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crack moon  作者: 蒲公英
13/13

朔、或いは望

オートバイの音を待ってしまわないために、駅の逆側にある月契約のアパートを3ヶ月だけ借りた。

大した無駄遣いだとは思ったけれど、それよりも涼太の前に飛び出しそうな自分が怖かった。

3ヶ月は、20歳の若者が終わってしまった関係を自覚するには、充分な期間だと思う。

学生時代の友人の一人に、理由を簡単に説明して保証人になってもらった。

「結婚できない事情って、不倫?柊子ったら、ただおとなしいだけじゃないわね。ストーカーにならないといいけど」

相手と親子ほど歳が離れているとは、言えなかった。


「子供が産まれたら、手伝うわ。大丈夫よ、最近は婚外子なんて珍しくもないから」

朗らかに笑う友人は、やはり離婚した後にひとりで子供を育てている。

無意識に同志を求めたのかも知れない。

私だけではない、手を貸そうとしてくれる人がいると思うだけで、こんなに安心する。


自宅を手放すわけではなく風を通しに帰るのだから、荷物は少なかった。

仕事に使うPCと着替え少々。

両隣には、仕事でしばらく留守すると報告した。

依頼がたてこんで請負元に泊り込むのだと言うと、在宅の仕事など想像もつかない年配の主婦たちは、心底気の毒そうな顔をした。

「柊子ちゃんは、自分の力で食べなくちゃならないんだものね。お相手、探さなくちゃ」

「自力では探すのが難しいので、お願いします」

来年の今頃は、彼女たちはこんなことは言えなくなる。

詮索をシャットアウトできるだろうか。


月契約のアパートには、必要な家電が揃っている。

カーテンだけをつけて部屋を見回すと、すぐに睡魔に襲われた。

オートバイの音を待って、浅い睡眠しかとっていなかったのだ。

ぽっかりと開いた穴に、新しい生活への展望を落とし込む。

できるうちに仕事を増やしてもらえるように、請負元に連絡しなくては。

住宅街の静けさと違う生活音と、アパートの前を時折通る車やオートバイの音は、私には関係のないもの。


なんでだよ。

時折、苦しげな声が耳の中に蘇る。

差し伸べられた手よりも、必要なものが目の前にあった、それだけのことだ。


違和感のある場所で眠ることに慣れてきたと同時に、ひどい悪阻が襲ってきた。

詰込み気味にした仕事と、気を抜くとこみあげてくる吐き気に追われて、ひどく消耗したけれど余計なことを考える時間がなくなった。

自分の家に風を通しに帰る時、居間のソファの上に座る涼太を見たり、道で大型のオートバイとすれ違うとヘルメットの色を確認したりすることは、ある。

そんな時は手にとらなかったものを惜しむ気持が、ねじ切れるような痛みと共に表面に浮かんでくる。

それでも、涼太に「子供ができた」と言いたくはなかった。


涼太からのメールの数は減っていた。

―勝手な人だね。

責めるような言葉が混ざる。

―もう一度だけ、顔を見せて。

懇願が混ざる。

読まないで消去することはなかった。返信はしないけれども。

清々と笑う涼太の顔をもう見ることはできない。そう思うと、また胸がチクリと痛んだ。


桜の花芽が静かにふくよかさを増す。

辛夷、木蓮、ハナモモ、桜と春の訪れを告げながら庭に舞う花びらたち。

夜の花吹雪をガーデンライトが照らし、その中に立つと祖父や両親に守られている気がしていた。

孤独だったのだ。自覚するよりも深く孤独だったのだ。

しゅーこさんは寂しい顔をしてる。

涼太の言ったことに間違いはなかった。


膨らんでもいない腹に手をあてる。

私をこれから生かそうとしているものが、ここにある。

何よりも強い力が、ここにある。

これ以上に私に必要なものはなく、これ以上に私を必要とするものはない。


桜が散る頃まで頻繁に続いた涼太からのメールは、少しずつ文面が落ち着いて行った。

―国家資格を取るための準備をしてる。

―もう、誰かと暮らしてるの?

―今年の桜は去年よりも遅めだったね。

返信は、やはりしなかった。

四月の終わりに、長いメールが来た。


―返信が来ないのはわかってて、メールなんかする俺はバカだ。

顔を見て名前を呼びたいって思っても、しゅーこさんは俺に会う気はないんだから。

こんなメールしたって、本当は困るよね。子供だから駄々こねてるんだって思うよね。

だから、もういい。幸せになってなんて、言えないけど。

しゅーこさん。好きだ、好きだ、好きだ!それだけ。じゃあね。


深夜だった。酔っていたのかも知れない。

そして、そのあとメールはぷつりと来なくなった。

終わったのだ。

もう、おしまい。

呪文のように呟いて、狭いアパートのガランとした部屋を眺めた。

ひょろりとした影が、フェンスの向こうに消えてゆく瞬間を見る。

私の庭は、もう葉が幾重にも重なって、月など見えないだろう。


部屋の隅の壁にもたれ、抱えた膝の中に顔を埋める。

これで、満足?

自分に問いかける。

満足のいく答えなんて、常にないのだ。

答えはこれからの私の中にある。



五月も終わりかけた頃、アパートの契約も残すところ二週間を切った矢先のこと。

腹の下に泡が浮いたような違和感があった。

超音波でしか確認しえなかったものが、存在を主張し始めたのだ。

気をつけなければ見逃してしまう感触に、注意を払う。

思い出したようにポコリと泡が浮かび上がる。


帰ろう。私の庭に帰ろう。

枝を少し払い、その下に立って月を見よう。

次に庭から見るのは、ひびの入らない美しい形の月だ。

インターネットで植栽の業者を探して、電話で依頼する。


しゅーこさんが呼ぶんだ。

私の内側から、女が呼んだのかも知れない。

ごめんね。

月が満ちて、満月になる。

月が満ちて、私は子を産むだろう。

腹に手を当てる。私を入れている容器を、こんなに愛おしいと感じたことはなかった。


軽自動車に簡単な荷物を積んで、家に帰った。

隣家の主婦が私の姿を見て、一瞬まじまじと腹に目を留める。笑顔を作って通り過ぎた。

枝払いの済んだ庭から、空が見える。

今夜は月齢十四の月が中空に見える筈だ。



何日か、夜が過ぎた。

梅雨に入る前の月は、高く美しかった。

遠くから響くオートバイの音に耳を澄ます。

この通りには、もうオートバイは通らない。

涼太からの連絡は、もう来ない。


カフェインは、身体が欲しがらなくなった。

体重はあまり変わらなかったが、自分の腰まわりの変化に驚く。

決意を翻す気はなかったし、どちらにしろ引き返せる時期は過ぎた。

昨日、耳打ちのように言われた「妊娠してるの?」の問いに、笑って答えることができた。

そうです。旦那さんがいないから、せめて子供だけでも持とうと思って。

堂々と答えることが、詮索封じになれば良いけれど。


庭の緑が濃さを増す。

窓を大きく開けて、深呼吸をする。

腹の中で何かがポコリと動く。ここにいる。

高齢の上ひとりなので、常に入院の準備をしておかなくてはならない。

タクシー会社の電話番号を記憶させた携帯電話は、手放せなくなった。


枝を何本かはらっただけの空は狭い。

月は中空を通る時、私に姿を見せる。

足が攣るようになってきたので、ガーデンライトの下に小さな椅子を置いた。

フェンスの外側に人が通ったとしても、それは涼太ではない。

もしも次に涼太に会うことがあるとすれば――夢想に過ぎないことを知っているけれども――不意打ちのように訪れる出会いと激情ではなく、改めてお互いを探しあうことから始めたいと思う。


痛みは少しずつ薄れていく。

私はもう、庭に居ても寂しい顔はしていないはずだ。

流れの中に身を委ねたわけでなく、欲しいものに手を伸ばした充実感がある。

私を今、虚無だと表現する人はいないだろう。

身体という容器の中に詰まった私自信が、うねりながら進みはじめるのを感じる。


目をあげると、葉の隙間の東の空に欠けはじめた月があった。


fin.

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

作者としては、これもひとつのハッピーエンドだと思っています。

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