朔、或いは望
オートバイの音を待ってしまわないために、駅の逆側にある月契約のアパートを3ヶ月だけ借りた。
大した無駄遣いだとは思ったけれど、それよりも涼太の前に飛び出しそうな自分が怖かった。
3ヶ月は、20歳の若者が終わってしまった関係を自覚するには、充分な期間だと思う。
学生時代の友人の一人に、理由を簡単に説明して保証人になってもらった。
「結婚できない事情って、不倫?柊子ったら、ただおとなしいだけじゃないわね。ストーカーにならないといいけど」
相手と親子ほど歳が離れているとは、言えなかった。
「子供が産まれたら、手伝うわ。大丈夫よ、最近は婚外子なんて珍しくもないから」
朗らかに笑う友人は、やはり離婚した後にひとりで子供を育てている。
無意識に同志を求めたのかも知れない。
私だけではない、手を貸そうとしてくれる人がいると思うだけで、こんなに安心する。
自宅を手放すわけではなく風を通しに帰るのだから、荷物は少なかった。
仕事に使うPCと着替え少々。
両隣には、仕事でしばらく留守すると報告した。
依頼がたてこんで請負元に泊り込むのだと言うと、在宅の仕事など想像もつかない年配の主婦たちは、心底気の毒そうな顔をした。
「柊子ちゃんは、自分の力で食べなくちゃならないんだものね。お相手、探さなくちゃ」
「自力では探すのが難しいので、お願いします」
来年の今頃は、彼女たちはこんなことは言えなくなる。
詮索をシャットアウトできるだろうか。
月契約のアパートには、必要な家電が揃っている。
カーテンだけをつけて部屋を見回すと、すぐに睡魔に襲われた。
オートバイの音を待って、浅い睡眠しかとっていなかったのだ。
ぽっかりと開いた穴に、新しい生活への展望を落とし込む。
できるうちに仕事を増やしてもらえるように、請負元に連絡しなくては。
住宅街の静けさと違う生活音と、アパートの前を時折通る車やオートバイの音は、私には関係のないもの。
なんでだよ。
時折、苦しげな声が耳の中に蘇る。
差し伸べられた手よりも、必要なものが目の前にあった、それだけのことだ。
違和感のある場所で眠ることに慣れてきたと同時に、ひどい悪阻が襲ってきた。
詰込み気味にした仕事と、気を抜くとこみあげてくる吐き気に追われて、ひどく消耗したけれど余計なことを考える時間がなくなった。
自分の家に風を通しに帰る時、居間のソファの上に座る涼太を見たり、道で大型のオートバイとすれ違うとヘルメットの色を確認したりすることは、ある。
そんな時は手にとらなかったものを惜しむ気持が、ねじ切れるような痛みと共に表面に浮かんでくる。
それでも、涼太に「子供ができた」と言いたくはなかった。
涼太からのメールの数は減っていた。
―勝手な人だね。
責めるような言葉が混ざる。
―もう一度だけ、顔を見せて。
懇願が混ざる。
読まないで消去することはなかった。返信はしないけれども。
清々と笑う涼太の顔をもう見ることはできない。そう思うと、また胸がチクリと痛んだ。
桜の花芽が静かにふくよかさを増す。
辛夷、木蓮、ハナモモ、桜と春の訪れを告げながら庭に舞う花びらたち。
夜の花吹雪をガーデンライトが照らし、その中に立つと祖父や両親に守られている気がしていた。
孤独だったのだ。自覚するよりも深く孤独だったのだ。
しゅーこさんは寂しい顔をしてる。
涼太の言ったことに間違いはなかった。
膨らんでもいない腹に手をあてる。
私をこれから生かそうとしているものが、ここにある。
何よりも強い力が、ここにある。
これ以上に私に必要なものはなく、これ以上に私を必要とするものはない。
桜が散る頃まで頻繁に続いた涼太からのメールは、少しずつ文面が落ち着いて行った。
―国家資格を取るための準備をしてる。
―もう、誰かと暮らしてるの?
―今年の桜は去年よりも遅めだったね。
返信は、やはりしなかった。
四月の終わりに、長いメールが来た。
―返信が来ないのはわかってて、メールなんかする俺はバカだ。
顔を見て名前を呼びたいって思っても、しゅーこさんは俺に会う気はないんだから。
こんなメールしたって、本当は困るよね。子供だから駄々こねてるんだって思うよね。
だから、もういい。幸せになってなんて、言えないけど。
しゅーこさん。好きだ、好きだ、好きだ!それだけ。じゃあね。
深夜だった。酔っていたのかも知れない。
そして、そのあとメールはぷつりと来なくなった。
終わったのだ。
もう、おしまい。
呪文のように呟いて、狭いアパートのガランとした部屋を眺めた。
ひょろりとした影が、フェンスの向こうに消えてゆく瞬間を見る。
私の庭は、もう葉が幾重にも重なって、月など見えないだろう。
部屋の隅の壁にもたれ、抱えた膝の中に顔を埋める。
これで、満足?
自分に問いかける。
満足のいく答えなんて、常にないのだ。
答えはこれからの私の中にある。
五月も終わりかけた頃、アパートの契約も残すところ二週間を切った矢先のこと。
腹の下に泡が浮いたような違和感があった。
超音波でしか確認しえなかったものが、存在を主張し始めたのだ。
気をつけなければ見逃してしまう感触に、注意を払う。
思い出したようにポコリと泡が浮かび上がる。
帰ろう。私の庭に帰ろう。
枝を少し払い、その下に立って月を見よう。
次に庭から見るのは、ひびの入らない美しい形の月だ。
インターネットで植栽の業者を探して、電話で依頼する。
しゅーこさんが呼ぶんだ。
私の内側から、女が呼んだのかも知れない。
ごめんね。
月が満ちて、満月になる。
月が満ちて、私は子を産むだろう。
腹に手を当てる。私を入れている容器を、こんなに愛おしいと感じたことはなかった。
軽自動車に簡単な荷物を積んで、家に帰った。
隣家の主婦が私の姿を見て、一瞬まじまじと腹に目を留める。笑顔を作って通り過ぎた。
枝払いの済んだ庭から、空が見える。
今夜は月齢十四の月が中空に見える筈だ。
何日か、夜が過ぎた。
梅雨に入る前の月は、高く美しかった。
遠くから響くオートバイの音に耳を澄ます。
この通りには、もうオートバイは通らない。
涼太からの連絡は、もう来ない。
カフェインは、身体が欲しがらなくなった。
体重はあまり変わらなかったが、自分の腰まわりの変化に驚く。
決意を翻す気はなかったし、どちらにしろ引き返せる時期は過ぎた。
昨日、耳打ちのように言われた「妊娠してるの?」の問いに、笑って答えることができた。
そうです。旦那さんがいないから、せめて子供だけでも持とうと思って。
堂々と答えることが、詮索封じになれば良いけれど。
庭の緑が濃さを増す。
窓を大きく開けて、深呼吸をする。
腹の中で何かがポコリと動く。ここにいる。
高齢の上ひとりなので、常に入院の準備をしておかなくてはならない。
タクシー会社の電話番号を記憶させた携帯電話は、手放せなくなった。
枝を何本かはらっただけの空は狭い。
月は中空を通る時、私に姿を見せる。
足が攣るようになってきたので、ガーデンライトの下に小さな椅子を置いた。
フェンスの外側に人が通ったとしても、それは涼太ではない。
もしも次に涼太に会うことがあるとすれば――夢想に過ぎないことを知っているけれども――不意打ちのように訪れる出会いと激情ではなく、改めてお互いを探しあうことから始めたいと思う。
痛みは少しずつ薄れていく。
私はもう、庭に居ても寂しい顔はしていないはずだ。
流れの中に身を委ねたわけでなく、欲しいものに手を伸ばした充実感がある。
私を今、虚無だと表現する人はいないだろう。
身体という容器の中に詰まった私自信が、うねりながら進みはじめるのを感じる。
目をあげると、葉の隙間の東の空に欠けはじめた月があった。
fin.
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
作者としては、これもひとつのハッピーエンドだと思っています。