第八十九話 クジョウ・ナオトの戦い
台東区上野。上野恩賜公園の地下、博物館動物園駅跡。十年以上前に廃駅となったホームで、ローラさんとクジョウが向かい合う。
ローラさんの横にはヨシダさん。クジョウの後ろにはマダム・クリマ―と『ホワイト』の怪人たち。
ゆっくりとオランウータン男へと変わっていくクジョウは、その手で首輪を掴む。
ローラさん専用強化スーツ『ゴリラ・マキシマム』。ゴトウダの工房で再調整中だったそれを、クジョウは奪い取った。その変身アイテムである首輪を掴み、そして引き千切るように思いっきり引っ張った。
首輪は引き延ばされ、そのままドロリと液状化していく。最初は首輪を掴んだ右手、そして首筋に黒い液体が這う。液体は、まるで生き物のように全身へと広がっていった。
ローラさんはその光景を見ながら、ため息をつく。ローラさん自身がそれを一度試している。そしてその強化スーツを『失敗作』と断じた。
『ゴリラ・マキシマム』は、改造人間であるローラさんの力を、更に強化する。ただし、その代償として激しい苦痛に耐えなければならない。
「お前……、そんなの身につけたって、動けなくなるだけだぞ」
ローラさんはつぶやいた。
見る間に、クジョウの身体は黒い液体に包まれた。そして液体は凝固していき、人工筋肉を形作る。オランウータン男と化したクジョウの肉体を、更に強化する黒いスーツがその姿を見せる。
その強化スーツの胸の部分には、ゴトウダがデザインしたゴリラのマーク。黒いスーツに白くペイントされたゴリラのマークは、更に上から赤い塗料でバツ印を付けられていた。
そのゴリラを塗りつぶすような赤いバツ印に、ローラさんは眉をひそめた。ローラさんは、クジョウが『ゴリラ・マキシマム』を装着するのは、今が始めてだと思い込んでいた。
だが、ゴリラマークを塗りつぶすという加工がされている以上、最低でも一度は事前に試しているという事になる。
それでいて、この場で『ゴリラ・マキシマム』を装着する意味を、ローラさんは瞬時に悟った。
「ヨシダさん。ちょっと下がってて。もしかしたら、結構ヤバいかも……」
ローラさんですら耐えられなかった激痛に、クジョウは耐えられる。クジョウは『ゴリラ・マキシマム』を使いこなす事ができる。
ローラさんは『スタン・ハリセン』を持ち直し、身構える。だが、次の瞬間、ローラさんの視界は闇に覆われた。
クジョウの咆哮はまるで雷鳴のようだった。強化スーツの力によって更なる力を得たオランウータン男は、最初から全力で襲いかかる。
クジョウの脚がコンクリートの床を踏み砕き、雷鳴のような咆哮と共に、クジョウは疾走する。
その姿はまるで闇そのものが襲いかかるようだった。
疾走する闇が、ローラさんの顔面に手のひらを突き出す。手のひらの手首に近い部分を叩きつける掌底打ち。それがローラさんの顔面を襲う。
ローラさんは衝撃に備える事もできず、クジョウの掌底打ちをまともに食らう。
ローラさんが想定していたよりもずっと速い攻撃。気が付いた時には、クジョウの掌底が目の前を覆っていたほど。
廃駅のホームに、重たい打撃音が響く。クジョウの掌底打ちが、ローラさんを一撃で叩きのめす。
その疾走する闇が繰り出した一撃は、ローラさんからいきなりダウンを奪った。顔面から鮮血を撒き散らし、コンクリートの床に後頭部を打ちつけるローラさん。
しかし、掌底打ちを放ったクジョウも、その勢いを制御できず体勢を崩す。その隙にローラさんは身体を起こし、ダメージを振り払うように頭を振る。そして体勢を立て直したクジョウに軽口を叩く。
「そのスーツ。やっぱ後で返せよ」
ローラさんは完全にクジョウを侮っていた。『ゴリラ・マキシマム』の激痛に耐えられないと思い込んでいた。
だが、クジョウは耐えた。苦痛に顔を歪めながら、ローラさんを睨みつける。
「返せ? 悪いな、そりゃ無理だ。俺はコイツのお陰でまともな怪人になれたんだ」
クジョウの言葉にローラさんは眉をひそめる。言葉の意味が掴めなかった。
「俺はな、『失敗作』なんだよ。だが、コイツがあれば……俺は俺のままでいられる」
クジョウはオランウータン男に変身する事によって、常人を遙かに超える力を得るが、その代償として変身している間は理性を失う。ただ暴れ回るだけの知性のない化け物になってしまう。
だが『ゴリラ・マキシマム』は、彼に救いをもたらした。この『失敗作』から身体にねじ込まれる苦痛は、クジョウの理性が飛ぶのを防いでいた。
「悪いな……。だから、コイツは俺がもらう。名前も変えたよ。コイツは『ゴリラ・バスター』だ」
ローラさんは思わず苦笑いを浮かべる。
「人のモン盗んで名前まで変えるとか、お前も結構いい性格してんな」
ローラさんの軽口が終わる間際、再び闇が疾走する。今度はローラさんも衝撃に備える事ができた、それでも闇はローラさんを打ち砕く。
再び顔面への掌底打ち。同じように顔面から鮮血を飛ばし、そして今度は歯の欠片まで吐き出した。堪らず膝をつくローラさんは、呆然とした表情でクジョウを見る。
掌底打ちを放ったクジョウも体勢を崩す。だが確信した。
『俺は……勝てる。奇跡に打ち勝てる』
***
クジョウ・ナオトは改造人間である。その素性や、これまでの経歴は割愛する。ここで問題にするのは、彼の理想と現実について。
クジョウは自分自身を嫌悪していた。怪人としても『失敗作』で、当然人間でもない自分を心から嫌悪していた。
『人間に戻りたい』
少し前までの彼の夢。『失敗作』である自分を嫌悪し、いつか人間に戻る事ができると夢見ていた。
だが、月日が彼を追い詰めた。『失敗作』である彼は、少しずつ精神が蝕まれていた。時折、発作のように正気を失う。その間隔が少しずつ短くなっていく。
改造人間の宿命。人間の身体を無理矢理いじくりまわせば、いずれ破綻する。多くの場合、それは肉体か精神の崩壊という形で現れる。
たとえ人外の力を得たとしても、その力が肉体を崩壊させてしまう。そして人外の姿は、精神を崩壊させていく。
ほとんどの場合、怪人として活動している改造人間は洗脳を受けている。その洗脳が解かれなければ、精神の崩壊はある程度止める事ができる。
そして改造人間の力を使わなければ、肉体の崩壊もある程度は緩和される。だが、それも限度がある。
クジョウは自分の肉体が崩れていく悪夢にうなされた。そして悪夢が精神を蝕む。いつしかクジョウは、自分自身を嫌悪する事をやめた。ただ自分から目をそらすようになった。そして彼の夢は変わった。
『ヒーローも怪人もいない世界』
クジョウは嫌悪した自分自身から目をそらし、そしてその嫌悪は世界へと向いた。この世界が悪い。ヒーローも怪人も、この世界には必要無い。
その思想は、『東ヒー』で働き始めて更に強くなっていく。彼は『東ヒー』で働きながらも、まるで理解できなかった。ヒーローや怪人の存在意義を。
自分と同様に、肉体と精神の崩壊に怯える怪人たち。そして無邪気に正義の味方を気取るゲス野郎ども。
『すべて消してしまえばいい』
明確に、クジョウはヒーローと怪人を、世界に存在してはいけない異物と認識した。少なくとも怪人にとっては、それが救済であるとすら思っていた。
クジョウが動き出すきっかけは、一つのニュースだった。
『無能結社ゴリラ軍団、経営破綻!』
ローラさんがかつて立ち上げた秘密結社、ゴリゴリ団の経営破綻を報じるニュース。そこでクジョウは『ニシローランドゴリラ男』の近況を知った。
改造人間の間で噂される、奇跡の男。改造人間であるにもかかわらず、肉体も精神も劣化しない『完成された改造人間』。
そのニュースから奇跡の男の所在を知り、そして彼を利用する事を考えた。唯一改造人間の宿命から逃れている男。その男を餌に、すべてのヒーローと怪人を巻き込んだ騒乱を起こす。そして最後は、奇跡の男にも死んでもらう。そう企んだ。
オランウータン男はニシローランドゴリラ男を呪っていた。
だが、企みはなにひとつ上手く行かなかった。慎重に事を進めようとしたクジョウの企みは、すべてローラさんが鼻歌交じりに踏みつぶしていった。
なにより、クジョウはローラさんを呪い続ける事ができなかった。入念な準備をして、盗聴器だらけの拠点をあてがった。そして彼らの企みをすべて盗み聞きしてきた。
だが、彼らの拠点から聞こえてきたのは、悪ふざけとバカ騒ぎばかりだった。そのくだらなさにクジョウは怒り狂う。だが、同時に少しだけ、本当に少しだけ、こう思った。
『羨ましいな……』
その思いがすべてを瓦解させていく。クジョウは気付いてしまった。ローラさんに対する怒りが、ただの嫉妬に過ぎなかったと。自分に無いものを持つ者に対する嫉妬に過ぎなかったと。
クジョウ・ナオトはローラさんに憧れていた。
この決戦の前日、ローラさんはクジョウに言った。
『世界なんか変えんな。そんなモンに挑むな。ただ怪人らしく、俺と戦え』
クジョウは笑った。クジョウが思い描いた理想。この世界を否定するクジョウが夢見た『天国』。それを実現させるために、クジョウはどんな犠牲もいとわないつもりだった。
ゴリラはそれを全否定した。その上で、自分と戦えと言い出した。
結局の所、これは『持つ者と持たざる者の戦い』だった。完成された改造人間と失敗作の戦い。
クジョウは夢を捨てた。そして自分が抱えていた憧れや嫉妬を、すべて叩きつける覚悟を決めた。
その夜。クジョウは仲間たちと呑んだ。そして騒いだ。まるでローラさんとその仲間たちのように。
その夜、クジョウは憧れていたバカ騒ぎを味わった。マダムに三度目の買い出しを頼んだ時、ブチ切れたマダムに全員殴られた。仲間たちはみんな笑顔だった。ブチ切れたマダムだって笑っていた。
クジョウはようやく手に入れた。否定しなくてもいい世界を。
***
ローラさんは膝をつき、クジョウを見上げる。体勢を立て直したクジョウが、誇らしげにローラさんを見下ろす。
ローラさんの眼前で、闇が動き出す。雷鳴のような咆哮と共に、クジョウはローラさんの顔面をめがけて掌底を打ち下ろす。
ローラさんはその掌底打ちを額で受け止めた。歯を食いしばったまま、強烈な打撃を受けて何本か歯が折れた。そして軽い脳しんとうを起こし、めまいに襲われた。
それでもクジョウが体勢を崩している内に、ふらつきながら立ち上がって距離をとる。
ローラさんは手にしていた『スタン・ハリセン』を放り投げた。そしてクジョウに笑ってみせる。
「根性あるな、お前。もっと貧弱でつまんないヤツだと思ってたよ」
息も絶え絶えにローラさんが軽口を叩く。クジョウも、そして『ホワイト』の仲間たちも、クジョウの勝利を確信していた。マダムは小さくガッツポーズをして、クジョウに向かってうなずいてみせる。
クジョウが身構える。そして深く息を吸い込んで、力を溜める。小さく口角を上げ、勝利を確信した笑みを浮かべる。
雷鳴のような咆哮を上げる。強力な踏み込みで足下のコンクリートを踏み砕く。そして闇が疾走する。
闇の塊が、轟音と共にローラさんを襲う。
ローラさんは歯を食いしばり、ただ身構えた。闇が迫る。風を切る轟音と、雷鳴のような咆哮をともなって、クジョウの渾身の力を込めた掌底打ちがローラさんの顔面を狙う。
激しい炸裂音が廃駅の構内に響く。踏み込んだクジョウの足下のコンクリートが砕けている。そしてローラさんの足下のコンクリートも砕かれている。
クジョウの渾身の一撃を、ローラさんは全力で耐えた。顔面の形が歪むほどの掌底を食らいながら、ローラさんは一歩もひかなかった。
体勢を崩したクジョウの顔が青ざめる。その目には、どう猛な笑顔を浮かべたゴリラが映る。
ゴリラは翼を広げるように腕を振りかぶる。渾身の一撃に耐えたローラさんは、自身の渾身の一撃を放つ。
再び、激しい炸裂音が廃駅の構内に響く。渾身のゴリラビンタがクジョウの顔面をとらえ、今度はクジョウが吹き飛び、コンクリートの床に倒れ込む。
ローラさんは笑う。クジョウに歩み寄り、そして傲岸不遜な笑顔で見下ろしてみせる。
「強えだろ? これがヒーローってもんだよ」
クジョウがゆっくりと立ち上がる。鼻と口から血を吹き出したクジョウが、笑顔でローラさんを見つめる。
「調子に乗るなよ、新人ヒーロー。俺は怪人のルーキーだぜ。一発で倒せねえなんて、情けねえな」
クジョウは右手を伸ばし、ローラさんの左手の手首を捕まえる。そして恐ろしいほど強い握力で、ローラさんの手首を握りしめる。
ローラさんの手首が軋み、顔が苦痛に歪む。だが、クジョウの狙いは手首を握りつぶす事ではない。ただ、逃がさないために捕まえた。
クジョウは思いっきりローラさんの手を引いた。大地に根を張ったようにローラさんは動かない。そこにクジョウが掌底打ちを放つ。
炸裂音が響く中、歯を食いしばるルーラさんは一歩も動かない。そして再びゴリラビンタをぶちかます。
クジョウの膝が震えている。目の焦点が合っていない。それでもクジョウは倒れない。ローラさんも倒れない。
***
上野動物園、表門前。ビルダーゴールドが放った電光を受けたガネーシャが、再び目を覚ます。そしてゆっくりと身体を起こした。
もうミドリ君も怯えたりはしない。覚悟を決めたように、ガネーシャの前に立ちはだかる。
***
自分たちの上で、再び超重量級の戦いが始まろうとしている事に、ローラさんとクジョウは気付いていない。
クジョウは掴んだままのローラさんの手首を思いっきり引っ張る。『ゴリラ・バスター』の最高出力で、ローラさんを構内の壁に叩きつけた。
コンクリートの壁に亀裂が入る。だが、それで終わりにはならない。今度はローラさんがクジョウに突っ込む。なんの策もなく、クジョウに体当たり。そのままの勢いで、構内を支えている支柱にクジョウを叩きつける。
廃駅の上で始まったミドリ君とガネーシャの戦い。そして廃駅で続いているローラさんとクジョウの戦い。二つの戦いが、老朽化した博物館動物園駅を激しく揺るがしていた。




