第7章 新しい扉 18
七都が言うと、セレウスは目を見開いた。
彼の顔がこわばる。顔だけではなく、全身が固まったようだった。
魔の領域でのことを正直に話そうものなら、セレウスはいろいろ心配して思い悩むことは明白だった。
とりあえず、彼には詳しく話すのはやめておこう。
自分が話さなくとも、他の誰か――シャルディンあたりから、いずれ聞かされることにはなるのだろうけれど。
「もう大丈夫だよ。だから、私はここにいる。この町に、この屋敷に帰ってきたわけだから」
「よかったです。無事にお戻りになって。あなたにいただいた髪の色が変わったので、気が気ではありませんでした」
セレウスは、胸のあたりに手を置いた。
もちろんそこには、七都がユードに切り取られた髪が、小さな箱に入れられて収まっているはずだった。
「銀色になったんでしょ。私も見たよ」
あのとき、黒に近い深い緑色である七都の髪は、輝くような銀色に変化していた。母と同じような銀色の髪に。
「今は、元の色に戻っています。だから、危険は回避されたのだと。姉にもそう言われました」
「ふうん。戻ったんだ。私が危なくなったら、その髪、色が変わるのかな。何だかバロメーターみたいで、便利だね」
「……何ですか、それは?」
セレウスが、狐につままれたようないつもの顔でいつものセリフを言ったので、七都は思わず笑ってしまう。
帰ってきたんだ、ここに。
そして懐かしいセレウスは、懐かしい顔と言葉でわたしを迎えてくれる。
それは何気なく当たり前のことなのだが、七都には、とても大切なことのような気がした。
「あなたは、次のリシュフィンさまになるお方なのですね。皆様からお聞きしました。おそらく風の王族の方なのだろうという推測はしておりましたが、まさか、ご本人だとは……」
セレウスが呟く。
「そう。お母さんとリシュフィンを探しに行ったら、そのお母さんが当のリシュフィンで、しかも次期リシュフィンがわたしだったというお話。でも、わたしはリシュフィンになることを承服していないから」
「しかし、今、風の魔王にいちばん近いのは、あなたです。あなたがどう思われようと、それは動かしようもない事実なのです」
「だろうな。皆同じことを言うよ。要は、わたしの心の問題。わたしの我がままってことで片付けられちゃうんだよね」
「ナナトさま。まだきちんとご挨拶が出来ていなかったので、させていただいてもよろしいですか?」
セレウスが、ためらいがちに言う。
「な、なに。改めて」
「何しろ、出会いがしらにぶつかって、何がなんだかわからなかったものですから……」
そうだった。
扉を開けると彼がいきなりいたので、押し倒してしまったのだった。
挨拶も何もあったものではない。
「そういえば、そうだね」
「ちなみに、ここを出立されるときも、挨拶は出来ていませんでした」
セレウスが付け加える。
「あなたは眠っていたものね」
眠っていたというか、ゼフィーアに薬を飲まされて、眠らされていたんだっけ。
「本当は起きていたのですよ。あの場合、そうしていたほうがいいと判断しました。姉の立場もありますので」
「なんだ、起きてたんだ」
すると、別れ際に頬にキスしたことも知ってたわけね。
案外セレウスって、したたかで、ずるい人なのかも。
わたしどころかお姉さんまで、たばかってたってことだもの。
七都は、立ち上がった。
撫でるのを中止された銀猫が、不満そうに七都を見上げる。
「じゃあ、どうぞ」
セレウスは微笑み、それから真面目な顔をした。そして、姿勢を正す。
彼は胸で手を組み、丁寧にお辞儀をした。
彼の挨拶もまた、美しく、見ていて心地のよいものだった。
シャルディンの、回数をこなしたゆえの優雅さには遠かったが、彼と比べるのが酷というものだろう。
「おかえりなさいませ、ナナトさま」
「ただいま」
七都は、にっこりと笑って頷いた。
別にハグがなくたって、セレウスとはこんな感じでいいよね。
十分心が通じ合っているとわたしは思うんだ。
「では、参りましょうか。皆様もお待ちですし」
七都は、差し出されたセレウスの腕を取る。
前によくそうして歩いていたときのように。
「ね。セレウス。ゼフィーアのことなんだけど……」
七都は、先ほどのルーアンの言葉を思い出して、遠慮がちにセレウスに訊ねてみた。
「何ですか?」と、セレウスが首を傾げる。
「ゼフィーアって……あなたのお姉さんだよね?」
セレウスが、噴き出した。
それから彼は、地下通路に響き渡るくらいの、屈託のない笑い声をたてる。
七都は、その明るい笑い声に、ほっと安堵した。
「ナナトさま、魔の領域に行かれて、私共のことをすっかりお忘れになってしまわれたのですか?」
「そ、そうだよね……」
七都も、笑う。
やっぱり、ルーアンの妙な思い違いだよ。
もしかしたら、ルーアンったら、セレウスに変な嫉妬して、わたしをからかったのかもしれないし。
七都は、セレウスにエスコートされ、猫たちに囲まれて、地下の部屋を後にした。
セレウスと腕を組んでいても、以前のような衝動は、全く感じなかった。
空腹と喉の渇きが入り混じったような、そしてそれゆえ、彼に襲いかかりたくなる衝動。
やはり、イデュアルにもらった指輪の力は、甚大だ。
あるいは、七都が前のように怪我をしていないせいなのかもしれなかったが。
「アヌヴィムを……お持ちになったのですね」
客間が近くなると、黙って歩いていたセレウスが、呟いた。
(うわ。またセレウスったら、暗くなっちゃってるよ……)
七都は、うつむいている彼の横顔を見上げて、深く溜め息をつきたくなった。
やっぱり訊いてきた。訊くだろうとは思っていたけど。
「シャルディンは、わたしがそうしなければ助からなかった。だから、選ぶ余地はなかったよ」
七都が言うと、セレウスは頷く。
「わかりますよ。あなたはとてもおやさしい方だから。彼は……美しい人ですね。アヌヴィムの魔法使いとしても長いようですし、魔神族にも詳しい。あなたのアヌヴィムとして、ふさわしいです」
「すねてるの、セレウス?」
七都が少しきつい目の口調で言うと、セレウスは緑色の目を見開き、それからしばたたいた。
「すねる? 私がですか? 何でまた?」
「そう見えるんだけど」
セレウスは、慌てた様子で首を振る。
「とんでもないです。なぜ私がすねなければならぬのです?」
本当に気づいていないのかな。
それとも、そういう振りをしているの?
あなたの顔には、書いてあるんだよ。<あなたの最初のアヌヴィムは、私のはずなんですよ。なのに、なぜなんですか?>って。
「すねてなければ、いいよ。私の思い過ごしってことで。気にしないで」
七都は、にっこりと笑って見せる。少し頬がひくついたが。
「シャルディンは、あなたと仲良くしたいって言ってた」
「そのようですね。私に親しく話しかけてくださいます」
と、セレウス。
「彼は、時々常識ないけど、とてもいい人だよ」
「常識のことはまだわかりませんが、いい方だとは私も思います」
七都は、いつもと同じ彼の笑顔を眺める。
取りあえずは、だいじょうぶかな。
シャルディンは、言ってもセレウスよりかなり年上なんだし。
人生経験も豊富だものね。辛い目にあってるから、人にもやさしい。
外見はあんなだけど、頼もしくて親切なおじいさまだもの。
うまくやってくれると思うんだ。
「これから、すぐにお戻りになるのですか? ナナトさまがおられた異世界に」
セレウスが、話題を変えて訊ねた。
七都からシャルディンの話を訊いたことで、彼の中のもやもやしたものが、ある程度は消えたのかもしれない。
少なくとも七都は、そう期待したかった。
「うん。早く帰りたいの。家族が心配してるし、やること山積みだしね」
七都は、セレウスの顔を覗き込む。
「もしかして、もっとここにいてほしい……とか?」
「いえ、そのような……」
彼は、七都から目をそらした。
もちろん、彼がそう思っていることは明らかだ。
「今回は帰るけど、でも、また近いうちに来るよ。わたしは、たぶんこれから、頻繁に風の都と自分の世界を行き来する。あの地下の扉を使ってね。だから、ここにもよく現れるようになる。よろしくね」
「どうぞ、いつでもお越しください。お待ち申し上げております」
セレウスが嬉しそうに言った。




