第72話 なつかしいきおく
第72話 なつかしいきおく
半ば強制的に手伝わされた競技係の片付けが終わったのは、六時過ぎだった。ベタつく肌を拭うように、ハンドタオルと汗拭きシートでしっかりとニオイ対策をする。この時間は退勤ラッシュと重なっている。他人の目を気にする訳ではないが、ある種のエチケットだとは理解している。
瀧本と田端は用事があるとのことで、先に帰ってしまった。俺はというと、以前借りていたデッサンの本を返すために、少しだけ図書室に立ち寄っていた。もう図書室を締めようとしていたのだろう、図書委員たちはそそくさと脇目もふらず貸出カードの整理や予約表の確認をしていた。忙しそうにしていたので返却ボックスに入れようとすると、ついでなのでそのまま置いてもらって大丈夫です、と言われ、そのまま手渡すことにした。
図書室を出たところで、下校をするように促すチャイムが響く。見回りの先生ともすれ違うようになった。居残るのがダメだとは言わないが、名目上は早く学校から出て無事に帰宅してほしいのだろう。教室の前を通れば、戸締りの確認をしながら早めに帰るように伝える先生の姿が見られた。最後の最後まで面倒を見なければならないのだから、先生という職業も大変なのだろう。
靴箱の前で靴を履き替える。大方生徒の姿は見られないので、じんわりと熱い玄関先には、靴箱の戸が閉まる軽い金属音だけが響く。座りながら踵を鳴らし、スニーカーを履く。玄関先は夕に染まる朱色が段々と抜け落ち、藍色のグラデーションが上から下へとその色を変えていた。
今日の夕飯はいりません、と先程姉貴からメッセージが届いていた。もちろんこのままスーパーに寄って帰るのもがいいが、今日はあいにく元気がない。コンビニで買うか、どこかで外食するのも悪くない。どうしようかと財布の中身と喧嘩しない程度に悩んでいると、そのまま後ろから誰かに肩に腕を回されてしまった。
「すーちゃん、珍しいね! 今帰り?」
うるさい程に大きな仁都の声が俺の耳元に響いた。体全体に重量がのしかかり、重たいというより暑苦しい。夏だから少しはこの行為を抑えてほしいなとは思う。仁都の後ろには、坂田と田本の姿も見られた。
「すずめくんも今帰りなんだ、お疲れ様~」
「こんな時間まで残るなんて大変だね。雀宮くんは何か役職持ってたの?」
そう訊かれ、文句を言う仁都の腕から離れながらことの経緯を話す。すると、二人も同じように係の手伝いで残っていたのだという。田本は分かるが、なんで坂田まで? と訊くよりも先に、たまたま田本を迎えに行った時に傍にいたら捕まったとのことで、ほとんど俺と一緒だったらしい。田本が申し訳なさそうに笑みを見せる。
「そのせいで俺が一人ぼっちにされてたんだよー! 酷くなーい?」
力仕事なら絶対に俺の方が向いてるのに、先生達も見る目が無いよなー、と仁都はわざとらしく大きいため息をついた。ウザったらしく肩まで落としている。いやまあ、お前が入れば百人力だろうが、それ以上にお前に頼んだら面倒くさそうな事情が見えるのだろう。自然と俺にはそれが分かっていた。
「一人ぼっちにされて暇なんなら、鞄を持つのを交代してほしいんだけど〜」
坂田はそう言いながら、自分の両腕いっぱいに塞がった鞄を見せる。そこにはうちの指定のスクールバックが三つ並んでいた。濃い藍色のシンプルなデザインの鞄であり、男女とも使いやすいデザインとなっている。ただ、指定とはいえ鞄は自由なので、俺は気分によって、指定の鞄からリュックに変えたりしている。今日はたまたまリュックだった。
本日二度目、なんで坂田が、と問うよりも先に何となく予想がついた。大方、ジャンケンで負けた方が鞄を持つとか小学生がやりそうなことを、坂田か仁都のどちらかが提案したのだろう。目に見えて分かる。田本に関しては、怪我をしてるから持たせたくないっていうのは二人とも思ってそうだしな。
「おーい。玄関まで持ってきたんだし、次は仁都だからな〜」
「えー、待って待って! まだまだ! 靴を履き替えて玄関を通らないと、玄関とは言わないよ?」
「……いや、遠足かよ」
「変なところでこだわるよなあお前……ったく、めんどくさぁーい」
「言い出しっぺは坂田でしょ? というか俺は別に持ってもらわなくて良かったのに……」
「だめ。田本はしばらく俺に過保護にされまくるの刑、継続中だから無理」
「お前も結構頑固だなあ……」
田本が苦い笑みを浮かべてため息をつく。この前こっそり仁都から聞いたのだが、坂田は田本に対して、何かと過保護な面があるらしい。田本が何かしらの無茶をして、それが坂田に知れ渡れば、罰として田本がやめてと言ってもやめないくらい世話焼きになるのだという。あの無気力低燃費が他人の為に動くなんて、人間というのはつくづくよくわからない。
靴を履き替え、玄関を潜ると、空は朱色のカーテンから藍色のカーテンに変わるように夜の装いの準備をしていた。高いところには星もちらほら見え、あんなにしんどかった暑さもすっかり涼しさを取り戻していた。
時計は夕方の六時半を指している。本来ならばもう帰って夕食の支度をしなければならないのだが、先程姉貴から連絡があり、今日は食べて帰るとのことだったので、気が楽だった。スーパーに寄って夕食のメニューを考えるという作業が減っただけでもありがたい。ただ、洗濯やら掃除やら郵便物の整理やらは待っているので、早めに帰るに越したことはないのだが……。
今日くらいは外で買ってから帰るかあ、と思っていると、田本がボールペンのインクの替えとノートの替えが欲しいとのことで、駅前の大きな文房具屋に少しだけ寄って帰ることにした。本屋とレンタルビデオ店が一体化した、大型チェーン店である。思えば、自分も消しゴムと新しい絵の具が欲しかったのを思い出したので、この機会に買っておくかとそう脳裏にメモをしたその時だった。
交差点の信号が赤から青に変わり、等間隔に引かれた白線の上をたくさんの人が行き来した。喋り声や車の駆動音、ぶつかったりぶつかられたりが続くその中で、俺は『その姿』を見て、思わず自分自身の目を疑った。まるでその場所だけが、映画のようにスローモーションになるように、俺は『あいつ』の横顔を見つけてしまったのだ。
「……あか……り……?」
口が勝手に動き、彼女が立ち去るのを静かに見守っていた。まさか、そんな、そんなはずは、ない。そう言い聞かせても、脳の処理はうまい具合に働いてくれない。
あの頃と変わらない笑顔で、あの頃よりも少し伸びた長い髪を靡かせながら、白と青のセーラー服に、赤いスカーフを躍らせて……。
「すーちゃん! 信号変わっちゃうよー?」
仁都のその声に、ハッと我に返る。気がつけば、俺は横断歩道の真ん中で仁都に手招きをされていた。歩行者信号はチカチカと点滅し、悪い、と謝り急いで渡り切った。後ろを振り返れば、もうそこに彼女はいない。自分の見間違いだったのだろうか、と言い聞かせたのだが、心の中ではそうではないと警告音がずっと鳴り響いていた。思わず自分の胸ぐらをぐっと掴んで口を噛んでしまった。
胸が苦しいとかそういうのではない。ただ、今でも、俺は彼女に対して『手を伸ばそう』としていた、すぐそこまで声をかけそうになっていた、その事実が嫌に明瞭で俺は自分で自分を殴りたくなった。
彼女の名前をもう一度口にするなんて、俺は思ってもいなかったのだから……。
俺はしばらく下を俯きながら、きっとこれは見間違いだと自分に言い聞かせて、仁都達の後をついて行ったのだった。その様子を、仁都が見ていたとは露知らず……。




