第4章 エヴァンレットの秘密 10
七都たちが部屋に帰ると、部屋の扉の前には、昨夜と同じように大量のカトゥースが置かれていた。
もちろん、蝶たちもセットで付いている。
ひらひらと幻想的に舞う蝶とカトゥースの花の束は、庭園の空間のかけらを切り取って、そこに移動させたかのようだった。
「ルーアンったら」
七都は、思わず微笑んだ。
ナチグロ=ロビンは、かなりめんどうそうに蝶付きのカトゥースを一瞬で中に入れてくれたが、それが終わると顔をごしごしとこすって、叫ぶように言う。
「眠い! もう我慢できないよ」
彼は七都のベッドに突進し、ごろりと横になった。
七都が追いかけて顔を覗きこんだときには、彼はもう熟睡していた。
「あのお……。ここ、わたしのベッドなんですけど」
七都が頬を突っついても、彼は起きなかった。
「まったく。侍従長が、お姫さまのベッドで寝てどうすんだよ」
七都はあきれて呟いたが、彼の寝顔を見て、顔がほころぶ。
無垢であどけない顔をして眠るナチグロ=ロビンは、天使のようだ。
艶々の黒髪には、本当に『天使の輪』が光っている。
「こうやっておとなしく寝ていると、かわいいんだよね。いつも生意気だけど」
七都は、彼の頭を撫でた。
「ごめんね。ルーアンとわたしがあんなことになったから、精神的にかなり参っちゃったんだよね。ゆっくり昼寝してね」
七都は、ナチグロ=ロビンにそっと毛布をかけた。
それから椅子に座って、ルーアンが用意してくれた蝶とカトゥースの花で、食事にする。
魚のゲームで体を動かしたこともあって、食事はあっという間に終わってしまった。
七都は窓のそばに立ち、庭園を眺める。
視線をそれほど動かさないうちに、すぐにルーアンが見つかった。
彼は、迷路を構成している木の刈り込みをしている。機械も魔力も使わぬ、地味な作業だった。
本当に、彼が庭にいると安心する……。
七都は、ルーアンを観察した。
母もこうして、ルーアンが庭にいるのを子供の頃から眺めていたのだろうか。いつか彼に抱きしめてもらうことに、淡く憧れながら。
ルーアンは、七都が窓から見ているのを知っているのかいないのか、黙々と作業を続けていた。
彼のそばには、相変わらずストーフィがくっついている。
銀の猫ロボットは、七都が遠くから控えめに眺めているのとは対照的に、間近からずけずけと、遠慮なしに彼を見つめていた。
「ストーフィ。やっぱりルーアンのこと、気に入っちゃったんだ。でも、いいもん。わたしには猫の侍従長がいるし」
振り返ると、相変わらず七都のベッドを占領して、ナチグロ=ロビンが眠りこけている。
七都はにっこりと笑って、再び庭を眺めた。
猫のトピアリーは、完成したようだった。
ダークグリーンの葉で出来た猫たちが、薄緑の草の絨毯の上で、いろんなポーズをしてすましている。
あのトピアリー猫、近くまで行って眺めたいな。
七都は思ったが、ふと、猫たちがいる場所よりもはるか遠く――空中に突き出ているあのテラスに目が留まった。
幾つかの美しいアーチに囲まれた、白い石の床。そこから続く階段。階段の下には、何もない。
そこには雲が渦巻き、雲の下には風の都が広がる。
「おばあさまは、あのテラスが好きだったんだよね、サリアの話からすると。行ってみようかな」
もしかすると、あそこにもあるかもしれない。空間に刻まれた過去の残像が。
そして、会えるかもしれない。エヴァンレットに会えたように、祖母にも。
七都は、窓のガラスに両手を置く。
ここからなら、飛べるだろう。あのテラスまで。
瞬間移動をすれば、すぐにあの白い石の床に立てる。
七都は、手をガラスに強く押し付けた。
手は簡単にガラスを付き抜け、次の瞬間には、七都は窓の外に立っていた。
乾いた空気が七都の体全体を包み、風が長い髪を緩やかに乱す。
風に混じった庭園の花々の甘い香りが、微かに鼻孔に入ってくる。
七都は、もう一度ルーアンを見た。
変わらずに自分の仕事を続ける彼。
時々、遠慮もせずに自分を眺めている猫ロボットのストーフィに、戸惑ったような笑顔を向けながら。
七都は安堵し、そのまま窓から、テラスに向かって飛んだ。
間もなく七都は、目的の場所に降り立った。
瞬間移動や空中飛行した、というのではなく、テラスが勝手に近づいてきた――そういう不思議な感覚だった。
何もない空間に突き出した、幻想的な白い建物。
重なり合うアーチ。滑らかな石の床。どこにも降りられない階段。
テラスの背後には、ラベンダー一色の透明な空。
美しかったが、奇妙な空間だった。
羽根を持つ、妖精か天使のために作られた場所。
そういう、人間を拒否したかのような特別な雰囲気がある。
魔力というものを使える魔神族だからこそ、こういう建物がつくれるのかもしれない。
七都は、アーチの上から、下界を眺めてみる。
けれども、階段の下には、雲で出来た絨毯が広がっているだけだ。
風の都は、全く見えなかった。確かにこの下にあるはずなのに。
やはり人間だったら、恐ろしくて、とてもここには来られない。
ここから足を滑らせて落ちたりしたら――。
七都は、ぞっとする。
そして、自分が魔神族であることを思い出して、胸を撫で下ろす。
たとえ落ちたとしても、魔力を使えば、無事に街のどこかに降りられる。
あるいは上昇して、また戻って来られる。瞬間移動にしても、空中飛行にしても。
それは間違いなかった。
たとえ、まだ魔力があまり使えない七都でも、それくらいなら出来る。
七都は、アーチから石の床へと移動してみた。
体が軽い。まるで幽体離脱したときのようだ。
ふわふわしていて、つかみどころがなくて、少し不安も伴った、不可思議な状態。
なんだろう、この感覚。
わたし、ちゃんと生きてるよね……。
思わず自分の名前や、ここがどこか、そしてなぜここにいるのか。一通り、さっと思い出してみる。
七都は、雲で出来たような、白い美しい建物を眺めた。
ここの雰囲気で、きっとそういうふうに思えてしまうんだ。
だってここ、天国のどこかみたいなんだもの。
何げなく、くるりと向きを変えた七都は、立ち尽くす。
七都のすぐ前方のアーチ――。
その壁にもたれかかるようにして、ひとりの少女が座っていた。
薄青のドレスに紫のマント。額には、宝石のはめられた銀の飾りが輝く。
長い漆黒の髪が石の床にこぼれて風でゆらゆらと舞い、彼女が着ている白いドレスの裾も、水の中で泳ぐ魚の透明なヒレのように、ふわりと広がっていた。
虚ろなその目は、闇よりも深い、黒の瞳。
その姿は、やはり天使か妖精めいていた。
あまりにも希薄な存在感。手を伸ばすと、たちまち消えてしまうかのような。
(いた。やっぱり、会えた。これ……過去の……残像?)
やはり、七都が推測した通り、ここにはそれが刻まれていたのか。
(この人……)
七都は、突っ立ったまま、少女の横顔を見つめた。
この風の都に来て、七都が初めて見た過去の残留映像――。風の城から落ちてきて地面に激突し、分解してしまった悲しすぎる二人……。リュシフィンらしき男性と、彼に抱きしめられていた黒髪の少女。
あの少女ではないのか?
ナチグロ=ロビンに、祖母が黒髪かと訊いたときから。そして、さらに先程サリアから、祖母が黒髪だったと確認したときから。
何となく感じ続けてきた居心地の悪い疑問が、もの凄いスピードで、七都の頭のどこかから駆け上がってくる。
(でも、ここにいるってことは……。この人……。やっぱり、わたしの……おばあさま?)
じゃあ、一緒に落ちたあの男の人は?
リュシフィン? おじいさま?
じゃあじゃあ……お腹の中の赤ちゃんは?
少女は、視線の定まらぬ、ぼんやりとした目で七都を見る。
その目は、七都を突き抜けてどこかを見ているのではなく、確かに七都を捉えて見つめていた。
「……誰?」
少女が呟く。
七都は凍りついたように、ただ呆然と少女を見下ろした。
見えてる……?
わたしを見てる……?
過去の残像なのに?