◇◆ 二 ◆◇
「今田君、君は私の指示をちゃんと聞いていたのかね?」
「はい、そのつもりでしたが」
「『つもり』じゃ駄目なんだよ。指示通りの仕事が出来ていないじゃないか」
「申し訳ありません」
「ちゃんと仕事をしてくれるか。仕事を」
「はい、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げて、上司の元を去る。上司は私が目をそらす最後の一瞬まで、私を睨むのを止めなかった。
こういったやりとりは、何度あっても慣れることは無い。私自身に問題があってのことなので、一概に上司のことを批判することはできない。しかし、いつも高圧的な態度を取られては、こちらも気が滅入ってしまう。
私はそんなことを頭の中に巡らせながら、自分のデスクへと戻り、仕事を再開した。
この会社には三十歳の時に中途で入社した。それまではIT企業にシステムエンジニアとして勤めていたが、会社が潰れてしまった。財務体力のないベンチャーだったので、この不景気の波に飲み込まれてしまったのだ。
今は生命保険を主な商品としている、外資系の保険会社に勤めている。職種は営業だ。前職とは全く畑違いの分野である。
前の会社が潰れたとき、多くの同僚は同業の他社へと拾われていった。しかし、私はその波に乗ることは出来ず、必死に働き口を探し回る羽目になった。
まずは生きていかねばならない。仕事内容の向き不向きはそれからだ。そうして、私は片っ端から採用面接を受け、最終的にはなんとか正社員の座を得ることに成功した。それが今の会社なのである。
就職が決まったときは、不安から解放されて安堵しつつ、これからの新たな人生に対する展望に夢を膨らませていた。しかし、いざ働いてみると、職人気質である私にとっては困難の連続であった。努力しても全く成果に結びつかないあたり、これこそがまさに私に不向きな職種なんだと思った。
事実、新卒で入社してきた類の社員に比べて、異業種から中途採用された私の仕事は間違いなく質・量ともに劣っている。事務的な処理にしても、外回りにしても、他の社員にフォローに入られることばかりだ。別にそれが理由ですぐに解雇されるということではないが、同僚と気まずくはなる。何となく、自然と窓際へと追い込まれているように感じてしまう。
私より下の世代の社員は、あまり私と関わりを持とうとしないのがその象徴なのかもしれない。いずれ切られるかもしれない尻尾に興味を持っても、そこに生産的な何かは生まれないのだから。
先日も、私の向かいのデスクの平塚さんと一緒に仕事をすることになったのだが、結果的に彼女に迷惑をかけてしまった。今もそれが原因で気まずく、話すきっかけすらない。廊下ですれ違っても、挨拶などは基本的に無く、良くて会釈があるくらいなものだ。
「今田君、ちょっといい?」
「あ、はい」
デスクで指摘された部分の修正をしていると、先輩社員である池田さんに声をかけられた。
「タバコ吸うでしょ?」
「はい」
「ちょっと一服しに行こう」
「え、あ、はい」
これは池田さんに喫煙室まで呼び出された、ということなのだろうか。
これまで池田さんから何かストレスを感じるようなことをされたことは一度もない。むしろ池田さんには良くしてもらってばかりで、本当に信用に足る人間だと思う。しかし、さっきのことで気持ちが落ちていた私は、また何かあるのではないかと疑う気持ちを捨てきれず、恐る恐る池田さんに付いていった。
池田さんは途中で缶コーヒーを二つ購入し、喫煙室で一つを渡してくれた。
「あ、すいません」
手元のコーヒーは、じんわりと私の手を温めてくれた。
「さっきさ、めっちゃ怒られてたでしょ?」
「はい…」
「あれさ、フォローできなくてごめんな」
「…え?いえいえ!そんな滅相もない」
「俺だって今田君の先輩だし、給料も多くもらってるでしょ。君達後輩が働きやすくする環境づくりをするのも、給料に含まれているからさ。ホント、申し訳ない」
池田さんはそう言うと、頭を下げてきた。
「池田さん、止めてくださいよ!あれは私のミスですから。むしろ、気にかけて頂いてすみません」
「いやいや。それでさ、今後のために一つアドバイスしてもいいかい?」
「はい、お願いします」
一瞬、私は無意識に心の中で身構えた。しかし、それはすぐに杞憂に終わった。
「今田君は、まだ仕事の確認が甘いんじゃないかと思うんだよね」
「確認…ですか」
「うん。俺がもっと気にしてあげれば良かったんだけど。ほら、俺達ってさ、今まで通りの仕事もあれば、新たに与えられる仕事も結構あるでしょ?」
「はい」
「特に後者については、不慣れな分、始めは自分の仕事が正しく出来ているか誰かにチェックしてもらった方が安全なんだよね。それで慣れていった方がストレス感じなくて済むと思うし」
「確かにそうですね」
「偉い人は結果しか見ないから、ミスが出ないように工夫しないといけないよ。それがまだ今田君には足りないんじゃないかなって思うんだ」
「…正直、何も言い返せないです」
「いや、いいんだよ。まだこれからなんだし。とにかく、俺も出来る限り支援するから、一度上司に報告する前に俺に報告してくれる?上手く出来てるか見てあげるから」
「すみません」
私は先輩の申し出に、深々と頭を下げた。
「今回の案件、しっかり乗り切ろう!」
「はい!ありがとうございます!」
池田さんも中途採用で入社した口だ。だからか、本当にありがたいことに、私の気持ちをよく分かってくださる。
池田さんは本当に仕事のできる先輩だ。池田さんも私と同じ営業職だが、彼のネットワークは凄まじい。
基本的に生命保険の営業職は、顧客から新たな顧客を紹介してもらうという形で開拓をしていく。世の中には、生命保険という言葉だけで引いてしまう人も少なくない。だからこそ、知り合いからの紹介という既存の信頼関係を経由して、つながりを広げていくのだ。そうやって構築した彼の顧客ネットワークは、日本全国に及ぶ。そのため、一件の打ち合わせのためだけに飛行機や新幹線で地方まで行くこともある。それを可能にしている会社の財務体力には舌を巻くが、それ故に営業職の仕事は苛烈を極める。
勘違いしてはいけないが、一度顧客と契約をしたらその顧客との関係はそれで終わりだということではない。営業職は、顧客と定期的に連絡を取り、生活に変化が無いかや、新たに開拓できる顧客が無いかを確認して回る。そのため、自分が獲得した顧客が多ければ多いほどそれらに時間を多く取られ、プライベートの時間が削られてしまうのだ。
私は過去に一度だけ池田さんのスケジュール帳を見せてもらったことがあるが、その時点で一か月に休日が二日しか無かったのを覚えている。スケジュール帳を見ながら、池田さんが言った「半日だけでも休めれば十分だよ」という台詞は未だに忘れられない。
私は池田さんとしばらく談笑した後、自分のデスクへと戻った。その頃には、全身にあった倦怠感が取れていた。
メールボックスをチェックすると、この数分の間にも、何件もメールが入っていた。この職場では、常に仕事が舞い込んでくる。私は気持ちを切り換え、目の前の仕事へと意識を集中させた。
結局、この日は残務処理に追われて終わったのだった。




