9. ミモザと楓16
そんな風に、それぞれが別れの挨拶を交わし、愛と多々羅が玄関を出ようとすると、楓が「待って」と、声を掛けた。その声は、どこか緊張を伴っており、不思議に思って振り返ると、楓は愛にミモザのイヤリングを差し出した。
「これ、愛が持っていてくれないかな」
「…え?」
「あ、戒めにとか、そういう意地悪じゃないから!傷がそう見えちゃうなら、私の部屋にある方と取り替えるから!」
必死に言い募る楓の様子に、愛は戸惑いを浮かべた。
「そんな事は疑ってないけど…。でも、これは楓のものだ。この子も大事な友達だったろ?」
「だから、持っていてほしい。愛だって、友達だったでしょ?」
その言葉に、愛らしいミモザのスカートを翻した化身の姿が蘇ってくる。最初は愛の瞳に怯えていた彼女だが、楓と会うようになると、怯えも取れて普通に接してくれた。愛にとって、助けたかった友達の一人だ。
「…本当はね、何度か宵の店を訪ねた事があったの」
「え、」
「でも、愛が留守だったり、そもそも私の体調が安定しなかったりで、会えるまで時間かかっちゃって、」
「ごめん、俺、」
「あ、違う違う!謝って欲しいんじゃなくて!その、今日ね、朝起きたら、私が持ってるもう片方のイヤリングがあるでしょ?それが、机の上に置いてあってね。勿論、化身の姿は見えないし、でも、ケースから出した覚えもないし、不思議で。そうしたら、愛が来てくれたでしょ?私、もしかしてって思って」
楓はそう言って、少し悲しく表情を緩めた。
「あの子がいないことは分かってるけど、でも、あの子が会わせてくれたのかなって」
そう視線を俯けた楓に、篤史は優しくその肩を叩いた。
「僕も、今朝、楓からその話を聞かなかったら、あなたを見て、すぐに瀬々市さんだって思わなかったかもしれません」
篤史は楓の思いを支えるように、言葉を繋ぐ。化身の彼女はもういない、でも、もしかしたらと望む気持ちは、愛にも良く分かる。真実よりも、信じた幻想が背中を押してくれる事もある。
「だから…今度は、私からも会いに行く。その子にもね。その為の、おまじないと思って」
その子とは、イヤリングの化身の事だ。愛は、イヤリングに目を向け、それから、ちらりと篤史を見やった。一応、愛と楓は恋人関係にあった仲だが、篤史は愛と楓が会うことは気にしていないように見える。愛との事は過去の事と割り切っているのか、それに、楓を信頼しているのだろう。
愛は、再びイヤリングに視線を落とし、少し悩んでから、イヤリングを差し出す楓の手を、そっと押しやった。
「これは、君が持つべきだ」
「…でも、」
「イヤリングは二つで一つだ、心も同じく一つだから、一緒に持っていた方が、この子の為だよ」
この子。その言葉に、楓はイヤリングに視線を落とした。もう、あの子はいない。その事実を突きつけるようではあったけど、物に宿る意思は、そこにある。もう、あの子ではなく別人だけれど、それでも意思は続いていく。
楓は少し俯いて考えていたようだが、やがて納得したように頷くと、どこか吹っ切れたように顔を上げた。
「そうだね、あの子の、この子の為だもんね」
「うん。…そうだ、もし修理するなら、腕の良い修理屋を紹介するから」
イヤリングは楓の物なので、勝手に手を加える訳にはいかなかったし、それに、愛がその傷に関して何か申し出る資格はないように思えた。いくら許されても、愛がその傷を治そうとするのは違うように思えたからだ。人の物だからというのもあるが、この傷はあの子の勇敢な思いの表れのような気がして、消してしまう事を躊躇わせた。同時に、あの子のように楓を守れなかった自分は、気軽に触れてはいけないように思ってしまう。
楓は愛の言葉に、うん、と頷いて、そっとその傷を撫でた。その傷は、楓にとっても様々な思いを起こさせるだろうが、化身が楓を思い守ってくれた証でもある。大事そうに触れる傷に、太陽の光が反射して、キラキラと細やかな煌めきを放っている。まるで、言葉ないあの子からのメッセージのようで、楓はその思いを受け止めるようにそっと微笑み、再び胸に抱きしめた。震える背中を、篤史がそっと支えるように撫でるのを見て、愛は多々羅を振り返った。そろそろ行こうかと、無言の問いかけに、多々羅は頷いた。
「それじゃあ…」
「…うん、会えて良かった」
楓の言葉に頷いて愛が玄関を出ると、楓は「またね!」と、愛の背中に声を掛けた。その表情はどこか不安そうで、愛はその不安を受け止め、そっと笑んだ。
「…あぁ、また」
素直に言葉が口を出て、愛の返事を受けた楓は、いつかのように瞳を輝かせ、「約束だよ!」と勢い込んで言うものだから、愛は思わず笑ってしまった。その様子に、楓がほっとした様子で篤史を見上げれば、篤史も嬉しそうに楓に微笑みかけている。その姿を見て、楓を支えてくれる人がいて良かったと、愛は心底思った。
「今日は来てくれて、ありがとう。また連絡する。皆で、会いに行く。ショパンもね」
楓がそう言えば、ショパンは嬉しそうにひと吠えした。
「また連絡するね」
その言葉に頷いて、愛と多々羅は楓の家を後にした。
それから少し歩いて、愛はふと足を止めた。
今更ながら、現実が押し寄せてくるのを感じた。
またね。
その言葉の大きさを、愛は噛みしめる。明確な約束ではないけれど、その言葉は、愛を許し、絆を結び直した証のような気さえして。そう思えば、胸が苦しくなって。
そんな愛を、多々羅はただ黙って支えていた。




