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◇◆ 十六 ◆◇

このマンションには未だに慣れない。その一室から、朝、駅へと向かう。

有給が残り三日となった時点で、私は職場へと復帰する決意を固めた。この数日間は、この心に負った大きな傷の修復に全て費やされた。今でもまだ引きずっているところは大きいが、少し冷静に考えて、私も生きていかなければならない。やはり、まずは職場に戻るしかないという結論しか導き出せなかった。

駅の風景はいつも通りで、見慣れた光景だった。

それから、特に障害もなく職場の入ったビルへとたどり着いた。いつもなら何も気にせず自動ドアから入り、職員証をリーダーにかざし、オフィスへと入っていく。私の体はそれを当然のように覚えていて、自然と右手には職員証が用意してある。しかし、少しの戸惑いと恐怖心が足枷となり、私は歩くのをためらってしまった。この先に何が待っているのか皆目見当がつかない。それが怖くてたまらない。ただ、朝の時間ということもあり、そんな私をどんどん他の部署の職員が追い越していく。私はその流れに乗る形で、もはやヤケクソ気味に歩き出し、職場のデスクへと向かった。

「今田さん、おはようございます」

「おはようございます」

着いてすぐ、平塚さんと会った。

「最近ずっとお休みされてましたけど、どうしたんですか?」

「あ、いや…ちょっと病気してまして」

「え、大丈夫ですか?」

「はい、完治しました」

「そうですか、良かったですね!みんな心配してたんですよ」

「いやー、申し訳ない限りです」

この平塚さんは、私がタイムリープして業績を延ばした後の平塚さんだ。話してすぐに分かった。以前ならこんな好意的な雰囲気で挨拶はしてこなかった。ということは、私の職場での位置は、そういう位置にあるのだろうか。

私はすぐにオフィスのホワイトボードを確認しに行った。

すると、以前見たのと全く同じ光景が繰り広げられていた。

不幸中の幸いと言えばいいのだろうか。

あれからそれとなく確認をしたのだが、職場環境はほとんど私が最後にいた環境と変化していなかった。成績もまずまず、周囲の人との関係もおおむね良好だった。

私は、まずこの状況に感謝をした。

気付いたら同じ風景で全く違う世界にいたのだ。その孤独から、この職場は私を救ってくれたと言っていい。

本当の意味で私が知っている空間を見つけることができた。この状況が失われてしまったら、それこそ私は生きていけなくなる。知らない世界から知っている世界への帰還は、長旅から自宅へと戻ったときの安心感にも似た感覚を私に与えた。しがみついてでも、私はここから離れたくない。そう思うと、この職場への恐怖心は自然と取り払われ、むしろ、ここにずっといたいと思うほどであった。

それから、私は普段では考えられないほど早く出社し、誰よりも遅く退社することにした。こなす仕事量は増え、疲労は日に日に蓄積していったが、今の私にとって、そういった毎日が価値のある毎日となっていた。

少し辛いことがあっても、私の居場所はここなのだ。

毎日必死に働いて、プライベートも犠牲にする。そうすることで、私は職場に依存できたし、毎日余裕がない方が余計なことを考えなくて済む。

気付けば、私はそんな生活を数ヶ月間続けていた。その間の、私の自己を犠牲にした仕事ぶりはこれまで以上に上から評価された。そして、私は翌月から施行される新たなプロジェクトのリーダーへと抜擢されたのだった。

端から見れば、私はいわゆる独身貴族なのだと思う。残業代が毎月たくさん出るので、他の社員よりも多くの収入を得ていて、そしてその使い道が全くない。日々の再生産に必要な食費や光熱費以外に、全く使い道がないのだ。しかし、今の私にとってお金はあまり大きな価値を示さなかった。今でも、大切な存在を喪失した虚無感から、この職場での生活以外に手を出すことができないでいるのだ。私にとって大切なのは、この職場でいかに充実した時間を過ごすかに尽きた。

新たなプロジェクトでは、生命保険に関する顧客情報の管理厳重化がテーマとして挙げられていた。昨今、有名企業ですら顧客情報の流出で取り上げられることがあるのだ。つい最近にも、ある会社でシステム関係を担っていた派遣社員が情報を持ち出して流出させるという事件があったばかりだ。今のところうちの会社でそういうことは起こっていないが、こういう業界では信頼関係がとても大切になってくる。そういう意味で、今回こういうプロジェクトが立ち上げられたのだ。

顧客情報流出に関しては、ネットワーク上からの不正アクセスと、従業員のデータ持ち出しによる流出がある。前者は以前から管理を強化してきていたが、後者に関しては従業員の良心に依存している部分が大きかった。そのため、先の事件も踏まえ、この部分をどうするかが議論された。

結論から言うと、全従業員のパソコンを監視することになった。やり方としては、従業員の動作が全てログとして残るアプリケーションを導入するのだ。パソコンからデータが抜き取られなければ、それでリスクは無くなるはずだ。

どこの会社のアプリケーションを採用するか話題になったときに、たまたま私の前職がそういう開発をする職場だったので、そちらではどうかと提案をしてみた。すると、すぐに受け入れられ、私自身がそちらに連絡を取り、お願いすることになった。

電話で依頼するとき、一瞬、もしかしたらこの時間軸では私はこの会社に以前いなかったかもしれないと思い、非常に低姿勢に話した。しかし、相手が「今田さん、お元気ですか?」と言ってきてくれたのを聞いて、私の心配は杞憂に終わったのだと気付いた。

それから打ち合わせの時間を調整し、後日担当者同士の会議をうちの会社で行うことになった。電話に出てくれた元同僚は、最近は似たような依頼をしてくる会社が増えて忙しいらしく、会議当日には別の人間が来ると言っていた。

こうして新たな仕事も増え、生活がどんどん充実していくのが分かった。ここ最近は何もかもを忘れて仕事に打ち込んでいる。仕事が楽しくて仕方がなかった。仕事をするために生きていると言っても、過言ではなかった。この価値を考えると、もう失うようなことはしたくない。この数ヶ月間、私は何度もタイムリープをしようか悩み、やろうとしては止めてを繰り返していた。しかし、この生活をしていく中で、私はついに決断した。

もう二度と、タイムリープはしない。


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