の特危獣も存在していたが、圧倒的に陸型の方が多いのだ。
隣接している国と友好関係にあっても国境に軍隊を派遣するのは軍事的緊張を生む。アメリカとメキシコは普段から険悪な雰囲気を醸し出しているがアメリカからの一方的な通告によってメキシコ人の入国を規制し始めた。
麻薬カルテルとの戦いは長く、警察官の汚職も多かった。アメリカに逃げれば何とかなると考えるメキシコ人は多く、不法入国者と不法滞在者がアメリカへと押し寄せたのだ。正規の手段であればアメリカは旅行客を受け入れている。それはどの国に対しても同じであったが、アメリカも多民族国家であり多くの問題を抱えていた。
犯罪率の増加は治安を悪化させ、日系アメリカ人は親族を頼って日本へと観光ピザで入国する者も多くいた。日本は確かに昔ほど安全ではなくなったが、銃犯罪は極めて少ない。
日本の警察が優秀だと考える者は多く、藤家内閣の支持率は若干ではあるが上がっていた。言葉の問題を持つ者もいたが、翻訳アプリの向上によって意思疎通に支障は出にくくなっている。
結果的に日本も観光客の受け入れを制限し、難民の受け入れも少数しかしていなかったが、それでも自国の事で手一杯である他の先進国に比べればまだ国際貢献をしていると言えた。
普段は反日活動を行う中国・韓国に対して日本は強い態度をとる事ができた。中国・韓国軍の練度はあまりにも御粗末であり、兵器の稼働率も低い。韓国に至っては兵器の博物館である北朝鮮よりも練度が低い事を露呈していた。
日本は特に領海に接近する船舶に対して積極的に臨検を行った。海上保安庁の巡視船や海上自衛隊の護衛艦に対しての目に余る行動がこれまで多すぎたのだ。藤家は発見されていないとはいえ水棲の特危獣がいないとは思ってはおらず、調査の一環として派遣しており、その際の行動指針には特危獣対策特措法が適応される事になる。
無闇に刺激する必要はないがそれでもやったらやり返される事を他国に教えなくてはならないのだ。実弾による威嚇射撃には戦争のきっかけになるリスクは常に付きまとうが、現場の自衛官と保安官達は協力し、不法に日本の領海に対し侵入した不届き者に対して自衛権の行使を行う事を可能とした。
練度が高いからこそできる事であり、日本も相手側に死傷者がでない様に配慮はしていた。日本は第二次世界大戦の反省から対艦・対潜兵器に対して力を入れており、今までは憲法を盾に多くの人が反対していたから不可能であって、内閣の解釈では自衛隊の存在は違憲ではないのだ。
そして国際法でも自国の領海に侵入した不審船に対する臨検は認められている。そして必要となる場合には武力の行使を否定していない。中国・韓国も日本以外の国に対して挑発行動は行えないだろう。
アメリカやロシアであったのなら警告なしに撃墜もしくは拿捕されても文句は言えない筈であり、自衛隊にも実行するだけの戦力と実力があった。
積極的自衛権の行使と日本では表現されるが、他国の軍からしてみれば国や国民が軍隊に対して理解を示さないのは悪夢でしかない。反撃するにしても最初に仲間を必ず犠牲にしなくてはならないなど笑えない冗談が過ぎるのだ。
明石は街中に設置されている防犯カメラ映像の分析を始めた。いたる所に設置された防犯カメラは犯罪抑止だけでなく、捜査の重要な目になるのだ。
第一通報があった時刻から小田原城周辺に限定して解析にあたらせていたが、特危獣の逃げた方向も被害状況も把握できていない。怪我人が出る中で救急隊員も苛立ち始めていた。警察が状況を管理するのは良いが消防に対する通報も鳴り止まないのだ。
隊員の安全確保のためだと理解はしていてもその肝心の特危獣は雲隠れしている。質の悪い悪戯であると判断するのが妥当であると感じていたが状況は一変することになる。
小田原城内の安全確認をしていた警察官からの定期報告が無い事に明石は気付いたのだ。複数の警察官を配置しており、駅ほどではないが人も沢山いた。日本人も多かったが外国人旅行客も多く、避難誘導に人手を割くのは当然のことだったからだ。
「済まないが、小田原城内の情報を集めて報告して貰えないか」
隣に居たのは自衛隊の情報分析官である御子柴二曹である。出動が決定されるまで基本的には自衛官がすることはない。ただ警戒情報指令所は警察と自衛隊の円滑な情報交換と協力体制の構築の為に設立されており、警察が集めた情報を解析するのも自衛隊の仕事の一つなのだ。
自衛隊側の情報担当責任者は出動準備のための調整役としてこの場におらず、補佐役の自衛隊幹部も別件で他幕との情報交換で手が離せない状態だったのだ。明石には報告されていなかったが、公安の監視対象リストに載っている人物が複数のルートで来日していた。
合法なものもあれば海上保安庁の制止を振り切って上陸した者達もいる。
厄介なのは国籍も違えば信仰する神も違う事であり、日本がテロ攻撃の目標になる可能性が高いということだが、警察庁と警視庁でも一部の者しか知らされていない極秘情報であり、自衛隊でも未確認情報として確認作業が行われていた最中である。
テロリストの中に知能数が高い者も多く元軍人や科学者・宗教的指導者など幅広い。特危獣対策は必要ではあるが警察内部では外様扱いを受けており、情報の伝達が行われないことも多々あったが、その秘匿体質が多くの死傷者を出す事になったと後に明石は内部調査の為の報告書に記入する事になった。