一話
変異体が近付いてきたがまだ発砲命令を部下には出していなかった。麻酔弾だから弾かれたのかは検討がつかなかったからであり、距離が近くなれば相対的に命中率が上がるからでもあった。
人の頭を潰す咬合力は相当なものでヘルメットで頭を防護してはいるが、噛みつかれたら無傷では済まないだろう。隊を預かる者として隊員に被害者を出す訳にはいかない。
自衛官も子であり親であり兄弟姉妹である。変異体が一匹だけでないのなら今回のケースが今後に与える影響は少なくない。
発砲を許可したのも前例を作ることで要件の引き下げをするためのものであり、脅威に晒されるのは現場と国民なのだ。
「各自、発砲を許可。人に当てるなよ」
近くで見るほどに変異体は恐怖心を煽ってくる。出勤となったことでフライドチキンを口にしてはいなかったが、それでも当分は肉は喰えそうにない。
吐かなかっただけまだましであり、人の死を見た事で隊員達は動揺していた。だが、銃の発射手順は嫌と言うほどに繰り返しており体に染み付いている。
経験の浅い士達は少しもたついていたがそれでも発射準備を終えていた。変異体は恐ろしいほどに反応が良かった。体重は元の鶏の何倍になるのかなど想像もつかないほどで、人間すらも補食の対象になるのだ。
油断していれば鍛えられた自衛官といえどその胃袋に収まる事となるだろう。引き金を引く指には自然と力が込もっていた。戦う力があるからと言って必ずしも戦えるとは言えない。
それでも自衛官は身を危険に晒し、命懸けで一般市民を護っているのだ。それは苦楽を共にした仲間がいるからだった。銃は下向きに構えられていた。
射線を確保するのは当然の事だった。俊敏であり、当てること自体が難しい。それでもショットガンの様に面で撃てば少なくとも銃弾が当たった衝撃で止める事は出来るだろう。
引き金は一般人が思っているより遥かに軽いが、その引き金を引いた指の少しの動きで人を十分に殺傷できるのだ。
分隊は変異体の動きを止める事に成功したが、銃弾は変異体の皮膚を貫通するには至らない。人よりも遥かに硬い皮膚は銃弾を阻んでいた。銃弾の数は限られており、無制限に湧き出るものではない。
自衛官の装備は全て国税から賄われている。国税を無駄に出来る訳がなく、銃弾はただでは無いのだ。
「増援が来るまで射撃を継続しろ」
藤堂三佐ならば至急、兵力を送ってくれるだろうという期待があった。既にアサルトライフルでも足止めしか出来ない事は無線で伝えてある。
対物ライフルを持った隊員も念のために用意されており、グレネードなどの手榴弾は使用する予定はない。士長によって現場から一般市民を遠ざける事も平行している。
そうすればより高火力である分隊支援火器が躊躇うことなく使う事が出来るからである。変異体は敵国の兵士より厄介な存在である。
戦闘車輌があれば無傷で仕留める事は可能だろうが、戦車も自衛隊機も市街地で使うには周囲に与える影響が大き過ぎるからであった。
「白井三尉。弾薬の残量が僅かです」
複数の変異体との戦闘も考慮していたが、人員を乗せれば弾薬のスペースは必然的に少なくなる。弾薬の補給中の隙を考慮して常に一人は射撃できる体制にしていたが、緊迫した状況が弾薬の消費を早めたのであった。
その時、戦闘区域に近付いて来る車輌があった。荷台にいた隊員達は既に降りる準備を終了させており、作戦周波で命令を伝えてきた。
「白井三尉。予備の弾薬は荷台にある。状況を送れ」
藤堂、自ら前線で指揮を執る為に副官に本部指揮を任せ赴いた様であった。
「やはりアサルトライフルでは足止めは出来ても効果的な打撃を与える事は出来ておりません。ただ衝撃を完全に逃がす事は不可能な様で打撲傷を与える事には成功しております。一般市民は宮内士長に任せ、退避させました」
誘導は徒に被害を拡大させるだけだと判断した藤堂はここで仕留める事を決断した。対物ライフルは発射時の反動が大きい為に固定する必要があり、狙撃に振動は大敵である為に狙撃ポイントを探させている最中である。
分隊支援火器での足止めが出来るのであれば、気をひいておいて増援を待った白井の考えは現状では最適であった。
「白井分隊はそのまま射撃を継続しろ。鴨宮分隊は捕獲ネットが効果があるかを試せ」
白井は非殺傷兵器よりも弾薬を優先させた。暴徒鎮圧用のネットは確かに人であれば効果はあるだろうが、人を殺傷する様な巨大生物に効果は薄いと考えたからである。
光化学繊維を使ったネットは変異体の動きを阻害はしていても完全に止める事は出来ない様だ。銃弾を避ける生物に当てろという方が無茶ではあったがそれでも発射している弾薬を考えれば幹部であれば顔を青くするだろう。
薬莢が一つ見つからないだけで部隊の全ての業務を中断して探さなくてはならないのが自衛隊である。発射した弾薬については報告書を提出する必要があり、それは分隊長の仕事であるからだった。
封鎖されているとはいえ、自衛官以外の警察や研究員なども現場検証で立ち入る事になるだろう。一発の銃弾でもそれが悪用される可能性が有る限りは無視できる問題ではないのだ。
藤堂は銃の発火炎を見て引く様子のない変異体を観察しながら、部下の一人に発煙筒を投げさせる。未知なる物体を避けようとするが、地面から足を離せば衝撃を地面に逃がす事は出来なくなる。
視界を確保できなくては強襲に対応できない為に一つ限りであったが、効果は殆んどなかった。簡易的な火炎瓶も効果があるかは不明であり、戦闘風景を部下に撮影させている。
未知であるからという事は言い訳にはならないのだ。出来る限りの事をするためには情報が必要であり、また別の個体が現れた時の為に必要な行為なのだ。
毒を使う事も検討されたが、自衛隊はNBC兵器の利用はしていない。費用対効果が高くとも制限の多い日本では使用は不可能に近い。
昔、ある宗教団体によってテロが起きたために対NBC兵器部隊の創設が為され教育校の設置もされたが、毒は人間に効果はあっても必ずしも他の生物に効果があるとは限らず、薬物耐性や変異によって更に強力な毒になる事を恐れたとも言える。
攻撃する側からしてみれば安価であり効果の高い兵器であるが、攻撃される側からは最悪な兵器でしかないのだ。銅で覆われたフルメタル弾では効果がほぼないと分かっただけでも収穫であった。
それは歩兵では足止め以上は困難である事を意味していたが、藤堂に動揺が少ないのは拳銃が効果が無かった時点で警察に出来る事は殆んどないのは分かりきった事であったからだ。
「こちら狙撃班。所定位置につきました」
白井は狙撃手でないために狙撃には疎いが、地球の自転や湿度・風など様々な条件で飛んでいく銃弾は目標から逸れていくのだ。
距離が離れるほどに難易度は上がり有効殺傷距離の制限もある。少しの角度の違いが、大きな差となるが狙撃手としては外せない条件が揃い過ぎていた。
民間の建物に当たらない様に注意しても跳弾によって道路や街灯を傷付けている。作戦行動で破損した場合、所有者は自衛隊に損害賠償請求するだろうが、国としてもどこまで補償するかの規定に沿って支払うしかなく、治安出動とはいえ実質的な防衛出動である。
国民の生命と財産を守る自衛隊が国民の財産を傷付けるのは本末転倒ではあるが、攻撃しなくては脅かされるのは生命である。ある意味では物で済んだと補償内容に納得してもらうしかないのである。
観測手は風向きや距離など狙撃に必要な事を計算し、狙撃手に伝えている。藤堂は効果の薄いネットで捕獲する事を諦め、密閉されたボトルに詰められた液体を危険を冒して変異体に接近し振り撒いた。
藤堂が手にしていたのは強力な接着剤であり、凝固には時間がかかるが固まってしまえば、動きを制限できる。継続して射撃をしている白井分隊の直ぐ傍には防護盾を構えた自衛官も待機しており、液体窒素なども用意されていた。
想定外はあってはならないことなのだ。もし、国を護る自衛官があの国があのタイミングで攻めてくるなど想定外でしたと言っても国民は批判を止める事はないだろう。まだ時間はかかるだろうが、装甲車も向かわせており、いざという時は空自への航空支援すら藤堂の作戦には組み込まれていた。
躊躇すれば助けられる命も救えない。自衛官だろうが人一人に出来る事は限られており、その中で最善を尽くすしかないのだ。
三佐の権限では幕僚本部の違う空自に支援を要請する事は難しい為に駐屯地司令には既に話を通してある。時間・場所的な制約がなければ、十式戦車によって精密射撃を行えば仕留められないという事はないだろう。
市街地に被害を出さないまま仕留められるのであればそれが最善だと言えるが、個人携行弾の使用も外した時を考えれば躊躇って当然である。
作戦に従事した隊員に請求される事はないが、自称評論家など的外れなコメントばかりする者達を喜ばせる必要はない。
既に銃弾で傷付いた道路の修繕費をどの様に負担するかで各庁の官僚達は議論しているかも知れないが現場を知らない者達が幾ら議論をしても結果は中々でないだろう。
寺尾二曹は、伏射の体勢を保ちながら引き金に指をかけていた。対物ライフルを扱える者は体格に優れていなくてはならず、訓練を欠かす事は出来ない。
高校を卒業して十年以上も自衛官として働いている。自衛隊内部で出世し、アルバイト扱いの士から正社員扱いの曹にまでなった。これまでの隊歴は平坦なものではなかった。
訓練中に集団暴行死事件が起きた際には、全ての自衛官が白い目で見られた。機体トラブルの起きた隊機を安全なところまで移動させようとしていた空自隊員は己の命を賭け実際に墜落死したが、機長と副操縦士は批判の的になった。
二人の自衛官は脱出することも可能だったが緊急脱出をした後は機体を制御することは当然できない。市街地に機体を落とす訳にはいかず、停電を起こしたのは不可抗力であったのにも関わらずだ。
常に批判の的にされ続けた隊員達は恋人にも職業を明かせない時代があった。人を護る為に人を殺せる技術を学ぶ矛盾しているが、誰かがやらなくてはならないことなのだ。
観測手にも相応の知識が求められる為に、同じ訓練を受けている。狙撃手は抑止力となる事が求められる。一発一殺、姿の見えない敵に狙われ続けるのは精神的な負担となる。
狙撃手同士の狙撃戦は心理戦でもあり、何より忍耐力が求められる。同じ体勢で何時までもいるのは存外にきついものがある。人の集中は続かない。
標的を足留めする隊員達がスコープ越しに見えていた。呼吸を整えて指を軽く動かすだけで標的を死に至らしめる事が出来るのだ。集中することによって周囲の雑音は消えた。
初撃を外せないプレッシャーは寺尾にあったが、緊張を感じさせない程に集中していた。観測手役の士長も瞬きすらせずに呼吸の音も押さえていた。
寺尾は無線を短く繋ぎ、発射するタイミングを包囲している隊員へと伝える。味方に対する誤射は一般市民を誤射するのに次いで最悪の結果であった為にその場を離れるタイミングを伝える必要があったのだ。
白井分隊・鴨宮分隊はジェラルミンの盾を構えた隊員の所まで下がった。寺尾が指に力を込め銃弾は発射された。轟音が鳴り響いた事で変異体にも居場所は特定されただろう。
最初はアサルトライフルの銃弾に驚きはしたものの皮膚を貫通する威力がないと分かると隊員達へ再度、襲いかかったが、対物ライフルの威力は高く明確な脅威として映り再度の狙撃は難しくなるだろう。銃弾は空気を裂きながら変異体へと真っ直ぐに飛翔した。
士長の命中を告げる報告があったが、それでも寺尾は次弾装填を済ませ、何時でも発射できる体勢をとり続けていたが、藤堂が変異体の生命活動が停止した事を告げる無線によってようやく安堵の息を吐いた。
寺尾の狙撃は成功に終わったが、陸幕を通じて藤堂が報告を上げ統幕によって内閣危機管理室へと情報の伝達が行われたが、日本国内に現れた全ての変異体を仕留めるには至っていない。
その後、半日に渡る捜索の結果により周囲に変異体が存在していない事の確認が取れた為に駐屯地への帰還命令が藤堂麾下の部隊へと下ったが、自衛隊に対する治安出動命令は依然として継続中であり、隊員達はシャワーを浴びた後に就寝するが、再度の変異体発見の報告によって叩き起こされる事になった。
日頃は騒音の原因となる駐屯地や基地は良い顔をされる事はないが、この時ばかりは違った。臨時ニュースが流れ速報を追っていた者以外は自宅で暇を潰すしかなく、早めに寝た者も多かった為にどの位の規模で変異体が出現していたか正確に把握している者はおらず自治体も曖昧な情報を確定情報と流し混乱していたのだ。
夜が明けた事によってサラリーマンは会社に出勤しなくてはならない。学校は臨時休校が決まっており、少なくとも一日の間ででき得る限りの情報収集を政府は行うつもりであったが、企業の経済活動を止める事は日本政府にとっても痛手であり、経営陣の自主判断に委ねるという玉虫色の決定しかできなかったのだ。
ライフラインである原発や火力発電所は警察官による警備体制が敷かれ、近付こうものならば問答無用の職務質問にあった。テロ防止に必要な措置であり、自衛官も参加していたが、病院もまた戦場となっていた。
葛西はベテランの外科医であり、事件発生時は不運にも夜勤をしていた。普段であれば急患がいなければ病院は静かなものであり、眠気との戦いであったが、この日の忙しさは、尋常ではなかった。
救急病院指定されていても医師や看護師がいなければ患者を治療することは出来ない。医者の場合は大抵、一つの専門を持っており、同じ医者でも内科医と外科医では役割が違うし、眼科医や歯科医は命に関わる様な手術を行うのは稀であった。
鳴り止まない搬送受け入れ依頼と大挙して押し寄せる患者達を見て休日の医者や看護師まで駆り出されることになったが、それでもひっきりなしに患者は治療を求めて病院へと訪れ途切れる事は無かった。
変異体が現れた市区町村では同様の事態に陥っており、治安回復はまだ半ばと言ったところだ。軽傷と判断された患者達はまだ良かったが、治療しても回復の見込み無しと判断された患者の親族と猶予があるために治療が後回しにされていた患者達が騒ぎ始めたのだ。
病院も警備員を雇っていたが、暴徒となりつつある一般市民を抑えるのには数が圧倒的に少ないのだ。葛西は既に数件の手術を終え疲労しているのだ。医者は患者を治す機械ではなく感情もあれば、ミスもする。
当直の時間は過ぎているが仮眠を少しとっただけでまた処置を待つ患者の治療にあたる事になった。同僚の医者達も同じ条件で働いているために弱音を吐くことも出来ない。
トリアージを受けた患者はまだ多くが治療を待っていたが、顔色が悪く色が変更された者もいる。医療従事者にクリスマスは関係なかった。警察・消防に対する通報もオペレーターを増やして対応していたが、それでも人手不足を解消できないでいた。
警察官も変異体を目撃した患者の聴取に訪れていたが、隔離処理がとられていた為に病院の警備に回っていた。不審人物を探すのが警察官の仕事であり、葛西の姿は不審者そのものであった。警察官は誰何する。
寝に帰るだけであった為に葛西は身分証となる物は何も持っていなかった。無精髭も生やしており、道端で出会っていたのなら警察官であったのなら職務質問をしなくてはならないだろう。
「ここは現在、閉鎖中です。身分証の提示をお願いします」
「ここの勤務医だが、身分証は今は病院の中だ。何があったんだ」
葛西の契約するアパートは、徒歩五分の場所にあった。呼びだされても直ぐに対応できる様に近くに住む勤務医は多く、鞄の中身は着替えと鍵のみであった。
数時間のうちに状況がそこまで変化するとは考えにくかったが、葛西が治療を行っていた時点では騒動に巻き込まれ負傷した患者が来院していたが、変異体に襲われた患者は居なかった筈なのだ。
「自衛隊の要請により、変異体から逃げた患者が収容されています。そのため感染症を懸念して封鎖が行われています」
警察官は病院関係者によって医者であると確認できた為に葛西を病院へと入れた。葛西は先ずは現状の確認が必要であると判断して医局へと歩き始めた。
葛西の弟は自衛隊の幹部として職務についていたが、電話は通じなかった。家族や友人の安否を確認しようと昨日から負担がかかっており、葛西は医者として自分に出来る事をしようとしているだけである。
「葛西先生、ここにいらっしゃいましたか」
田上は葛西が勤める西湘厚生年金病院の看護師であり、田上の父は警察官をしていた。新卒で直ぐにこの病院に就職した田上はまだ経験は浅いが、医者としての葛西を信頼しており、患者からも慕われていた。
「先生。病院は混乱しています。急患の受け入れは停止しており、入院患者さんも不安を隠せないでいます」
苦渋の決断であったが、この病院はベット数はあまり多くはない。田舎町にあるごく普通の病院であり、これ以上の受け入れは逆に患者の生命を危険に晒すと判断しても致し方ないことなのだ。
白井分隊の隊員によって救出された男性は酷く錯乱していた。知り合いが目の前で喰われたのは粋がって反抗的な態度をとりがちな成人をしていない子供にも刺激が強すぎたのだ。
「そうか。弟と連絡がとれないのだが、親父さんからは何か連絡はあったか」
「いえ、今は携帯は繋がらない状態で、メールで無事を知らせるだけで精一杯でした」
小さな町である為に近所付き合いは都会よりも多い。葛西も都会の病院に勤務していた時には隣の部屋の住人すら知らなかった。希薄である事に寂しさは感じるが田舎の噂好きにも辟易している。
葛西は国境なき医師団の一人として紛争地帯での治療に従事していた事があった。医療物資は常に不足し、医療機器を動かす電力さえ安定供給されていない。壊死を拡大させない為に四肢の切断を迫られ実行したこともある。
葛西は過酷な戦場で感じた空気を日本で味わう事になるなど考えもしなかったが、現実逃避をしていても物事は解決しない。葛西が治療室で治療に当たろうとした時、病院では別の非常事態が起きていたのであった。