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◇◆ 七 ◆◇

「最近、なんか調子が悪いな…」

明子が気怠そうな表情を浮かべ、訴えかけてきた。

「大丈夫?いつから?」

「ここ一週間くらいなんだけど」

「風邪?」

「いや、違う気がする…」

「今日、医者に行ってこいよ」

「うん」

「もしあれだったら、仕事休んで連れて行こうか?」

「いや…いいよ。一人で全部出来るから。それに、仕事休めないでしょ?」

「……ごめんな」

「いいえ」

明子はそう言うと、ベッドで横になった。

そんな様子を見つつ、私は寝間着のまま寝室からリビングへと移動した。そしてヤカンに水を入れ、火にかけた。少し大きめのマグカップに、溶かすタイプのカフェオレ粉末を入れ、お湯ができたらそこに注ぎ、スプーンで数回かき混ぜる。そして、ソファーまで持って行き、テレビをつける。テレビでは、朝のニュース番組が流れていた。

あのリアルな夢から目覚めてあまり時間が経っておらず、本物の現実に対応するのに若干の苦労を要した。あの夢では、会話の流れ通り明子とセックスをした。夢の中での出来事とはいえ、私の中で明子との距離感が以前よりも近づいたように感じた。だからこそ、目覚めてからすぐの体調不良の訴えは、私を非常に心配にさせた。なかなか仕事を休めないのが本当に申し訳ないと思う。

手元にあるマグカップに目をやる。湯気を立て、時計回りに対流をしていた。

このカフェオレを飲んだら、私の知らない「毎日」が再び始まる。

テレビでは、相変わらず知らない情報がたくさん流れていた。

私は、またこの世界へと飛び込んでいくのだ。そう思うと、いくらか不安を感じた。私はスプーンで出来た対流が見えなくなるまで、ずっとマグカップの中を眺めていた。

どうも決心がつかない。しかし、生きていくためには気持ちを切り替えなくてはならない。時間は決して待ってはくれないのだ。

しばらくして私はカフェオレを飲み終えると、寝室へと向かった。

「仕事行ってくるよ。本当に大丈夫なの?」

「うん、大丈夫だから心配しなくていいわよ」

「何かあったらすぐに連絡しろよ」

「分かってる」

明子は笑顔で私を送り出してくれた。

体調不良だというのに、そのタフさには感心させられる。今日は出来るだけ早く仕事を終わらせて、残業無しで帰れるようにしよう。私はそう決意し、家を出た。


職場では、先日のように様子が変わったままだった。デスクの位置は以前とは異なり、私の目の前には見た目が同じで中身が全く違う平塚さんが座っていた。私はこの現実を受け止める以外に道は無いと悟り、無理にでも周囲に合わせる努力をした。そして前よりも少し冷静に周りを見ることができたのか、私は一緒に仕事をしているメンバー全員の、私に対する態度が変わっていることに気が付いた。こちらの地位が向上したという意味で、私に対して気を遣っているのだ。私としては、どちらかというといつも迷惑をかけているのは自分なわけで、気を遣うのはこちらの方だと記憶している。そういう意味で多少の戸惑いは残ったが、結果から言えば、比較的過ごしやすくなった。時折仕事のやり方を若手から聞かれるのに困ってしまったが、それでもトータルで見てお釣りが戻ってくるような感覚だった。

こういう環境を作ってくれた人達に、感謝しなければならない。これは、私自身の力で成り立っているものではないのだから。落ち着いたら、特に仕事のフォローをしてくださった池田さんに連絡をして、感謝の気持ちを伝えねばなるまい。池田さん、元気にしているだろうか。


「ただいま」

「おかえりなさい」

「体調はどう?」

「大丈夫」

「そっか、それは良かった」

明子は体調不良で仕事を休んでいた割に、元気そうな表情を浮かべている。朝とは大違いで、私の心配はすぐに取り払われた。

「あなた」

「ん?」

「実は嬉しい報告があるの」

「え、何?」

「ついに出来たのよ」

「…え?出来たって何が?」

「子供よ、子供!」

「えっ…!?」

一瞬、頭の中が真っ白になった。

何故ならば、ここ数年一度もセックスをした記憶が無いからだ。正確には昨日の夢で明子とセックスをしたが、それはあくまでも夢の中の話だ。この現実世界の中では、本当に何もしていない。

「え、じゃなくて、一緒に喜んでよ!」

明子はしきりに嬉しそうにしている。

「…ちょっと待って。それ、本当に俺の子か?」

「…え、何を言っているの?当たり前じゃない!」

「あのさ、悪いがDNA鑑定で調べさせてもらう」

「はぁ!?意味わかんないんだけど。私を疑ってるの?」

「そりゃ疑いもするさ。だってさ、最後にセックスしたのいつだよ!?何年も前の話だろ!?」

「え、頭でも打った?私達、毎週のようにしてるじゃない」

「………は?」

「ほら、私達が三十歳を越えたあたりでさ、一度話し合ったじゃん。覚えてないの?」

…確かにこの前の夢ではそういう話に持って行ったが、現実には私が避け続けて自然消滅した話題だ。一瞬、今いるこの瞬間も夢の中なのではないかと思ったが、それはない。この空間は紛れもなく現実世界なのだ。

「とにかく、DNA鑑定はしてもらう。話はそれからだ」

「それ、本当に言ってるの…?」

明子は悲しそうな表情を浮かべる。

「ああ」

「…もし私達の子供だったら、私を疑った責任をどう取ってくれるの?」

「それはそのとき考えるさ」

「一緒に喜んでもらえると思ったのに…最低」

私は明子との会話を切り上げ、自室へと向かった。そして、スーツから部屋着へと着替えた。今日はいつもより暑く、汗くさくなってしまっていた。

それから、準備が出来次第すぐに鑑定の手続きに入った。

結果が出るまでの間、私と明子の間では冷めた空気が流れており、これまで以上の仮面夫婦状態であった。不安というよりも、不信感の方が正しい表現なのかもしれない。私の記憶から考えると、この件に関しては間違いなく明子は黒なのだ。確かに仕事ばかりに時間を取られていたので、私にも非はあると思う。だが、それを理由に不倫をするのは筋違いというものだ。明子も何か不満を言いたそうにしていたが、表情には出しても言葉にはしなかった。結果を見れば一目瞭然だとも言いたげであった。しかし、それはこちらの台詞だ。

それから四日後、結果の通知が我が家へと届いた。

明子を呼び、リビングでおそるおそる封を切る。どう考えても他人の子供なわけで、結果なんて見なくても分かっていた。だというのに、私の手は震え、このとき初めて緊張していることに気が付いた。

「…あれ?」

恐る恐る内容を確認すると、意外な結果が返ってきた。

99.9%以上の確率で私と明子の間の子供だということらしい。結果からいえば喜ばしいことなのだが、私はどうも腑に落ちないでいた。この結果を信じるのであれば、私の記憶が喪失したか、ねじ曲がったということになる。普通に考えて、記憶が曖昧になるような類の内容ではない。

最近、こういった記憶違いのようなものに似た経験があった。職場でのことだ。それまでの記憶と実際に目の前に見た風景は、あまりにも食い違っていた。この現象と同じようなことが我が家でも起きるなんて、想像もしていなかった。

「だから言ったでしょ、あなたの子供だって」

明子は怒り気味に言う。

「ごめん…」

「疑った罰として、一週間家の掃除をしてもらいます」

「…え、そんなことで許されるの?」

「いいよ。きっと疲れてるのよ、あなた。仕事大変そうだし」

明子は呆れた表情を浮かべた。

「申し訳ない…あっ」

「ん?何?」

「ちょっと教えて欲しいんだけどさ、いい?」

「いいけど、何?」

「ここ最近、記憶喪失になったことある?」

「あなたがってこと?」

「うん」

「いや、それは無いと思うけど」

「そうだよな…」

「何かあったの?」

「ちょっとね。どうも記憶が混乱してるというか、自分が記憶してることと現実が全然違うんだよ」

「え、ちょっと何言ってるかよくわからないんだけど」

「いや、だから、夜寝て朝起きると、昨日までと世界が変わってるんだよ」

「…あなた、頭大丈夫?…もしかして今回のこともそういう訳分からない感じになってのことなの?」

「分かんないけど、たぶんそうだと思う」

「ちょっと待って、近くに脳外科あるか調べてみる」

明子はそう言うと、ノートパソコンを持ってきて調べ始めた。

すると突然、携帯電話が鳴った。ディスプレイには義理の姉の名前が表示されていた。

私は一息入れると、それに出た。

「もしもし。ご無沙汰しています」

「もしもし、お久しぶりです。妹がいつもお世話になっています」

「いえいえ、とんでもないです」

「今、大丈夫ですか?」

「はい。どうかされました?」

「実は、突然のことなので落ち着いて聞いて欲しいのですが、うちの父が昨日亡くなりまして」

「えっ!?」

私の驚いた表情に明子は視線をパソコンのディスプレイから私の方に移し、「どうしたの?」と言わんばかりの表情を作った。

「それで、急で悪いんだけど、明日葬儀を行うことになったので、来てもらえますか?」

「あ、はい。わかりました」

それから二、三諸連絡をもらい、電話を切った。

「どうしたの?驚いた顔してたけど」

「あのさ、冷静になって話聞いてくれるか?」

「うん」

「お前のお父さん、亡くなったらしい」

「…え?」


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