第6章 招かれざる客人 9
七都とナイジェルは、透明な水をたたえた池のほとりで立ち止まる。
そこには石の橋が渡してあった。
橋にも蔦のような植物が絡まり、鮮やかな黄色の花が、こぼれるように咲き誇っていた。
ナイジェルは七都に、機械の手を差し出す。
ラベンダー色の空と太陽を映した銀の手は、とても美しかった。
ジエルフォートが持っていたサンプル品よりも精巧で、作りこまれている。機械というより、芸術作品のようだった。
七都は、その手を両手で握りしめた。
「あなたの右腕、とても素敵だよ。エルフルドさまとジエルフォートさま、最高!」
「あの二人は、素晴らしいね。それぞれ自分たちのやりたいこと、得意なことを見つけて、それを極めている。ぼくも何か見つけなきゃ、と思う」
ナイジェルが言った。
「うん。同じく……。わたしも見つけたい」
「魔王同士でも、ああいう愛の形もあるんだね」
「きっとあの二人は、素敵な家庭を作るよ。結婚なんてしなくてもね」
七都は、ナイジェルの機械の指の間に、自分の指をそっとすべりこませた。
そのまま二人は、橋を渡る。
池の中には、たくさんの魚の影が見えた。
時折水面近くで、金や銀の背びれが、きらりと光る。
(わたし、今、ナイジェルと手をつないで歩いてる……)
そう思うと、また七都の口元はほころんでくる。
男の子と手をつなぐのも、七都は初めてだった。
幼稚園の頃に、隣の桃組の名前も忘れてしまった男の子と手をつないだこと、そして、体育祭のフォークダンスのときを除いては、だが。
デート自体初めてなのだから、そこですることは、必然的に全部初めてのことになる。
七都は、頬を赤らめた。
結局、ナイジェルのプロポーズを断ってしまったことになるけど……。
気を悪くしてないかな……。
七都は、ちょっぴり不安になる。
だけど、考えてみればナイジェルって、わたしに「好き」って言わせといて、自分は言ってないよね。
ちょっとずるいよ。ちゃんと言ってほしいんだけど。
でも、プロポーズしてくれたわけだから、聞かなくてもいいかな。だけど、やっぱり言ってほしい……。
少し不満でせつなく、それでも甘く幸せな気持ちが、胸を突っつきながら、ぐるぐると複雑に回り続ける。
「この手は、ちゃんと動く?」
先程のモニターに映った機械魚との戦い方を見れば、訊ねるまでもないことだったが、七都は話題の一つとして、一応ナイジェルに言ってみる。
「もう不自由はないよ。やりたいことはやれる。力加減はまだ慣れないけどね」
(だから、こんなにそっと握ってくれてるんだ……)
ナイジェルの機械の手は、頼りないくらいの弱々しさで、七都の手を握っていた。
力を込めると七都の手を傷つけてしまうかもしれない。
そういう怖れの混じった気遣いなのだろう。
橋を渡り終えると、白い花の絨毯が現れた。
一つ一つは小さなぼんぼりのような地味な花が、たくさん集まって、広大な花畑を作っている。
七都は、そこでもまた、その花畑の見事さに嬉しくなった。
透明な蝶が、絨毯の上をひらひらと舞う。
「本当は、ここに来るのを迷ったよ。側近たちは反対した。前のシルヴェリスがここで命を落としているからね」
ナイジェルが言った。
「うん……。そうだったよね……」
それは、エヴァンレットの仕業。
自分を失って暴走したリュシフィンに、他の魔王たちが巻き込まれた。そのひとりが水の魔王シルヴェリスだったのだ。
七都は、うなだれる。
「キディアスは賛成してくれたよ。行くべきだって。行って、君に会うべきだってね」
「キディアスなら言いそうだね。一緒についてきそうかも」
「ついて来たがったよ。たぶんそのつもりだったんだろうね。いくら彼でも、ぼくひとりをここにはやりたくなかっただろうから。でも、ぼくは抜け駆けして、ひとりで来た。非公式に来て、きみに会いたかったんだ。正式に申し入れたら、大ごとになる」
「だからエルフルドさまとジエルフォートさまは、お忍びで会うんだよね。わたしも、堅苦しいことは苦手だよ。だけど、キディアス、怒ってるんじゃない? 置いて行かれて」
「怒ってるだろうね」
ナイジェルは笑った。そして、ラベンダー色の空を指差す。
「この天蓋が魔神族を太陽から守ってくれているんだ。だから、ぼくはここに立っていられる。もしあれが壊れたら、ぼくは一瞬で溶けてしまう。この失った腕のように。そして、先代のシルヴェリスのように」
ナイジェルは言って、機械の腕をちらりと見下ろした。
「何て不安定で、繊細でやっかいで頼りない体なんだろうね。魔王といえども、そのざまだ。陽だまりに出たら、もう終わり。ひとたまりもない。残るのは、この銀色の機械の腕だけだ。それが、ぼくが存在したことの唯一の証しとなる……」
「やめて、そういうこと言うの」
七都は、眉を寄せた。
鎧と剣だけを残して消えてしまったメーベルルのことを思い出してしまう。
「でも、あなたは溶けずに生きててくれたじゃない。失ったのが腕だけでよかった。不安定で頼りないから、よけいにあなたの体はいとおしく思える」
七都は、ナイジェルの生身のほうの手を取って、握りしめる。
それはやはりひんやりとした魔神族の体温だったが、確かな存在感と力強さで、七都の手を握り返した。
「ぼくは、きみの体がうらやましいよ」
ナイジェルが呟く。
「この間も、そう言ってたね。わたしは、エルフルドさまの体がうらやましい」
「贅沢だよ。太陽に平気なだけでも、驚異的なことなのに」
「ごめんなさい。エルフルドさまはエルフルドさまで、悩んでるものね……」
ナイジェルは立ち止まり、七都を見下ろした。
あれ。近い。とても近い。
いつの間にか、こんなに接近してたんだ。
手をつないでるわけだから、接近して当たり前なんだけど……。
七都は、どきりとして、至近距離から彼を見上げた。
「きみはこの間、ぼくに口づけをくれたね、風の姫君。あんな状態のぼくに」
ナイジェルが言う。
あの遺跡の地下で、目が真っ黒になって横たわるナイジェルに、七都はカトゥースを口に含んで飲ませた。
そのことを言っているのだと、七都はすぐに理解する。
「あ、あれは口づけじゃなくて……。とにかくあなたにカトゥースを飲ませたかったんだけど。でも、ナイジェル、覚えてるの? てっきり意識がないんだとばかり……」
「もちろん、覚えてるよ。あれは、ぼくにとっては口づけだよ。まったく、何て危ないことをするんだろうね。ぼくは自分を抑えるのに必死だった。一歩間違えば、きみの命を奪うくらいに、きみのエディシルを貪っていたかもしれない」
「でも、あなたは自分を抑えきった。あなたの意思の強さには、ゼフィーアもびっくりしてたよ」
「ああ、あのアヌヴィムの魔女か。彼女もまた、危ないことをしたものだね」
「あなたはやっぱり、すごいと思うよ。尊敬してしまう」
「尊敬……か」
ナイジェルは、思いつめたように呟いた。
じゃあ、やっぱり、わたしのファーストキスは、ナイジェルってことになるのかな。
でも、目的はカトゥースを飲ませることで、キスじゃないんだもの。
やっぱりやっぱり、ユード。ううん、結局シャルディンってことにしたんだっけ……。
突然、ふわりと体が浮いた。
(あれ?)
ナイジェルの顔がすぐそばにあり、透明な目が七都を見つめていた。さっきよりも、さらに近くから。
(え? お姫さまだっこ?)
七都は、ナイジェルに抱きかかえられていた。
肩の下に彼の機械の腕、膝の下に生身の腕を感じる。
「やっぱり、本物のきみだ。ちゃんとさわれるし、こうやって抱き上げることも出来る。それから、もちろん、こういうことも!」
ナイジェルが七都を抱きかかえたまま、ぐるぐる回った。
白い花畑が七都の周りで勢いよく回転する。風がびゅんびゅんと耳元で音をたてた。
「やめてよ、ナイジェル! 目が回る!!」
七都は、ナイジェルにしがみついた。
こういうの、じゃれあってるって言うんだよね。
誰かが外から見たら、あきれ果てるかも。
もしかして、ルーアン、わたしたちのこと、ずっと見てたりする?
七都は、ナイジェルの背中越しに回転する風の城を眺めてみたが、その窓の一つにルーアンがいるかどうかはわからなかった。
もう、ナイジェルったら……。わたし、遊園地の乗り物、苦手なんだからね。
でも、嬉しい。
あなたにお姫さまだっこ、またしてもらえるなんて。
この間は、もうこんなことない、なんてちょっと感傷的になって、あなたにしがみついていたのに……。
「まったく、きみは……」
ナイジェルは七都を回すのをやめ、七都の顔をじっと眺めた。
真面目な顔だった。微笑みは消えている。真剣な眼差しが七都のそばにあった。
「光の都に来るな、だって? あんな体をぼくに見せておきながら、よくそんなことが言えたものだ。どれだけ心配したと思ってるんだ?」
ナイジェルが言う。
ナイジェル、もしかして、怒ってる?
幽体離脱してあなたの部屋に行ったとき、来ないでって言ってしまったこと……。
あなたは、わたしに会いに行くって言ってくれたのに。
「ごめんなさい。だって……あなたに見せたくなかったんだもの。あんな状態の体を」
「気持ちは、わからないでもないけど。でも、ぼくは行きたかったよ、きみのいるところに。キディによると、グリアモスにつけられた傷は、完全に治ったんだって?」
「うん。ジエルフォートさまのおかげ。跡形すらないよ」
「それはよかった……」
怒ってるんじゃなくて、あきれてたのかな。
でも、やっぱりちょっと怒ってたのかもしれない。
心配してくれてたんだ。当たり前だよね。ナイジェル、本当にごめんなさい……。
七都は反省したが、同時に嬉しかった。
彼もまた、自分のことを心配して、気にかけてくれている。
心がじんわりとあたたかくなる。
ナイジェルは、七都を抱き上げたまま、突っ立っていた。
風が彼のマントをひらめかせ、七都のドレスの裾も、ふわふわと揺れる。
(ナイジェル……何か考え事? この花畑をこうやって抱えて、横切って行ってくれるのかな)
七都がのんびりと思ったとき、七都の体は、ナイジェルによって、その花畑の中に急降下で沈められた。
いきなり七都の体は白い花の群れで包まれ、たくさんの花びらや茎が、頬や腕に触れた。
顔のとても近いところで、花の甘い香りがきつく漂う。
「ナイジェルっ!?」
七都は驚いて、自分を真っ直ぐ見下ろしているナイジェルを見つめる。
ナイジェルは、ほとんど七都を押さえつけるような格好で、七都の体に接していた。
え?
この体勢って、ちょっとまずくない?