第4章 エヴァンレットの秘密 13
テルレージアは、真っ直ぐ階段を見つめながら、引き寄せられるように、石の床をよろよろと歩く。
「おばあさまっ! だめ! そっちへ行っちゃだめ!!」
七都は叫んだ。
ユウリスが七都を制止するために手を伸ばしたが、七都はその手を突き抜けて、二人の少女のところへ飛び出していた。
あきれたように、ユウリスが溜め息をつく。
そうだ。二人のところへ行ったとしても、止められない。彼女たちの体を通り抜けてしまうだけだ。彼女たちは、過去の残像なのだから。
そしてやはり、七都は祖母の体に重なってしまった。
テルレージアの腕が目の前にあり、それを透かして自分の手が見える。
(おばあさま……)
不思議な気分だった。
甘く、切なく、懐かしいような。
本当なら会えるはずのない祖母と、今、接触している。
たとえそれが、偶然にこの空間に刻まれた映像であっても。
けれども、その気分に浸っている暇はなかった。
エヴァンレットが、七都、いやテルレージアに近づいてくる。
その姿は、愛らしく、幾分したたかに擦り寄ってくる子猫に、どことなく似ていた。
「来ないでっ!」
七都は、叫んだ。
エヴァンレットは、テルレージアの耳元に顔を寄せる。
ワインレッドの目。緑がかった黒い髪。昔の残像とはいえ、自分とよく似たその姿に、七都はぞくっと総毛立つ。
エヴァンレットの額には、ユウリスと同じような冠のあとがあった。
けれども、ユウリスのものよりもはるかに淡く、ほとんど見えないくらいのものだ。
「降りてみる? 降りるなら、私も一緒に連れて行って」
エヴァンレットが呟いた。
七都は、思わずエヴァンレットの顔を見つめる。
微笑みが浮かんだ、けれども、とても悲しそうで寂しげな彼女の顔。
きっと彼女は泣いているのだ。この顔の裏側で。
流せない涙をどこかに閉じ込めたまま、ずっとずっと泣いているのだ。
彼女の顔を間近で眺めていると、七都の胸はきりきりと痛んだ。
「人間のお姫さま。お供がいれば、何も怖くないでしょう。あなたが消えるとき、私もあなたと一緒に消えるわ。それでおしまい。悲しいこと、いやなことは全部ここに残して、身軽になって、二人で下に降りましょう」
エヴァンレットは、テルレージアにささやいた。
「エヴァンレット……」
さまよう彼女の心は、苦しんでいる。救いを求めている。
その救いとは……消えてしまうこと?
ゆらり、と テルレージアが階段に引き寄せられた。
「だめ! おばあさま、だめ!」
そのとき、誰かの影が、七都と――七都が重なっているテルレージアのすぐ横に現れた。
テルレージアはその影に気づいて、夢から醒めたように、はっと身を固くする。
そこには、いつものように眉をひそめたルーアンが立っていた。
「ルーアン!」
七都は叫んだが、ルーアンは七都には目を向けなかった。そして、エヴァンレットにも。
彼は、テルレージアだけを見ていた。七都もエヴァンレットも、彼には見えてはいないのだ。
そこに現れたルーアンは、先程七都が庭園で見かけたルーアンとは違う衣装を着ていた。
ゆったりとしたトーガのようなものではなく、胴着に黒いマントという、きちっとした服装。
髪の長さも、いつものルーアンよりも短めだった。
そうか。このルーアンも、過去の残像なんだ。
エヴァンレットやおばあさまと同じ……。
七都は、悟る。
エヴァンレットは突っ立ったまま、彼女の弟を眺めていた。
七都も彼女の隣で、二人を観察する。
何も見えないユウリスは、相変わらず七都をじっと見つめていた。
「またこのようなところにおられたのですか」
ルーアンが、テルレージアに向かって言った。
「戻りましょう、魔王さまのところへ」
そしてルーアンは、少しためらいがちに、その言葉のあとに付け加える。「王妃さま」と。
「いや!」
テルレージアが叫んだ。
「私にさわらないで!」
「あなたに触れられるのは、風の魔王さまだけです」
ルーアンが言う。
うつむき加減のその顔に、チャコールグレーの髪が、風ではらりと被さった。
「あなたもリュシフィンも大嫌い!」
テルレージアが叫んだ。
ぼんやりしていたその目は、暗黒の炎が宿ったように輝き、ルーアンを真っ直ぐ見据えていた。
「もう、私のことは放っておいて。一人にしておいて」
「では、せめてお部屋にお戻りください。ここは風が冷たい。お体に障ります」
テルレージアは、両手で顔を覆った。そして、小さく呟く。
「今、ここに誰かいたわ」
ルーアンは、注意深く周囲を見渡した。
その目は、エヴァンレットも七都も捉えることなく、一周してテルレージアに戻る。
「誰もいませんが……」
「いたの。女の子が。赤い目で緑の髪の女の子……」
ルーアンの顔が引きつった。
「戻りましょう。こんなところにいてはいけません」
「戻るわ。自分で。あなたの指図は受けない」
テルレージアの姿が、消えた。
七都は唖然としたまま、彼女が消えたその場所を見つめた。
瞬間移動?
おばあさま、人間なのに魔力が使えるの?
アヌヴィムの魔法使いでもないのに?
エヴァンレットが、ルーアンに手を伸ばす。
そのまま彼女は、ルーアンに両手を絡めた。
もちろん、実際にはそんなことは出来ないので、彼女はそういう真似をしただけに違いない。
ルーアンは眉を寄せたまま、テラスを眺めた。
彼には、エヴァンレットも七都も見えない。
風が吹き渡る殺風景なテラスしか見えていないのだ。
それでも、ルーアンは呟いた。見当はずれの場所を見つめながら。
「エヴァンレット? そこにいるのですか?」
「いるわ。ここよ。ルーアン、私の体は消えてしまった? なら、私のこの心も一緒に消してくれたらよかったのに。あの剣で、一緒に……。ルーアン、恨むわ……」
エヴァンレットが、ルーアンの耳元で呟く。
「でも、あなたはリュシフィンになってはいないのね……。それは、私のせい?」
七都にはルーアンが、白い顔をした亡霊の少女に取り憑かれている、古代の病んだ若き王のように見えた。
「ナナト!!」
誰かがとても近いところで、七都の名を叫んだ。
七都は思わず振り返ろうとしたが、その前に後ろから強く抱きすくめられる。
「ルーアン……?」
ルーアンの眼差しが、七都のすぐ上にあった。
ワインレッドの透明な目。
チャコールグレーの彼の長い髪が、七都の顔の上にふわりとかかる。
過去の残像ではなく、現実の、今の時間を生きている本物のルーアンだった。
七都は、彼の腕の中にしっかりと収まっていた。
「こんなところでふらふらしていては、危ないですよ。落ちたらどうするんです!」
ルーアンが言った。
その真剣な表情は、先程の彼と同じだった。テルレージアに向けた、彼の表情と。
「また何か夢を見ていたのですか?」
テラスには、過去のルーアンも、エヴァンレットも、もういなかった。
ユウリスの姿もない。本当は彼はそこにいるのかもしれなかったが、目が覚めた七都には、もう見えなかった。
「だいじょうぶだよ、ルーアン。だってわたし、魔力が使えるもの。ここから落ちたって、下にゆっくり着地出来るし、瞬間移動だって出来るんだから」
ルーアンは、七都に回していた腕の力を緩めた。
「そう……でしたね。あなたは魔神族の女性でしたね」
ルーアンが、思い出したように呟いた。
七都は、自分の目の前にあった彼の腕を両手で抱くようにしてつかんだ。
そうしないと、たちまち彼は、その姿勢を崩してしまう。七都に回した腕をほどいてしまうに違いなかった。
七都は、出来るだけ長い間、彼の腕の中にいたかった。
この感覚は何なのだろう。
セレウスに抱きしめられたとき、ユードに抱きしめられたときとは違う、不思議な感覚。
あたたかくて、安心出来て……。
そして何よりも、彼の心がじんわりと伝わってくるような。
七都を大切に思っている。臣下や親戚としてではなく、たぶんそれ以外、それ以上のものとして……。
「ルーアン。昔……ここから誰かが落ちたの? それは、わたしのおばあさま?」
七都は訊ねたが、ルーアンは答えなかった。
彼が答えないであろうことは、何となく七都にはわかっていた。
たぶん、落ちたのだ。テルレージアは。祖母は。
今七都が見た残像の中では、ルーアンがその行動を止めた。
けれども、次にテルレージアがこのテラスに来たとき。あるいは、何回目か、何十回目かに、ここに来たとき。
もしかすると、自ら衝動的に飛び降りたのかもしれない。あるいは事故だったのかもしれない。
そのことに、またエヴァンレットが関わっていたのかどうかはわからない。
けれども、そのときはリュシフィンも一緒に落ちた。そして、お腹の中の子供も……。
七都がこの城の下で見た、あの恐ろしい残像のとおり、彼らは地上にぶつかって、一緒に分解した――。
あの子供は、誰だったのだろう。
お母さんのあとに生まれてくるはずだった子供? お母さんの弟か妹。
じゃあ、わたしの叔父さんか、叔母さんに当たる子供……?
「ルーアン。いつか話してくれるよね。その経緯……」
ルーアンが頷くのが、背後から伝わってくる。
彼にとっては、思い出すのもつらい記憶に違いなかった。
あの二人は、ルーアンの目の前で落ちたのかもしれないのだ。
彼の婚約者だった王妃テルレージアと、彼の主人である風の魔王リュシフィン……。
安易に話が聞けるなどと期待すること自体、愚かなことだろう。
七都は、ルーアンの腕をぎゅっと抱きしめた。
そして、目を閉じる。
「ルーアン。おばあさまと同じだ」
七都は、呟いた。
「え?」
ルーアンの体が、微かにびくりと震えた。
「なんか……うまく表現出来ないけど、不思議な感じ。あったかくて、懐かしくて。今ね、おばあさまの残像を見たの。ここに刻み付けられている、過去のシーン。おばあさまに重なったときも、似たような感覚があったよ」
「そうですか……」
ルーアンが言う。
どことなく感情を押し殺したような声だった。
「でも、それ、お父さんにもそういう感覚があったんだけど。この間会社でお父さんにしがみついたときにも、同じような感覚が……」
「ヒロトに? ヒロトと同じだと言われると、複雑な心境です」
「そう?」
「しかし、会社で父上にしがみついてはいけませんよ。社会的な立場というものがあります。ヒロトの年齢では、部下も多いでしょうし」
「うん。ちょっと反省してる」
七都は、くすっと笑った。
それから七都は、ルーアンの腕をしっかりと捕まえたまま体の向きを変え、彼を見上げる。
七都とルーアンは、恋人同士のように、抱き合う格好になった。
「おばあさまは……幸せじゃなかったんだね。ここに来て」
ルーアンは、黙り込んだまま、七都を静かに見つめた。
ワインレッドの透明な目が、暗く翳る。




