『風を読み、飢えを力に変え、八百年を生き抜け――。名誉よりも「生存」を射抜いた、那須一族の執念と職人の弓。』
第八章:一矢、風を裂く(決戦の余韻と訣別)
一、弁慶の握り飯、戦友の熱量
屋島の夜、入り江には勝利を祝う篝火が点々と連なり、波間にその赤い光が揺れている。
その喧騒から離れた暗がりに座る与一の背中に、巨大な影が落ちた。
「食え、与一。お主の弓が、源氏の道を切り開いたのだ」
武蔵坊弁慶が、その太い指で不格好に丸めた握り飯を差し出していた。
「……弁慶さん、大きすぎっぺ」
与一が苦笑して受け取ると、飯はまだ驚くほど熱かった。かつて陣中で、自分の分を「若手は食え」と与一の椀に放り込んでくれた、あの日の熱と同じだ。
義経公という峻烈な光に魅せられ、この巨漢とともに地獄まで駆けていけたら、どれほど楽だろうか。
「同じ釜の飯」の恩義が、与一の胸を温かく、そして残酷に締め付けた。
二、安達盛長の「鑑定」
「……その情、那須を滅ぼす種となるぞ」
冷や水を浴びせかけるような声が、背後から響いた。安達盛長である。
彼は与一の隣に音もなく立つと、海を見つめたまま語りかけた。
「義経殿は、あの一射を『神業』と呼び、貴様を英雄に仕立てるだろう。だが、鎌倉の殿(頼朝)が見ているのは、貴様の忠義ではない。那須の弓が、組織の歯車としてどれほど正確に回るか、それだけだ」
盛長の手には、与一が射抜いた扇の「要」の破片が握られていた。
「英雄は、戦が終われば邪魔になる。……与一よ、貴様は『那須の職人』として生きるか、それとも義経殿とともに『散る華』となるか。選ぶのは今だ」
盛長の瞳は、那須の冬風と同じ、一切の情を排した「理」の光を湛えていた。
三、那須おろし、心の選別
与一は、弁慶の握り飯を噛みしめた。米の甘みが喉を通る。
だが、その瞬間に彼が聴いたのは、屋島の潮騒ではなく、故郷を吹き抜ける「那須おろし」の冷たさであった。
父・資隆が、兄たちが、そして飢えた一族が待つ、あの空っぽの食卓。
(弁慶さん、すまねぇ……。俺は、あんたの情に溺れるわけにはいかねぇんだ)
与一の中で、戦友への恩義という「情」が、一族を生存させるという「業」へと、鋭く切り離されていく。
あの一射で平家の命運を裂いたように、今、与一は自らの心をも、二つに裂かなければならなかった。
四、訣別の予感
「弁慶さん、ごちそうさまでした。……この飯の味、一生、忘れねぇど」
与一は立ち上がり、静かに頭を下げた。
「何を水臭いことを! 明日は壇ノ浦だ、また共に暴れようぞ!」
背後で響く弁慶の屈託のない笑い声が、今の与一には遠い雷鳴のように聞こえた。
与一は、暗い波打ち際へ歩み出す。
手元にある煤竹の弓は、月光を吸い込んで、もはや「道具」としての無機質な輝きしか放っていない。
雅な扇が散り、平家の終焉が決定した。
それと同時に、与一が「武士の情」を捨て、冷徹な「一族の長」へと飛躍する時が、静かに、しかし確実に訪れていた。
フフフ。あと二章で完結です。明日と明後日でエンディングでござる。




