第7章 新しい扉 6
雲の間に、白く輝く都市が見える。
上を漂う何層にも重なる雲のせいで、都市は水の底に沈んだ巨大な遺跡のようにも思えた。
地上まで降りれば、必ずそこに到達できる。その都市の中に佇むことは、とても簡単なこと。
理解出来てはいても、別の次元の景色を垣間見ているような、妙な気分になってしまう。
「高い……よね」
七都は庭園の端のテラスから、はるか下に広がる、その光景を覗きこむ。
「やっぱり、高い。ちょっと怖い……かなあ。飛び降りるには」
軽く溜め息をついて、七都はテラスに座り込んだ。
風が、七都の長い髪で幾つもの細い曲線を描いて、テラスを吹き抜けて行く。
なんとなく、やはりここに来てしまった。
ひとりで行ける、などとナチグロ=ロビンに勢いで言ってしまったものの、やはり冷静に考えると、転送装置を使うべきだったかもしれない。
カーラジルトがいるのは、言うまでもなく、シイディアのところ。
都市の地下にある、あの銀の扉の中だ。
となると、当然街中に下りて行かねばならない。
この城から街中に下りるには、城のあちこちにある転送装置を使えばいいわけだが――。
「使い方、まだわかんないんだよね」
七都は、呟いた。
「一回見ただけで操作の仕方を覚えられるほど、私は頭よくないんだ、残念ながら」
やっぱりナチグロ=ロビンについてきてもらえばよかったかな。
七都は少し後悔する。
シャルディンのことはサリアにまかせて、ナチグロと一緒に行くことにしたほうがよかったかも。
「だめだ、だめだ。ひとりで行くって決めたんだもの」
それは、もちろん、カーラジルトのためにも。
彼は、婚約者のシイディアに会いに行っているのだ。
七都が彼に会うのは、その最中か、その後になる。
彼は、とても暗い気持ちになっているに違いない。たとえ、彼の見た目がどんなにクールで穏やかだろうと。
その心中は、察するに余りある。
出来れば、彼とは二人きりで会いたかった。
ナチグロ=ロビンとカーラジルトは、グリアモス繋がりがあるとはいえ、彼らそれぞれの話から推察するに、そんなに親しい間柄とは思えない。
だから、ナチグロを伴うことによって、カーラジルトに変な気をつかわせたくない。
「それに、だ。転送装置がなくったって、単にここから魔力を使って降りればいいだけじゃない」
七都は明るくそう言って、ちらりと下界を眺めやる。
しかし、単に降りるにしては、高すぎる。
あの魔王の神殿の螺旋階段を降りるのとは、比較にもならない。
無事に降りられるとわかってはいても、元の世界の人間の感覚と記憶が邪魔をする。足が勝手にすくんでしまう。
「ここでぐずぐずしていたら、ルーアンがまた、血相変えて飛んできそうだし」
風の城は静かだった。相変わらずの、ラベンダーを背景にしたデコレーションケーキだ。
最初は圧倒されたその姿も、もう慣れてきたのか、圧迫感も薄れ、目に心地よくなじむ。
ルーアンの気配は、感じられなかった。
もっとも彼のことだから、どこからか注意深く、七都の行動を観察していないとも限らないのだが。
「それに第一、ここにいたら、また変なものを見ちゃわないとも限らない。やっぱり、ここから降りようか。思いきって」
変なもの……。
七都はテラスを見渡した。
雪を固めて造られたようなアーチの重なり。美しい空間。
七都は、その風景の中に、黒髪の少女を探してみる。
もちろん少女の姿はなく、真っ白いテラスには透明な風が吹き渡って行くだけだ。
前に来たときは少しひるむくらいに威圧的に感じた風も、心地よく体にまとわりついた後、あきらめたように、素直に傍らに去っていく。
気分は、とてもよかった。
体からエネルギーが溢れている。まるで匂い立つように。
今のこの状態なら風にだって乗れそうだし、羽根のようにふわふわと地上まで、あるいは蝉のように一直線に地上めがけて降りられそうだった。
魔力が満ちている。いつも出来ないことが、今なら簡単に出来るかもしれない。
安定した自信のようなものが、さっきから自分の中に居座っていた。
あと必要なものは、ここから降りるという小さな勇気だけ。
けれども、もちろんその気分のよさや満ち溢れる魔力、自信は、シャルディンのエディシルを食べたからだ。
シャルディンは、三口などと言っていたが、たぶんそれ以上。
彼が話すこともできなくなるくらいに、取ってしまった。
罪悪感が、七都の体の内側を押しピンでつつくように、ちりちりと刺激する。
でも、もう終わりだ。
やらなきゃならない仕事は済んだんだもの。
責任は果たした。もう、人間からエディシルなんて食べない。
基本、食事は元の世界で。ここでの補助食品としては、カトゥースと蝶で充分。
だけど、人間のエディシルの味を覚えてしまった分、抑えるのに苦労するかもしれない。
今度シャルディンに会ったとき、おいしそうに見えたりなんかしたら、どうしよう……。
七都は、思わずイデュアルがくれた銀の指輪をぎゅっと握りしめた。
<乗っ取られる……。乗っ取られてしまう……。私が私じゃなくなっていく……>
「え?」
誰かの言葉を聞いたような気がして、七都はあたりを見回した。
けれども、やはり七都の周囲にあるのは、風が渡る白いテラス。何の変化もない。
「空耳……? でも、乗っ取られるって……?」
<ソンナコト……ソンナコトシナイ……。シナイヨ……>
また声が聞こえた。
いや、正確には声ではない。
思い。感情。そんな、まだ言葉にも変換されていないようなもの。
七都は突っ立ったまま、風に吹かれる。
緑がかった黒髪が、乱暴な風に撫でられて、次第に絡まって行く。
七都は、数歩アーチに近づいて、そこにうずくまった。
「ここ……だ」
そっと石の床に触れ、それからその上あたりの空間を手でさぐってみる。
もちろんそこにも風しかなかったが、確かにそこには何かがあるような気がした。
「過去の一シーンが刻まれたもの。これも、たぶん……? 声だけなのかな」
七都は、うずくまったまま、目を閉じてみる。
もう声は聞こえなかった。そこにある何かも感じられない。
錯覚だったのか。
それでも七都は耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ます。
今、わたしは魔力が増している。
もしかしたら、何か見えるかもしれない。
昔、百年か二百年前に、ここで起こった出来事のかけらが……。
そっと目を開けてみると、いきなり七都の真正面に、若者の顔があった。
七都は叫びそうになる口を、かろうじて手で押さえる。
赤味がかった金色の長い髪と、オレンジ色の目。
端正な顔立ちのその若者の額には、金の冠が輝いていた。
若者はアーチにもたれかかり、けだるげに七都を見つめている。
いや、七都ではなく、おそらく、七都がうずくまっている場所にいる誰かを見つめていた。
「やはりそなたは、その子を大切には思ってはいないのだね……」
冠を額にはめた若者が言う。
彼は、とても疲れた表情をしていた。
体も、アーチにもたれかかっていなければ、倒れてしまいそうなくらい不安定に見えた。
「大切ですって? 思えるわけないでしょう。この子は魔物だというのに?」
誰かが、彼に答える。
「魔物……か。しかしその子は、そなたの血を受け継いでもいるのだよ」
「魔物の子供は、魔物です」
答えるその声は、震えていた。
その響きの端々から、七都は憎悪と嫌悪を感じ取る。
この声……。テルレージア。おばあさま……。
わたし、おばあさまのいる位置にいるんだ。前にエヴァンレットと重なっていたように。
別の誰かが、かすかに身じろぎをする。
テルレージアの言葉に反応して、動いている。
(ここ……?)
七都は再び手を伸ばし、床のあたりを撫でてみた。
(ここに、誰かいる。……小さな……子供?)
「我々は、そなたにとっては、永遠に魔物なのだね。非常に悲しいことだ。それはそなたにとっても、不幸なことだよ」
若者が言った。
(この人……。リュシフィンだ……。 おじいさま!?)
七都は、若者を見つめる。
その若者を七都は知っていた。
この風の城の下で見た、過去の残像――。
抱き合って落ちて来た若い男女。その男性のほうだ。
赤味がかった長い金の髪も、オレンジ色の目も同じだった。
あれは、間違いなくこの人だった。
やっぱり、おじいさま。
おばあさまと抱き合ったまま、地面にぶつかって、分解した……。
七都は固く手を握りしめたまま、テラスの空間に刻み付けられた過去の残像を食い入るように眺める。
「不幸……。私の不幸の始まりは、ルーアンに出会ったこと」
テルレージアが言った。
「出会わなければよかった。彼と出会わなければ、私はこんなところにいたりしない。魔物の棲む世界で、魔物の城で、魔物に囲まれて……」
「そうだ。そして、魔物の子供を宿している」
リュシフィンが、冷ややかに呟いた。
テルレージアは、小さな悲鳴をあげる。
七都のすぐ下で、顔を覆った彼女が床に突っ伏した。
黒いリボンの房のように、長い髪がテラスの石の床を這って、風になびく。
(おばあさま……)
七都は、彼女の背中に手を伸ばした。
その手は、背中を突き抜けてしまう。
(じゃあ、さっきの子供だと思ったのは……赤ちゃん? おばあさまのお腹の中の……?)
テルレージアの腹部は、華奢な彼女の体には場違いなくらいに、大きく膨らんでいた。
ドレープがたくさん入ったゆったりしたドレスを彼女は着ていたが、それでもその形は、はっきりとわかる。
「そなたは、魔物だと我々を嫌うが……。そなたも既に魔物なのだよ。魔物と交わった時点で魔物となった。それに、そなたは私の妃。私の魔力を自分のものとして使うことができる。そなたは、もう人間ではないのだ」
リュシフィンが静かに言う。
「この子を早く出して。私の体の中から、早く! 魔力を使えば、そんなこと簡単でしょう? この子はあなたにあげるわ。ルーアンもあなたも、この子がほしいのでしょう。だから、私を元のところに帰して。この子を身ごもっていなかったら、私はもう用済みのはず。ここにいる意味も必要もないわ。私は人間に戻る。戻れるわ。この子が私の体から出てくれさえすれば」
「そなたはその子を産み、育てるのだ。それがそなたの務め」
テルレージアは顔を上げ、首を何度も振った。
「真っ平よ。魔物を産むなんて、育てるなんて!」
テルレージアが叫ぶ。
彼女が叫ぶのと同時に、彼女の中でも、誰かが叫んでいた。
七都は、確かにその声を感じた。
不安と悲しみにおののき、怖がり、震える声……。
母親に『魔物』と呼ばれて悲しみ、むせび泣く声……。
「そなたの居場所は、もうここしかないのだ。この城の女主人となるがいい。たとえ人間の女でも、魔王の母親ならば、すべての魔神族から尊敬され、大切にされる」
「魔王の……母親!」
テルレージアが、かすれた声を絞り出す。
「わたしがいなくなったら、ルーアンと一緒に、この城で穏やかに暮らせ。その子と三人で。その子はきっと、そなたを慰める。そなたが今持っているその感情も、きれいに消してしまうだろう」
リュシフィンが言った。
(いなくなったらって? どういうことなんだろう。おじいさま、いなくなることになってたの?)
「ルーアンと一緒にですって? 笑わせないで。暮らせるわけないでしょう? 私は彼を許さない。私をたばかった彼を許さない! そして、あなたも許さない!」
「ルーアンは許せ。彼はそなたを愛している」
リュシフィンがテルレージアに近づいてくる。
「寄らないで! 私にさわらないで!!」
テルレージアが叫ぶ。憎悪をこめた目でリュシフィンを凝視しながら。
「最初から、そなたはルーアンの妃だった。これからもそうなる。だが、今はそなたは私の妃だ。たとえ形式的にせよ」
(形式的? ルーアンの婚約者だったおばあさまをお妃にしたから? だから、おじいさまはそういう言い方を?)
七都は、首をかしげる。
(違う……。何か……それだけじゃない複雑な事情があるんだ。それは、何……?)




