五話
通報があって最初に駆けつけた警察官は経験の浅い巡査と現場経験の長い巡査部長であった。避難勧告が携帯電話を通じて為されており、現場は混乱していた。
多くの人が駅に向かって移動を始めており、車で訪れた者も市外へと移動しようとしていた。駅周辺は一方通行も多く慣れない者にとっては運転しにくい場所である。
阿鼻叫喚となっている現場で二人に出来る事は少しでも多くの一般市民を安全な地域に誘導することであり、自分達以外の警察官も続々と到着していた。外国人は何が起きているか分からないが、とりあえず逃げた方が良いと判断した。
特徴的な青い制服を着ている警察官に詰め駆ける者もいたが早口過ぎて英語で喋っている事は理解できたが内容までは分からない。外国語に堪能なグローバルな警察官も増えていたが、それでも絶対数は少ない。
通常業務を止める訳にはいかなかった。罪に対して罰があるからこそ、人は規律や法律を守るのであってそれを執行するのが警察官や裁判官などの司法関係者である。死刑が犯罪を抑止するかは議論が分かれるところであるが、犯罪者には刑罰が必要なのだ。
そして警察官は法の執行者であるのと同時に守られるべき一般市民の盾なのだ。外国人であったとしても暴徒となりかけているのは守られるべき存在で、警察官もどう対応するべきか迷っていた。
無論、そのために催涙弾も用意されているが一介の警察官ではその判断は下せない。そして考えている内に事態は最悪の方向へ地獄へと転がり落ちていった。
小田原城に居た全ての生きる者が苦痛により地面をのたうち回った。遅効性の毒が心臓の血流に乗って体を蝕んでいく。そこに存在していたのは生まれたばかりの特危獣であり、監視カメラは遂に生物が変異することを記録に残したが、解決にはなっておらず寧ろ人が特危獣になることを最悪の形で証明してしまったのだ。
そして体を作り変えられた警察官は人である記憶を失いただ生きる者を殺す存在となった。明石が気付いた時には既に手遅れであり、一般市民を守る為に射殺命令を出すしかなかった。
そして明石は決断した。警察庁へと繋がる直通電話を手にとり、警察庁長官に対して自衛隊の出動要請を下す様に説得することを。事態は一刻を争う。部下に報告された事はまだ信じられないが突然、特危獣が現れた事の説明はつく。
自衛隊にはNBC対策部隊があり、地下鉄テロをきっかけに設立され、原発事故にも出動した。今は警察の体面など気にしている場合ではなく一刻も早く対抗措置をとらなくては一般市民を殺さなくてはならなくなる。特危獣の遺体から採取した細胞はバイオハザードに対応した日本の研究機関でワクチンの作成が多大な国家予算が投入され行われていた。
人は一度、感染したウィルスに対して体を守る為に抗体を作りだす。予防接種に使われるワクチンはウィルスに化学的処理を行い、毒性を弱めた物であり人体に対する害を最小限に抑え込んだものである。先ずは変異の原因となるウィルスを発見しなくてはワクチンは生み出せない。
特危獣の遺体が研究所に持ち込まれ解剖されたのは原因の特定以上にワクチンの作成が急がれたからである。どの様な条件で感染・発症するか分からないウィルスに対して人は無防備である。
基礎体温が高い方がウィルスに対して高い抵抗力を持つ事になるが、人の平熱はだいたい決まっており、動物によって異なる。もし感染しても活性化しなければ症状は発症しない。マスクをしていても全てのウィルスを体に侵入する事を防げる筈もなく、普段はウィルスの侵入を防ぐ役割を果たしている皮膚も怪我を負っていればその役割は果たせない。
政府要人や医療関係者分の抗ウィルス薬ワクチンの研究は各国で行われていたが、いずれの国も半年以上が経った現在でも成功したという話は聞いていない。汚いと思う人が多くいるかも知れないが、ワクチンの開発には莫大な利権が絡んでいる。
もしワクチンの単価が安かったとしても人類や動物に接種させる事を考えればその価値は日本の国家予算を超えるものとなるだろう。もし一国しか開発に成功していなければ少なくとも開発に成功するまでは必要分を言い値で購入するしかなくなる。
外交の手段として用いられる事になるかも知れない。国民の要望に答えられない政府は政権の座を明け渡すしかなくなるだろう。考えたくないことだが、ワクチンを手に入れる為に戦争になることだって十分に有り得ることなのだ。
特危獣になってしまった人間に対する扱いの問題もある。人としての記憶を失い人を襲う様になった元人間の人権をどうするかである。変異を元通りにする魔法の薬が開発されるのであれば問題はそう大きくはならないだろうが、抗体を持っていたとしても完全に防げるとは限らず、元通りになる薬が現在の科学力で開発できない方の可能性が高い。
被害を出した場合は親族に対して請求権があるのか、特危獣となった者を射殺する法的根拠と遺族の国家に対する賠償責任請求権などである。日本であれば前者の場合は限定的に認められ後者の場合は否決される可能性は高いだろうが、訴訟大国アメリカならどうだろう。
市民を守るためにやむなく射殺した警察官に対して多額の賠償金を請求する可能性は高い。企業や個人に対する制裁金という側面が強くコーヒーショップで火傷した客が店を訴え日本円換算で億を超える賠償金の支払いが命じられる様な国である。
日本であれば程度にもよるが火傷であれば治療費と慰謝料が数万から数十万円程度が妥当であり例え障害が残る様な傷を負わせたとしても億を超える賠償金を裁判所が認めるのは稀である。
文化によっても異なるが日本の場合は人として意識を保った元人間(特危獣)に対してもある程度の人権が認められる可能性はある。無論、親族などの後見人を立て他人に害を与えないという前提ではあるが。アメリカやロシアであればメカニズムを解明するために平気で人体実験を行い闇に葬るだろうが、日本人のモラルは世界的に見ても高いとされているからである。
小田原城に居た人間は人型特危獣グールに変異していた。グールは人もしくは猿などの体が腐敗する過程で生まれたと考えられている。皮膚は腐り果て、病原体の塊とも言えるグールは焼却処分されるのが一般な対処となったが、死体が動く原理は分かっておらず、脳に寄生された事も確認がとれていない。
蜂の中にはゴキブリの脳に寄生する種が確認されており死体が動くという非合理的な事を科学的に証明するためにグールに対しても実動部隊による特性確認のために様々な駆除の仕方が試みられたのだ。
自衛官による頭部に対する銃撃は効果を現さなかった。大抵の生物であれば脳もしくは心臓を破壊されれば生命活動は停止する。首をはねる為に銃剣で近接戦闘を試みようとした自衛官もいたが、映画で有名なゾンビは噛まれるとその被害者もゾンビになるという描写は多く、リスクが高いと判断した隊長によって車からガソリンを抜きグールに対して撒き火をつける事にしたのだ。
グールもゴブリンも政府がつけた有難い正式名称があったが、現場では使用されていなかった。通称がファンタジーに登場する魔物の名前が使われる様になったのは、その方がイメージがしやすいというだけだ。
若い自衛官と年はとっているが柔軟な思考を持つ一部の自衛官は秋葉原へと乗り出し資料としてライトノベルを購入したり、著名な作家に取材などをオフレコでしていた。藤堂はファンタジーに興味は無かったが、相対する特危獣と特徴が一致するのであれば参考程度にはなると考えていた。
アニメ業界の長時間労働・低賃金問題は別としてもアニメは世界に通用するコンテンツの一つとなっているのだ。様々な方向から考察するのは重要な事である。様々な分野を専攻する学者。
SF作家からライトノベル作家まで少しでも手掛かりになりそうなものがあれば藤堂は積極的に取り入れた。当然、作家に話を聞く為に出版社に連絡を取りあったのは個人(私人)としてであり、自衛官(公人)としてではない。
身分を明かさなくては出版社の協力が得られない為に極一部の者は藤堂が自衛官である事を知っていたが、その他には自費出版に興味がある個人として紹介された。部下に対しても情報収集を命令していたためその費用は藤堂のポケットマネーから出ている。
三佐として十分な給料を貰っており、少しでも部下の死傷率が下がるのであれば安いものだったのだ。ガソリンであれば距離をとっていてもかける事は出来る。
火炎瓶を一般人が所持していれば逮捕・勾留されるだろうが、危険物処理の資格を持つ隊員の管理下で特危獣を安全に駆除するためであれば延焼防止義務はあるが違法性阻却事由として認められるのである。
特危獣の駆除はそもそもが緊急性が高く公益性も高い。反対する市民団体もあったが、駆除にあたる警察官や自衛官の安全性を蔑ろにして良いものではないのだ。
グールは表面だけを焼いても活動し続ける為に出動する事になった自衛隊の部隊には常備されていたが、警察官の主たる目的は治安の維持であり情報の共有はされていたが、特危獣に対する備えは限定的であり、装備も貧弱であった。
明石が確認の為に向かわせた機動隊も暴徒鎮圧の為の訓練は行っていても特危獣に対しての訓練は殆んど行われていなかった影響も大きい。盾だけで抵抗するのにはグールとなった人数が多すぎであり、対処しているうちに噛まれ負傷する機動隊員は多かった。
動きが遅いとはいえ発砲に怯むことなく向かってくるグールに恐怖する隊員は多く、威嚇射撃だけでなく、実弾がグールに対して遠慮なく撃ち込まれたが動きを完全に止める事はできなかった。
噛まれた事によってグールになることは報告はされていないが、隔離し経過観察が必要になるのは二次感染を防ぐ上で重要な事であり、グールになった者は心停止した後に突然動き始めると予想されている。
同僚が突然グールになって止めを刺せる者は少ないだろう。明石もジェラルミンの盾で防御しつつ火によって安全地帯を作る事を指示したが対症療法でしかなく、警察の対処能力を既に超えていると判断するしか無かった。
明石は現場指揮官であり、自衛隊に出動を要請できる立場にはない。しかし、ただ推移を見守る事など出来る訳もなく部下に断って建物の外に出て電話をかけ始めた。
「亘か?悪いが状況が切迫しているから前置きは無しに本題だけを話す。自衛隊が直ぐに出動できる様に藤堂三佐に掛け合ってくれないか」
弟である亘と話すのは久しぶりである。お互いの役職を話してはあったが、機密に関する事も多い為に詳しい内容までは話せない。亘が上官として藤堂を慕っている事を昇は理解しており、今は警察官僚としてではなく、兄として弟に無理を承知で規則違反をしてくれと頼んでいるのだ。
「小田原で何かあったのか」
亘は分隊長を補佐する立場であり、特危獣対策警備隊には全国の特危獣に関する出現情報が報告される様になっている。
「ああ。グールと思われる特危獣によって小田原城が占拠されている。警戒にあたっていた警察官と民間人は全滅し変異したと思われる。機動隊を投入したが、突破されるのは時間の問題であり、民間人への被害が拡大する前に食い止めなくてはならん」
「ちょっと待っててくれ。今、話をしてみる」
課業中ではあったが、今は部隊に関する報告書を作成しており、亘は出動待機中であった。然るべき場所から要請がなければ出動する事は出来ないが、それでも治安出動を命じられるよりは条件が緩和されていた。上官である分隊長に事情を説明し、藤堂の下へと亘は急いだ。
「明石三曹です。入室しても宜しいでしょうか」
「入れ」
特危獣対策警備隊の隊長に宛がわれた藤堂の部屋は三佐に対する物としては設備が過剰であり、首相官邸、警察庁長官室、統合幕僚本部などへの直通電話が設置されており、即応できる様に仮眠室さえ併設されていた。
「明石三曹。まだ課業中の筈だ。何故、ここに来た?」
藤堂と昇は一度だけではあったが、面識があった。関東一帯を任されるだけあって優秀であり、線が細くなければ自衛官として部下に欲しいくらいである。警察官僚でありながら常識に囚われない柔軟性を藤堂は高く評価していた。
成人している目の前の弟に対して少し過保護だと思ったが、明石警視が必要であると判断したのであれば、出動命令がかからなくとも準備するだけの価値はあると藤堂は判断した。
「春日小隊に出動待機命令を出せ。兄の明石警視と話は出来るか」
「この携帯からかけて下さい」
リダイヤル画面のまま亘は藤堂に携帯を渡した。勤務中であれば私用の携帯の所持は原則できないが、役職者にはいつ外部から電話がかかってくるか分からない。訓練中であったのならロッカーの中にしまっていたが、亘は朝から嫌な予感がしていたのだ。
書類を作成するだけなら直ぐ電話に出られる様に手元に置いていても不思議ではない。規律に煩い自衛隊であっても亘の親は介護が必要であり、いつ電話がかかってきても不思議ではないために許可申請を藤堂にしてあったのだ。
一方の昇は部下に命令を出しながらも、警察庁長官に対して陳情を続けていた。昇の警察庁での役職は課長補佐であり、官僚であってもまだ警視でしかないのだ。キャリア組である昇の階級は警部補から始まり、順調に出世していたが本来であれば警察庁長官に対して陳情が出来る立場にないのだ。
その為に上司である警視正に連絡を取ろうとしたが不通であり、折り返しもない。越権行為はなるべくしたくはないが、人命がかかっている以上は悠長に事を構えている時間はないのだ。だから弟と連絡を取り藤堂と話をする必要がある。
警察官としてキャリアと多くの人命を天秤にかけられるほど昇は傲慢ではなかった。何もしなければ間違いなくクリスマスの悲劇と呼ばれる様になった特危獣による殺傷事件に準ずる規模の被害が出てしまう。
「警視。内閣危機管理室から入電です」
警察官の全ては警察庁の監督下にある為に明石は先ずは警察庁へと連絡をとったが、警察官と自衛官からなる警戒情報指令所のメンバーは内閣府の委員会に所属する職員という扱いを受ける。報告は義務であり無駄な犠牲を出さない為に必要なことなのだ。
警視正と連絡がつかないのはこの際、忘れる事にした。名前だけのトップに命令されるのは余計な混乱を呼ぶだけであり、ここにいるメンバーは現場指揮も行うが、本来の目的は警察庁と防衛省との円滑な情報交換と共有であり、情報収集を一本化し初動対応にあたる事にあるからであった。
未知の事態に対して前例を基にあたる事は危険である。法を遵守することは必要なことであるが、遵守するあまりに被害を拡大させては何の意味もないのだ。中には明石の行動を問題視する者もいたが危機管理という面においては正しい行動をしていると判断する者は多く、自衛隊の出動が承認された。
藤堂もその一人であり、自衛隊の幹部職員として事態の終息後の報告書に明石警視の行動がなければ被害規模は一桁は違っていたとの旨を公的文書として残したのである。明石と藤堂は直接の情報交換を行った。現在、確認がとれた特危獣はグールのみであったが第一通報の原因となった特危獣の種類も場所も特定されていなかった。
正式な命令がある前に藤堂は部下に対して出動待機命令を出しており、藤家によって追認される形となった為に藤堂の行動に異議を唱える者は少なかったが、藤堂は部下に慕われるタイプの指揮官であっても上に嫌われるタイプの指揮官であるのだ。
終業間近に隊員に対して明日の訓練の準備と称して輸送ヘリの発進準備、武器弾薬の用意をさせた。藤堂の部下達は藤堂の判断に疑問を持たずに命令に従った。藤堂は部下に責任を押し付ける様な性格はしていない。自衛隊の多くの国際貢献活動に参加し、大災害の際には部隊の指揮を執った。
特殊部隊員としての経歴を持ち命令だけして後は現場に任せる制服組の幹部とは違うのだ。上に嫌われているのと本人の現場主義さえなければ二佐になっていても可笑しくはない。
陸自の指揮幕僚課程は約二年間にも及ぶ長期間、拘束される事になる優秀な成績で修了すれば将官への道も開かれるが、藤堂は出世には余り興味が無かった。特殊部隊を指揮できる幹部は自身も特殊部隊員であった経歴を持っていた方が良いが、自衛官の異動のペースは早く指揮するだけなら経歴は問われない事が多い。
必須条件にしてしまえば、一人の幹部の任期が長くなり、癒着や防衛機密の流出の可能性は高くなり特殊部隊員の全てが自衛隊の幹部となる訳ではないからである。それでも部隊の特殊性から特殊部隊に理解のある指揮官は必要である。藤堂はそういう意味ではうってつけの人材であったのだ。
自衛隊が動き出す事によって藤堂は作戦へ部隊の派遣を陸幕長へと上申した。備えとして中隊全てを派遣する事は出来ないが、経験豊富な隊員を小隊規模であれば即時の派遣が可能であり、信頼のおける春日を小隊長とした春日小隊の派遣が被害を抑える為に必要であると直訴したのだ。
藤堂の古巣でもある特殊作戦群もあらゆる事態を想定して設立された部隊であり日々、厳しい訓練を行っていたが、人に特化した部隊であり特危獣に特化した特危獣対策警備隊とは性質の異なる部隊なのだ。
日本は特危獣対策警備隊の存在を公にしており、個別の隊員の素性は隠しているが、部隊規模も公表している。現在は中隊規模ではあるが、時期を見て増員も検討されており、他国との共同作戦の際には真っ先に派遣される部隊となるのだ。
特危獣への対策はどの国家も重視している。未知の生命体から新薬や新技術が発見される可能性も秘めているが、人に敵意を持つ特危獣の駆除は優先して行われるべきなのだ。
藤堂が可愛がってきた部隊員達は困難に正しく立ち向かい結果を残す事になるだろう。白井を始めとする若い幹部自衛官はこれからも特危獣の脅威に晒される中で本来の国防の任に就かなくてはならないのだ。国際情勢の変化もめまぐるしく、いつ日本が中国や韓国と開戦する事になるかも知れないのだ。
北朝鮮は国際社会では孤立気味であり戦前の日本の首脳陣みたいであるが、核の脅威が軍事的な脅威としてあるうちは日本国民は安心して眠る事は出来ないのである。藤堂は部下に訓辞を述べ、戦地となる小田原へと部下を送り出したのであった。




