第二十七話 女帝誕生
マダム・クリマーが微笑む。その目に狂気も殺意も感じない。ただ微笑む。その目は異性であれば魅力的にも見えただろう。
だがヨシダさんは戦慄する。その目に自然の摂理を見た気がしたから。野生の獣が補食する行為に、狂気も殺意もある訳がない。それはただの食事。人がパンを食べる事を、狂気の沙汰とは言わないように、マダムはそれがごく自然な行為だとでも言うように自分を捕食すると感じた。
「安心しなさい。殺しはしないから。ただのお仕事。これはただのお仕事なの」
ここでサディスティックな笑みを浮かべてくれるのなら、ヨシダさんはマダムを悪役と認めただろう。だが、彼女にとってマダムは理解の埒外にいた。最初から『違う生き物』だと思い知らされた。
優しく微笑むマダムは、無造作に尾を振り回し、そしてハセガワの小さな身体を叩き潰した。
「ウゲェッ!」
ハセガワに駆け寄るヨシダさん。ハセガワに目立った外傷はない、だがたった一撃でハセガワの心をへし折った。
これがマダムの目的。部下の怪人には正面から攻め込ませ、自分はクジョウから聞いていたもう一つの出口で待ち構える。
唯一の逃げ道をふさぎ、たった一人で問答無用の圧殺。ローラさんの仲間を捕まえるだけでなく、屈服させた上での捕獲。実力を見せつけた上で敗北を与える。
だからマダムはとどめを刺さない。まだヨシダさんの心が折れてない。既に顔面をアザだらけにして腫れ上がらせていながらヨシダさんの目は強い光を宿していた。この手のタイプは肉体を痛めつけても簡単には折れない。そう判断したマダムは、さらにゆっくりと追い詰める。
尾を振り回し、絡め、地を這わせる。絶え間なく動く白い尾は出口をふさぐ。そのままゆっくりとヨシダさんとの距離を詰める。
ハセガワはなんとかヨシダさんの手を借りて立ち上がるが、彼女の目は怯えに満ちている。ヨシダさんの服を掴み、逃げ出す事すらできないほど怯えている。
そこにまた尾の攻撃。ハセガワは壁に叩きつけられて、ヨシダさんは後ろにはじき飛ばされる。
壁に叩きつけられたハセガワを、マダムは片手で掴む。頭を鷲掴みにして、そのまま引き揚げる。頭だけ掴まれて持ち上げられる事なんて、普通は経験しない。これまでの人生で経験した事のない苦痛。首が引き千切られるような痛み。首の関節が引き延ばされ、ゴキゴキと音を立てる。
「あああああっ! ああっ! いぃっ!」
言葉にならない悲鳴。首だけで身体を支える恐怖。首こそ絞められていないが、その光景は絞首刑にも似ている。
冷静にハセガワのダメージを観察するマダム。一応は殺さない程度に加減をするつもりだった。
マダムの注意がハセガワに集中していた時、ヨシダさんはそれを見逃さなかった。マダムの顔面に向かって手帳を投げつける。
大したダメージにはならない。精々気をひく程度。その後、間をあけずに化粧品を投げつける。プラスチック製の容器や、ガラス瓶。人間相手なら、当たり所次第で怯ませる事もできたかも知れないが、改造人間相手では意味が無い。マダムをただ怒らせただけ。
マダムは片手で持ち上げていたハセガワを放り投げた。既にハセガワに戦意はないと判断し、そして標的をヨシダさんに絞った。
ヨシダさんは怯えていた。気を抜けば泣き出してしまいそうだった。だけど彼女は引かない。誰よりもヒーローに憧れていたから、彼女は負けを認めない。誰よりもローラさんに惹かれていたから、彼女は立ち上がる。マダムの射貫くような視線を受け止めて、彼女は覚悟を決める。
しかし彼女は逃げ出した。
マダムに背を向けて、一目散に逃げ出した。一瞬呆気にとられるマダム。だが、すぐさま追い始めた。
『仲間も見捨てて逃げ出しちゃうの? まあ、人間らしいって言っちゃえばそれまでだけどさ』
マダムは叫ぶ。
「アンタ、くだらない生き物だね!」
マダムはヨシダさんの向かう先を見つめる。一本道の先には頑丈そうな扉。そこまで逃げきれば自分の身は守れる。ヨシダさんはそう判断したのだと、マダムは思い込んだ。
『扉の前まで追い込むか……、それとも扉を開けさせて、中まで押し入るか……』
ヨシダさんの心を折るために、なにが最善かを考える。あえて追いつかない程度の速度で通路を這い進む。
そしてヨシダさんは扉まで辿り着く。拠点の地下室まで。逃げ出すつもりが、また拠点まで追い込まれた。拠点の上には怪人の群れ。そして唯一の出口には怪人の女王。
「さあ、どうする? 命乞いでもしてみる?」
マダムの目に殺意が宿る。ヨシダさんの逃走に怒りを覚えている。仲間すら見捨てる行動に、敵であるマダムですら怒りを覚えた。
マダムは考える。目の前にいる女をどうするか……。無傷でクジョウに引き渡すのはしゃくに障る。死なない程度に痛めつけるか……、いや、死んだところで問題は無い。その考えが彼女の顔に表れていた。美貌を殺意が覆う。それまで舌以外には変化のなかった美貌が変わっていく。
彼女の口が大きく開いていく。自分よりも大きな生き物すら丸呑みにしようとするヘビのように、彼女の美貌が歪み裂けていく。
ヨシダさんが開けた扉は拠点の『西側出口』。そこから中に飛び込んで、彼女は真っ直ぐ『東側出口』へと向かう。その様子を見て、マダムは眉をひそめる。
『出口がもう一つ? クジョウはそんな事言ってなかった……』
いびつに広がっていく口をそのままに、マダムはヨシダさんに襲いかかる。これ以上の逃走は許さない。ここで仕留める。そう決意した。
ヨシダさんが『東側出口』のドアノブを握る。ドアノブに仕込まれたセンサーが作動する。扉の奥で『カチャ、キンッ!』と解錠される音が響く。だが扉は開かない。内部から『ウィィィィィィン』と動作音が伝わってくるが、扉は動かない。
扉の周囲から『ミリミリ』となにかが剥がれていく音が聞こえた。ヨシダさんは扉の周囲に目を向ける。扉を封じていたガムテープを剥がす、そして繰り返しドアノブを回す。何度も扉に体当たりを繰り返す。
そのヨシダさんに、マダムの尾が襲いかかる。後ろ回し蹴りのような動作からの尾による攻撃。まともに食らったヨシダさんは扉と尾に潰される。
ヨシダさんの身体から骨の砕ける音が響く。そして周囲からは、扉を封じていたボンドが剥がれていく音が聞こえる。
尾の攻撃が、扉の封印を解き放った。ゆっくりと開いていく扉を横目に、ヨシダさんはニヤリと笑う。そしてマダムに向き直って一言。
「お口にあえばいいんですけど」
マダムが硬直する。それは攻撃と言うにはくだらない手段。作戦と言うにはバカバカしい手口。
解き放たれた『東側出口』から流れ込んでくるのは、蓄積した糞尿の臭い。
「なにこれ、くさっ! ちょっと、アンタバカじゃないの? これで……、ホントくさっ! なにこの臭い、うげぇ……」
自然界のヘビには嗅覚が二つ備わっている。多くの動物と同様に、鼻から臭いを嗅ぐこともできる。だが、ヘビはもう一つ鋭敏な嗅覚を備えている。
それがヤコブソン器官。長い舌先で臭いを掴み、それを口の中に取り入れる。そのヤコブソン器官は、マダム・クリマーにも備わっていた。
彼女の口の中に広がる下水の臭い。蓄積した糞尿を口の中に突っ込まれたような不快感。自然界のヘビならば、一目散に逃げ出したかも知れない。だが人間としての知能がそれを妨げた。目の前の敵から背を向ける事を許さなかった。
「ていっ」
間の抜けたヨシダさんのかけ声。ヨシダさんの攻撃。拳を握り、それをマダムにぶつける。威力もクソも無いネコパンチ。
握りこんだ拳は当たらず、手首がマダムの身体に当たった。マダムの身体のヘビと人間のちょうど境目、お腹にヨシダさんのネコパンチが命中した。
決して鍛え抜いた肉体とは言えないマダムの柔らかいお腹から『ぽこん』とネコパンチの打撃音が響く。
「なっ、なによ……。この……程度でっ……。うっ、うっぷ! お、おおぉ、おぇええええええええええええええええええええええっ!」
嘔吐するマダム。その瞬間、彼女はヨシダさんから目を離していた。糞尿の臭いを止めるために扉に手をかける。だが、閉まらない。動き出した扉はゆっくりと開いていく。
吐瀉物を撒き散らしながら扉を押さえるマダム。その背後からヨシダさんが迫る。そしてマダムの動きが止まる。ヨシダさんはマダムの首筋にスタンガンを押し当てた。そして笑顔で告げる。
「気に入った。うちに来て妹とファックしていいぞ!」
下水の臭いはヨシダさんの脳にも甚大な被害を与えていた。それでも目的は忘れない。彼女は妙にハイな気分になりながら、スタンガンのスイッチを押した。
急所へ叩き込まれた五万ボルトの衝撃。一瞬、マダムは意識を失いかける。そしてわずかに残る意識が敗北を悟る。
『誘い込まれた!? 最初からこの場所でアタシを倒すつもりだった!?』
ヨシダさんはもう一度スタンガンのスイッチを押した。ヨシダさんが叫ぶ。
「ふざけるな! 大声を出せ! タマ落としたか!」
マダムは薄れていく意識の中でツッコんだ。
『最初から付いてねえよ!?』
もう一度スタンガンのスイッチを押した。ヨシダさんは完全にハイだった。
「オマエの名前は今日から『微笑みデブ』だ!」
マダムは最後の力を振り絞りツッコむ。
『なんでだよ!?』
ヨシダさんはスタンガンのスイッチを押した。繰り返し押した。何度も押した。マダムは意識を失った。だがヨシダさんも既に正気を失っていた。
***
出口につながる通路の途中。ハセガワはうずくまったままだった。身体がバラバラになりそうな痛みの中で、彼女はヨシダさんの行動について考えていた。
『ヨシダさん……。自分のために……、アイツを引き付けた……。でも一人じゃ勝てっこない。でも……自分が行ったって……』
ハセガワは勇気を振り絞り立ち上がる。無理矢理笑い声を上げる。
「はははっ、よく考えたらヨシダさんって年下っすよ。バカっすね、自分。年下の女の子に守られて……。はは……。ヨシダさん、今行くっす!」
全身に痛みを抱えながら、ハセガワは拠点を目指した。そして辿り着いた拠点で見たのは、虚ろな目でマダムを罵倒しながら、スタンガンのスイッチを連打しているヨシダさんだった。
既にマダムに意識はなく、スタンガンの電池も切れていた。
『カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ』
スタンガンのスイッチを押す音が虚しく響く。
「マジっすか……。あの化け物、倒しちゃったんすか……。って、クセえっ! なにやってんすか、マジで」
「自分はー、ハートマンぐんそーでありますー」
「いや、ヨシダさん、帰ってくるっす。戦争は終わったっす」
「すべてー、びょーどーにー、価値がないー」
「それは否定しないっす。ただ落ち着くっす。クソ、マジでクセえ!」
***
ヨシダさんが正気に戻ったのは、ハセガワが『東側出口』の扉を閉めてしばらくしてからの事だった。
「すいません。お恥ずかしいところをお見せして……」
「ホントに恥ずかしいっす。って言うか、映画の趣味は合いそうっす。今度、ゆっくり映画でも観たいっすね」
マダム・クリマーの敗北。後日、その事実は怪人たちに大きな衝撃を与えた。ある者は敵討ちを決意し、ある者は新たな女帝の崇拝を始めた。
「とりあえずネットには、『素手でフルボッコにしたった』って噂流しとくっす。こういうのはハッタリが大事っす」
その後、二人はドンキーの駐車場から拠点を後にした。ライダーから盗んだライトバンに乗り込んで、ローラさんの元へと急いだ。
思い切りアクセルペダルを踏み込むヨシダさん。彼女自身も分かっている。仮に彼女が駆けつけたところで、ローラさんの役には立たない。
それでも彼女は脇目も振らず明治神宮を目指す。そして道路に飛び出してきたミドリ君をはねた。
***
ヨシダさんの人生初の人身事故から五分ほどさかのぼる。
「ああ、あの二人も無事に逃げ出せたかしら……」
拠点から少し離れた住宅街。ゴトウダとミドリ君は辺りに気を配りながら、更に拠点から離れようとしていた。
『ホワイト』の怪人に見つからない事が最優先。それからなるべく早めにローラさんと合流。それが彼らの現在の目的。しかし徒歩ではらちが明かない。
「なに使う? バス、それとも電車?」
何気なく尋ねるゴトウダ。その質問に顔をしかめるミドリ君。
「僕、これで電車とか乗れますかね……」
ミドリ君の体長は現在も三メートルほど。そしていまだ全裸。公共の交通機関は使えそうにない。ため息をつくゴトウダ。そこにガタガタと走行中に分解してしまいそうな不吉な音を響かせるライトバンがやって来る。
「あれ? あの車って……。やだ!? ヨシダさんじゃない! よかったわ、あの子たちも無事みたい。ついでに乗せてってもらいましょうよ」
ブンブンと手を振るゴトウダ。しかしヨシダさんは気付かない。まるでスピードを落とす気配のないライトバンに向かって、ゴトウダはミドリ君を突き飛ばした。
***
「この車、頑丈っすね」
「ホント、まだ走るもの。思わぬ拾いモノって感じね。でもよかったわ。二人が無事だった上に、こうしてすぐに合流できたんだから」
「いや、ぶっちゃけ二手に分かれた意味が無かったっす。こっちはこっちでエラい目にあいましたし。拠点から出てすぐに合流してるし」
「みたいね。でも酷いケガよ。どうする? 病院行く?」
運転中のヨシダさんは前を向いたまま、強い決意をにじませる表情で言い切った。
「このまま、ローラさんと合流します!」
「そうっすね。それで行きましょう!」
二人の言葉にゴトウダはため息をつきながらも、どこか楽しそうだった。ライトバンの後部座席では、ミドリ君が泣いていた。だが、それを気にしている者は一人もいなかった。




