第6章 招かれざる客人 13
七都の元から立ち去ったシルヴェリス――ナイジェルは、ふと振り返って、眉を寄せた。
花畑に横たわる七都。白いドレスを抱きしめている、その美しい陶器のような裸体のすぐそばに、透明な人の影のようなものが見える。
その影は、じっと七都を見つめていた。その場所に縛られ、そこを訪れる者を惑わす幽霊のように。
それは、ナイジェル自身を写したような人物だった。
銀色の髪、水色の目。顔立ちも体型も、何と自分に似ていることか。
そのことに気づいて、ナイジェルは愕然とする。
総毛立つような畏怖の感情。その容姿から、決して自分とは無関係な者であるはずのないことが推察される、その気持ちの悪さ。
けれどもすぐに彼は、七都から聞かされた一連の話の中から、その人物に関する情報を思い出した。
そして、蜘蛛の巣のようにまとわりついた不快な感覚を一掃する。
(ユウリス? あなたが……?)
その人物――七都に扉の番人だと名乗った若者は、ナイジェルを見て、にっと笑う。
彼が、なぜ七都のそばにいるのか。
疑問と不信感をナイジェルは抱いたが、ユウリスはその時、僅かに顔をしかめ、機嫌を損ねたように姿を消した。
七都に近づいて行く者がいる。
青年になったナチグロ=ロビンだった。
ナイジェルはナチグロ=ロビンの姿を認めて安堵した。
七都のところに戻るのは止め、彼は風の城に向き直る。
けれども彼の眼前に、再び透明な人物が浮かんでいた。
それは、今消えた自分によく似た若者ではなく、少女だった。七都にそっくりの。
ただ、七都よりも幼く、髪の色と目の色は全く違っていた。それらは、透き通るような銀色だったのだ。
「あなたは……ミウゼリル? ナナトの母上か?」
ナイジェルが訊ねると、少女はこくんと頷いた。
それから彼女は、銀色の瞳でナイジェルを睨む。
「シルヴェリス。はらはらさせないで。ナナトはまだ、無垢で純真な娘なのですよ」
幾分非難めいた口調で、少女が言う。
ナイジェルは、微笑んだ。そして、軽く会釈する。
「いたずらが過ぎましたか。心配させて申し訳ない」
「本当の自分を知ってほしいというあなたの気持ちは、よくわかりますよ。でも、やりすぎです。あなたらしくない」
「ぼくらしくない……ですか」
「あなたは、ご自分を卑下することはないのです。ご自身にもっと自信をお持ちになってもよいのです。ナナトはあなたのことをわかっていると思いますよ。本当のあなたを」
「ナナトもあなたも、ぼくを買いかぶっているのですよ」
ミウゼリルは、首を振る。
「いいえ。あなたの強い心、揺るぎない意思は、魔神族の中では貴重です。ナナトもそれを信頼し、頼もしく思っているのでしょう」
「あなたは、ナナトとぼくが親しくなることを許してくださるのですか? それは、とても心強い。あなたはナナトの話によると、時の魔王アストゥールのところにおられるそうですね。では、ぼくはあなたの本体に会えるわけだ」
「会いに来てください、シルヴェリス。他の魔王たちとともに。エルフルドやジエルフォートたちも一緒に」
ミウゼリルが言った。
「しかし、ナナトにはあなたは見えないのですね。あなたはいつもそばにいるのに?」
「あなたに通訳をお願いしようかしら?」
ミウゼリルは、笑った。
「ナナトがリュシフィンになれば、彼女はいつでもあなたに会えるのですね。ならばぼくは、彼女がリュシフィンになるように計らうべきですか?」
「いいえ。決めるのは、あの子。あなたも、あの子にそうおっしゃったではないですか。あなたはただ、静かにあの子を見守ってやってくださればいい」
「寂しくはないのですか?」
ナイジェルが訊ねると、ミウゼリルの表情は、たちまち翳った。
「もちろん、寂しいですよ。あの子を置いてくることが、どれだけつらいことだったか……。あの子の隣に立っても、気づいてももらえないことが、どれだけせつないことか。でも、それも覚悟したことですから。お気遣いなく」
「そうですか……。しかし、あなたがいつも近くにおられたら、ぼくはナナトに迫れませんね?」
「あら、私は邪魔も口出しもしませんわ。どうぞ、恋はご自由に。でも、七都を泣かすようなことはおやめくださいね」
「きょうは、少し泣かせてしまいました」
「だから、やりすぎだと言ったでしょう」
ミウゼリルは、再び軽くナイジェルを睨む。
「でも、ナナトの泣き顔も涙も好きですね。ますます気に入りました。しかし、あなたは何者なのです、ミウゼリル? なぜアストゥールのところに? 時の都に行けば、わかりますか?」
「ええ。お待ちしておりますわ、シルヴェリス」
ミウゼリルは微笑み、彼女もまた幻のように、ナイジェルの前から姿を消した。
「つまり、あれですよ、姫君。あなたの生まれ育った世界でもよく行われていることです」
ナチグロ=ロビンが、再び丁寧な口調に戻って、七都に言った。
「よく行われていること? 元の世界で?」
「人間でもあるかな。動物……ペットではよくありますね。犬や猫」
「犬? 猫?」
「あなたの家の近所の獣医さんが、金曜の午後とかに予約を取ってやってることですよ」
「金曜の午後って?」
「さっき、あなたもおっしゃいましたけど。そのような言葉を」
ナチグロ=ロビンが、少しいらついたように言った。七都のドレスを整える手が、少し乱暴になる。
「あ……」
七都は、思わず口を押さえた。
「ヒニン……? 避妊手術!?」
「ピンポーン」
彼は、本来なら明るいその擬音語を、抑揚のない暗いメロディーで皮肉っぽく口にした。
「そうですよ。やっとわかっていただけたようだ」
それからナチグロ=ロビンは、七都の乱れた髪を手ぐしで撫でつける。
七都は、彼に髪を撫でられながら、黙り込んだ。
それから迷ったあげく、思いきって訊ねてみる。
「じゃあ……じゃあ、あなたは避妊手術をしてるってこと……?」
「『去勢』ってやつですね。オスですから。従って、生殖能力はありません。異性と交わることもありませんし、子孫を残すこともありません」
ナチグロ=ロビンは、淡々と説明した。
「だから……なの? カーラジルトのように、あなたがルーアンににらまれないわけ。あなたがお母さんのそばにいられたわけ……」
「やめてくださいね。そういう気の毒そうなお顔をされるのは」
ナチグロ=ロビンが、じろりと七都を横目で見下ろした。
大人の姿をしていても、その目つきは少年の時と一緒だった。
「ご、ごめんなさい。気を悪くしたのなら、あやまる。だって……。どういう態度取っていいかわからない……」
七都が呟くと、ナチグロ=ロビンは、微笑んだ。
「正直ですね。相変わらず姫君は。でも、今までの通りでいいのですよ。特に変わった反応は望みませんから」
「うん……。でも……あなたがそういうふうになっちゃったのは、グリアモスだからなのでしょう? それ、ひどいと思う」
「そうですね。主人を持つグリアモスの多くは、そういう処置をされます。でないと、とんでもないことになりますからね。グリアモスが発情したら、魔貴族の比じゃありませんから。収めるのに、屋敷が一つ二つは粉々になります。でも、グリアモスじゃなくてもそういうことをする魔神族もいますけどね。もう子孫を作ってしまって、その必要がなくなった人とか。やっかいな本能的しがらみから解き放たれて、人生をより楽しむために」
「だけど、だからといって、そんな……」
「それが魔神族の知恵であり、慣習です。あなたが生まれ育った世界の人間たちも、犬や猫に同じ事をしているではないですか。それは飼う側の都合でしょう。とはいえ、犬や猫だって、発情期のストレスから開放されるし、長生きができる。両者ともに、得るものがある」
「そりゃそうかもしれないけど……」
「魔神族も人間も、生殖能力に左右されて生活しています。日々の判断も、好みも、感情も。私はそういうものから開放されたのです。あなたがたには出来ない冷静な判断も出来ます。そういうものに気分や感情を支配されることもない。そして魔神族には、そういうものとは無縁の者も必要なのですよ」
「確かに……。必要だと思うけど。みんな発情しちゃったら、収拾がつかなくなるよね……」
「そういうことです。よくおわかりですね。さ、出来ましたよ」
ナチグロ=ロビンは、軽くお辞儀をした。
「ありがとう、侍従長。それから……ごめんなさい」
「え?」とナチグロ=ロビンが、猫の時のように首を斜めに傾げる。
「前に、あなたが女の子を抱きしめたことがないってこと、少しおちょくってしまったけど……。そんな事情があったんだよね。仕方がないよね……」
「ああ、別に気にされることもないですよ。それはそういう事情というより、私の性格の問題ですし……」
「性格か。ふうん。そういうことなら」
七都は、にっと笑って、いきなりナチグロ=ロビンに飛びついた。
そして、彼の背中に手を回し、ぎゅうっと力を込めて抱きしめる。
「七都さま!?」
ナチグロ=ロビンは狼狽して、抱きついてきた七都を見下ろした。
取り合えず彼は、素早く両手を宙に上げる。まるで、満員電車の中で、痴漢疑惑から逃れるために両手を上げている若いサラリーマンのようだった。
「やめてよ、『さま』だなんて。他人行儀で堅っ苦しいったら。エルフルドさま、もといアーデリーズの気持ち、わかるなあ……」
「姫君こそ、おやめください。グリアモスにそういう行為をされてはなりません。こんなところを公爵さまに見られたら……」
「ルーアンに嫉妬される? あきれられるだけだよ。迫ったのはわたしなんだし。ってか、じゃれてるだけなんだし」
七都は、ますます彼を抱きしめる手に力を入れた。ナチグロ=ロビンは、ますます天に突き上げる手を高くする。
「それにナチグロ、『公爵さま』だなんて。笑っちゃう、いつも『ルーアン』って呼び捨てにしてるじゃない」
「それが公爵さまのご希望だからです。そういうキャラクター像が。大人には大人としての教養や常識が求められます。この姿で少年のときのままの言動では困るのです」
ナチグロ=ロビンが言った。
「なんだ、おもしろくないな。ああいうあなたも個性だって、カーラジルトは言ってたのに。オトナになったら、個性はなくなっちゃうの?」
「オトナとしての個性が備わります」
「じゃあ、侍従長。備わった個性で私を抱きしめてみて。いい機会だよ。それに、少年の時のあなたより背が高いから、女の子を抱きしめやすいと思うし」
「お断りします」
ナチグロ=ロビンが、きっぱりと言う。
七都は、彼の薄い苔色で覆われた金の目を見上げて、溜め息をついた。
確かに、七都が知っているナチグロ=ロビンの目つきは残ってはいるものの、青年の姿になって色が変わったせいか、その目自体は、前よりもはるかに年老いてしまったような気がする。
「丁寧になっただけで、口にするセリフは変わっていないんだから」
七都は、口を尖らせた。
「当然です」と、冷ややかにナチグロ=ロビン。
「それ、かなり傷つくから。じゃあ、やっぱり、わたしが抱きしめてあげる」
七都はナチグロ=ロビンの背中に両手を回し、彼の胸に顔をうずめた。
ナチグロ=ロビンは、七都の肩に手を乗せ、やんわりと自分から引き離す。
「七都さま。抱きしめるよりも、私はあなたにひざまずいて、あやまらなければなりません。あのキャラではあやまりにくいものがあるので、この姿でいるこの機会に」
彼は言って、七都の前に丁寧に膝をつき、頭を垂れる。
「どうかお許しを、七都さま」
「なんで? そんなに改めてあやまられても。何かされたっけ?」
七都は戸惑って、ナチグロ=ロビンの艶やかな頭のてっぺんを見下ろした。
「私は、あなたを置き去りにしてしまいました。あの時、あのドアの前で」
彼が言う。
「なんだ、そのことか。いいよ。そりゃあムカついたし、散々な目にあったけど。理由もわかったしね。もうとうに水に流してるよ」
「いいえ。わたしはきちんと謝っておりませんでしたから。どうかお許しを。立場もわきまえず、出すぎた真似をして申し訳ございません。それに私は、シルヴェリスさまにあなたのことを託されていたというのに……。私は水の魔王さまのご期待に添うどころか、裏切るようなことをしてしまいました。あなたが無事にここに到着されて、本当によかった……。もしかしたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれないのです」
「いいってば。侍従長。立って」
七都はナチグロ=ロビンの手を取って、無理やり立たせた。
「あなたもずっと心配してくれてたんでしょう? 寝言にわたしの名前を呟くくらいだものね。そういえば、あなたにデコピンするの忘れてたな。まあ、もうする気もなくなったけどね」
「え?」とナチグロ=ロビンが首をかしげる。
「ね、ロビーディアン。これからもわたしのそばにいてくれる?」
七都が訊ねると、ナチグロ=ロビンは胸を張って答える。
「もちろんです」
「ありがとう、侍従長!」
「七都さま。私は、正式な侍従長では……」
「もういい加減認めようよ、侍従長! 私が決めたから、正式な侍従長! ねっ!」
「は……はあ……」
七都は、再びナチグロ=ロビンに抱きついた。
今回は、彼は両手を天に突き上げなかったが、それでも踊るゾンビのように、中途半端に宙に浮かしていたのだった。




