第7章 新しい扉 5
シャルディンは、七都の手を再び引き寄せ、自分の唇の上に置いた。
指がシャルディンの少し冷えたやわらかい唇に触れると、七都は、びくりと体を震わせた。
唇を通して、エディシルの流れがわかる。
人間の熱く甘いエディシルが、その向こうには渦巻いている。
「また手からにしますか? 私は構いませんが」
シャルディンが言う。
「構うってば。二度もそんなことしたら、あなたに申し訳がない……」
七都は、彼の唇から手をはずした。
そして、その手をそっと彼の顎の下に差し入れる。
七都の長い髪がふわりと床に落ちて、暗緑色の天蓋のようにシャルディンの周りを覆った。
彼の顔は白く、唇も血の気がなかった。
赤い目だけが、一段と美しく、顔の中で引き立っている。
七都とシャルディンは、しばし恋人同士のように見つめ合った。
以前、ユードに無意識でしようとしたこと。
自分を見失って、セージにしようとしたこと。
目を閉じ、耳を塞いで封印してこようとしたこと。
それを今、やらねばならない、シャルディンに。
彼のこれからの生活に支障が出ないように。彼がこの先もずっと自由でいられるように。
意識は、もちろんはっきりしている。無意識などではない。
けれども、だからこそ体はその行為におののいて、冬の寒さに凍えたように、あるいは石にされる魔法にかかったかのように動かない。
「迷っておられるなら、またの機会に。この前のように切羽詰ってはおりませんから」
シャルディンが言った。
「先延ばしはよくないんだったら」
七都は呟く。
自分の発したそのセリフで、ようやく体の呪縛が解けたようだった。
深く呼吸をした七都は、まだ石のような重さの残る体を無理やり動かし、シャルディンの冷えた唇に自分の唇を重ねた。
シャルディンが小さなうめき声のようなものを上げたが、すぐにそれは七都との長い口づけによって、断ち切られる。
それは、味わったことのない感覚だった。
カトゥースや蝶の比ではない。それらを何百、何千と集めたって、勝ち目はない。
それくらいの、甘美で心地よい感触のもの。
それがすぐそこ――シャルディンの内部、七都の舌が触れるくらいのところを流れていた。
耳をそばだててみれば、きっとその音さえ聞こえそうな流れ。
そのものの命を保ち、永らえ、細胞の隅々にまで行き渡っていく、輝くようなあたたかい流れ。
七都がそっと口を開くだけで、その流れの向きが静かに変わった。
津波が押し寄せるように、それは七都の口の中に流れ込む。
(もうやめなきゃ。一口だけなんだもの……。やめなきゃ……!)
七都は頭の中で叫んだが、七都の唇は、七都の命令を無視した。
あまりにも甘美な味だった。
元の世界で食べたどのスイーツよりも、料理よりも、美味だった。
七都は貪るように、その極上品に被りつく。
それが舌の上で転がると、ハッカのような心地よい刺激が加わった。
その甘いあたたかい流れは、七都の体を静かに、ゆったりと満たしていく。
流れが体全体に広がるのと同時に、エネルギーも増加するのが手に取るようにわかる。
自分の体が美しい光に包まれている。光を発して輝いている。まるでそんな錯覚に陥ってしまう。
ぞっとするような快感だった。
魔神族にエディシルを食べられるものは、快感を得る。
けれども、食べる側の魔神族もやはり、感じるのだ。
それは、他の命を自分の糧に変化させる喜び。魔神族なりの、命に対する賛辞、慈しみ。
シャルディンの体が、びくりと震えた。
同時に、イデュアルがくれた銀の竜の指輪が熱を帯びたようになって、七都の指を刺激する。
七都は、はっと我に返り、自分の唇をシャルディンから引き剥がした。
七都の下には、さらに顔が白くなったシャルディンが横たわっていた。
目を閉じ、微動だにしない。
「シャルディン! ごめんなさい。だいじょうぶ?」
七都は、彼に訊ねた。
けれども、彼の目も唇も、ぴくりとも動かなかった。
「あーあ。やっちゃった。一口だけって言ってたのに。やっぱり止まらなくなったじゃないか」
ナチグロ=ロビンが、あきれたように言う。
「シャルディン……シャルディン。目を開けて……」
七都は彼の手にさわってみたが、その手はさらに冷たく、硬くなっていた。
「シャルディン……」
彼の白い顔に、ぽたぽたと透明な液体が落ちる。
長い銀色の睫毛が動き、苺ジャム色の目が現れた。
その目は、七都のくしゃくしゃの泣き顔を見上げて、笑ったようだった。
「生きてますよ、ナナトさま」
彼がささやくように、そして七都を安心させるように、やさしく呟いた。
それから彼は、叱るように七都に言う。
「あなたに軽くエディシルを食べられたからといって、死ぬわけないでしょう。何ですか、そのお顔は?」
「だって。あなたはその前に、ルーアンにもロビンにも食べられたじゃない」
「そうでしたね……」
シャルディンが、のんびりと微笑んだ。
「ナナトさま、別に泣かれる必要はありませんよ。あなたはご自分で、ご自分の欲望を制御された。初めてなのに、よくおやりになったと思います」
「そ。花丸をあげたいくらいだ」
とナチグロ=ロビンが、七都の後ろで、小さく手をたたく真似をした。
「それはあなたが動いてくれたおかげだし、指輪のおかげだ。でも、一口じゃ済まなかった……。わたしはそれが情けない。自己嫌悪になってしまう」
「三口くらいでしたかね。でも、大丈夫ですよ。それくらいで弱る私ではありません」
「弱ってるように見えるんだけど」
「気のせいですよ」
「気のせいじゃないと思う」
「いえ、怪我が治ったばかりのあなたの感覚が、まだおかしいのです」
「おかしくないよ。どうひいき目に見ても、弱ってるもん」
「弱ってませんって」
「弱ってるよ」
「漫才かよ。もとい、じゃれ合いかよ」
ナチグロ=ロビンが、あきれ顔で呟いた。
「これで私は、あなたのアヌヴィム。胸を張って、そう言えます。私と出会う魔神族は、全員私にあなたの存在を感じ取るでしょう」
「そう? なら、嬉しいんだけど……」
「七都さん。そのアヌヴィムを休ませてあげたら? 相当弱ってるからさ」
ナチグロ=ロビンが口を出した。
「やっぱり弱ってるんじゃない。……シャルディン?」
七都は、再び固く目を閉じて喋らなくなったシャルディンを睨んだ。
それから振り向いて、ナチグロ=ロビンに言う。
「侍従長。サリアに、シャルディンの部屋を用意するように言ってもらってもいい? できれば、わたしの部屋の近くがいいな」
「七都さんの部屋の近く? 王族のためのりっぱな部屋しかないけど。あとは、せまっちい侍女の部屋になるな」
「りっぱな部屋でもいいじゃない。どうせ誰も使ってないんだから。それでね、侍従長、シャルディンをその部屋に運んでくれる? それから、アヌヴィムの世話係に言って、うんとご馳走を作ってもらって。あと、彼に似合いそうな服も、サリアに用意してもらってね。言わなくても、彼女、たぶん全部手配してくれると思うけど」
「了解、姫君」
ナチグロ=ロビンが、大げさな仕草で片手を耳の上まで上げる。
七都は、目をごしごしとこすった。
頬を塗らしていた涙は、たちまち跡形もなく乾いてしまう。
「シャルディン、ゆっくり休んで、いっぱいご馳走食べてね」
目を閉じたシャルディンの唇の両端が、少しだけ上がった。
もう七都にお礼を言う気力も残ってはいないようだった。
「じゃあね、おやすみ、シャルディン」
七都は、シャルディンの額にそっと唇をつけた。
それから、彼の背中に両手を回し、彼の体をぎゅうっと強く抱きしめる。
「ありがとう、シャルディン。ここまでわざわざ来てくれて。ご苦労様でした。本当は、家族と一緒にいたいだろうに。一緒にいなきゃいけないのに……。とても嬉しいよ……」
安堵したように、シャルディンの顔が穏やかになる。深い眠りに引き込まれたようだった。
彼のごく軽い寝息を確認して、七都は、立ち上がる。
「シャルディンのエディシル……。ロールケーキなんかより、もっともっとおいしかったの……。比較になんかならない」
七都がうつむいたまま呟くと、ナチグロ=ロビンは茶化すことなく、真面目な大人の顔をして、頷いた。
「侍従長。これから、カーラジルトに会いに行ってくる。彼……アールズロア伯爵も、この都に戻って来ているのだから」
「七都さん、ひとりで行けるの?」
ナチグロ=ロビンが訊ねる。
「もちろん!」
七都の姿は、廊下から消え去った。




