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第4章 エヴァンレットの秘密 2

「ほら、これ飲んで」


 ナチグロ=ロビンが、湯気の立つ陶器のカップを差し出す。

 香ばしいコーヒーの香り。カトゥースのお茶だった。

 自分の部屋のベッドから上半身を起こした七都は、お茶を受け取り、一口含んでみる。

 ほっとするような香りが鼻孔を包んだ。

 ごくりと飲み込むと、あたたかい流れが体の中に広がっていく。


「なんか七都さん、薬草のお茶が効かないみたいだからね。それならリラックスできるだろ」

「うん。ありがとう」


 ルーアンにあやまらなくちゃ……。

 目が覚めてから、ずっと自己嫌悪に陥っていた。

 私が勝手に見た夢で勝手に興奮して、彼にひどいことをしてしまった。

 夢の中の彼と実際の彼は、何の関係もないのに。

 あんなにきれいな人を血だらけにして……。

 再び七都はカトゥースを飲み込み、溜め息をつく。

 ああ、ものすごい罪悪感だ。

 何てことしちゃったんだろ。あやまらなくては。

 でも、はずかしくて、情けなくて、彼の前に出られない……。


「ルーアン、だいじょうぶかな。かなり引っ掻いちゃったよ」


 七都は、自分の爪を見下ろした。

 いつもの、桜貝のような華奢なかわいい爪。

 けれども、彼を引っ掻いたときは、ぞっとするくらいに鋭く尖っていた。

 細い三日月の先が、折り重なって指にはえていた。怪物の歯のように。それが、彼の頬と手の甲をえぐったのだ。

 気を失う前の記憶は曖昧だが、それはよく覚えている。彼の薔薇のような血の色も、流れて行くその量も。


「もう、とうに治ってるよ。ちなみに、もちろん痛みもないから」


 ナチグロ=ロビンが、そっけなく言った。


「だよね。魔神族なんだものね」


 再び七都は、ふうっと溜め息をつく。

 すぐ治るとか痛みがないからといって、許されることではない。自分がルーアンに怪我をさせてしまったのは事実なのだ。


「傷に関しては、そんなに気にすることないよ。でも……」


 ナチグロ=ロビンが言いよどんだ。


「でも、なんだよ?」

「ルーアン、落ち込んでるよ」


 彼は、緑の溶け込んだ金色の目で、じっと七都を見つめる。


「落ち込んでる? わたしが朝のお茶会を台無しにしたから……」

「七都さんに、さわるな、近づくな、なんて言われたから」

「そう……だよね。たったひとりの親戚にそんなこと言われたら、落ち込むよね……」


 やっぱり、あやまらなくては。

 ちゃんと彼の前に立って、彼の目を見て。

 七都に叫ばれて、ルーアンはとても悲しそうな顔をした。

 ずきんと胸が痛くなるような、寂しそうな顔……。

 あんな顔は、彼に会ってから初めて見る。


「何であんなことやっちゃったのさ?」


 ナチグロ=ロビンが訊ねた。少し責めるようなニュアンスも入っている。


「やっぱ、変な夢見たの?」

「うん……。とてもいやな夢。ルーアンが出てきて、彼にとてもひどいことされる夢……」


 ナチグロ=ロビンが、あんぐりと口を開ける。


「あのねー。夢の中に出てきて、ひどいことしたからって……」

「うん。わかってるよ。あきれないで。夢は、わたしの頭が勝手に作ったものだもの。それを現実のルーアンに当てはめるなんて、間違ってる。馬鹿げてる。でも……。こわかった。とてもこわかったの……」


 ナチグロ=ロビンは、肩をすくめた。


「結構、迫力あったね。さすが魔王さまの姫君だけあって。どうやって静めようかと思ったけど、自分で何とか出来たのは素晴らしい」

「何とかって。強制的に自分を気絶させただけ。あの状態を終わらせるために。もう少し自分をコントロール出来るようにならなくちゃ……。ナイジェルみたいに」

「七都さん、きっとまだ魔神族の体に慣れていないだけさ。だんだん出来るようになるよ」

「ならいいんだけどね。……ルーアンは、今、どこにいるの?」


 七都は、宝石形の窓から、外を眺めた。

 ラベンダー色の透明な空が見える。太陽は高く上がっているようだ。

 もう昼前くらいなのかもしれない。


「庭だよ。だいたい今くらいの時間は、たいてい庭にいる」

「連れて行ってくれる? あやまらなくちゃ」


 七都は、ナチグロ=ロビンが黙って差し出した手を握った。



 心地よいメロディーが庭に響く。

 ポロロンという、力強い、けれども上品な、途切れることのない音色。

 何か、心が洗われるような気持ちになる音色だった。

 メロディーは、シャワーのように体の表面を覆って適度な刺激を与え、流れ落ちていく。


「あの音は?」

「竪琴だよ。ルーアンが弾いてるんだ」

「……」


 ナチグロ=ロビンは、ひなげしのような花が咲いている一角へ、七都を瞬間移動で連れて行った。

 風がやさしく、薄紅の花を揺らしている。

 ルーアンは、その花に囲まれるように、彫刻の入った白い石のベンチに座って、竪琴を弾いていた。

 その姿もまた、絵になっている。神話の中に登場する、美しい男神のようだ。

 彼の隣にはストーフィが座っていて、かわいらしく首をかしげ、竪琴に聴き入っている。

 七都が近づくと、彼は竪琴を鳴らしながら、にっこりと七都に微笑みかけた。

 彼のそんな様子を見て、七都はさらに強く罪悪感を覚えてしまう。

 ルーアン……。

 あんなにひどいことしたのに、変わらずわたしに微笑んでくれるんだ……。

 けれども、ナチグロ=ロビンは、彼は落ち込んでいると言った。

 表面的には穏やかでも、お腹の中は、煮えくり返っているんじゃないのかな。

 七都は、ルーアンを見つめて、そう思う。

 落ち込んでいるというか、怒っているかも……。

 理不尽なことされたんだもの。怒って当然だ……。


「ご気分は、いかがですか?」


 相変わらずルーアンは、微笑みながら七都に訊ねた。

 彼の頬にも手の甲にも、傷はない。

 元の通りの、透き通るような美しい肌だった。

 七都はナチグロ=ロビンの手を離し、彼のそばに立つ。一メートルくらいの距離を取って。

 それ以上は近づけなかった。あまりにも、夢のインパクトが強すぎる。

 あれは夢で、本物のルーアンが自分にあんなことをするはずがないとわかってはいても。

 それに、夢は妙にリアルすぎた。

 彼の表情はもちろん、着ている服なんかも覚えている。

 剣のオレンジ色のきらめきも、胸に突き刺さる衝撃も。剣身が胸を貫いていく感覚も。

 そして、七都を固く抱きしめた彼の胸のぬくもり。剣の柄から七都の手を引き剥がした、彼の手の冷たさ。

 それらを思い出すと、もう立っていられなくなりそうだった。

 七都は夢のことは頭から追い出して、目の前の現実のルーアンに意識を集中させた。


「ルーアン……。ごめんなさい……」


 七都がぺこりと頭を下げると、竪琴の音がやんだ。

 ルーアンは竪琴をベンチに置き、七都をじっと見つめる。


「怒ってる……よね……?」


 七都が訊ねると、ルーアンは笑って首を振った。


「怒ってなどいませんよ。ああいうことは、子供にはよく起こることです。子供は、この都のあちこちに刻まれた過去の記憶を敏感に感じ取り、過剰な反応をするものです。あなたの母上も子供の頃、夢を見たあとは現実と区別がつかなくて、よく暴れていましたよ。あなたよりひどかったかもしれない」

「お母さんが……。でも、子ども扱いなんだ。わたしのこと」

「魔神族になられたばかりなのですから、当分は子供と同じでしょう」

「だって、わたし、ロビンの出した試験にパスしたのに。成人式に通ったわけじゃない」


 言ってしまってから、七都は後悔する。

 また彼に突っかかってしまった。今はあやまらなければならない立場なのに。

 ルーアンは、くすっと笑った。


「何百年も生きている私にとっては、あなたはまだ、十分子供ですよ」

「じゃあ、あまり気にしてないの? わたしがあなたに対してしてしまったことを……。子供のやったことだって、大らかに受け止めてくれてるの」

「ええ」


 ルーアンは、頷いた。


「人間だったあなたには奇妙なことに感じられるかもしれませんが、傷ももう消えていますし、もちろん痛みもなかったですよ」

「うん……。それはわかるけど。でも……。あなたは、とても悲しそうな顔をしたよね。あんな顔するなんて、よっぽどだよ。顔と手の傷は跡形もなく治っても、心の傷は残っちゃう」


 ルーアンの微笑みが、ふっと翳る。


「それはね、昔のある出来事を少し思い出したからですよ。あなたにそんなふうに感じさせてしまったのなら、申し訳ないです」


 彼が言った。


「昔の出来事?」

「それを一瞬、あなたに重ね合わせた。それだけのこと」

「誰かに言われたの? その……わたしがあなたに言ってしまったようなことを……?」

「わたしにさわらないで。わたしに近づかないで」


 ルーアンが、七都が彼に叫んだセリフを復唱した。

 七都は恥ずかしさのあまり、彼から顔をそむけて、うつむいてしまう。


「昔、言われました。あなたが私に言ったその言葉と全く同じことを。ある女性にね。あなたと同じ表情で私を睨み、あなたと同じような言い方で……」


 ルーアンが寂しそうな表情をして、遠くを眺めた。ワインレッドの目が太陽の光を梳かして、透明な赤になる。


「それ、お母さんが?」


 ルーアンは、静かに首を振る。


「いえ、ミウゼリルではありませんよ」

「じゃあ、じゃあ……。もしかして……それをあなたに言ったのって……わたしのおばあさま?」


 七都が遠慮がちに言うと、ルーアンは視線を七都に戻した。

 彼の目をまともに受け止めるには、少々足を踏ん張らなければならなかった。


「アヌヴィムたちから何か聞かれたのですね。まあ、そういうことです」


 おばあさま……。

 そうなんだ。

 じゃあ、きっと、おじいさまと結婚してしまったおばあさまは、ルーアンの思いを断ち切るために、彼にわざとそう言ったんだ。

 でないと、不倫になっちゃうもの。

 まだ未練があるルーアンが迫ったかなんかで、おばあさまはそういうきついことを……。

 おじいさまに見つかったら、大変なことになっちゃうし。

 七都は、かつてルーアンと祖母の間に行われたかもしれない悲しいやり取りを、推測して思い描いた。


「でも、ナナト。おそらく、あなたが想像しているシチュエーションとは程遠いものだと思いますよ」


 ルーアンが、七都の頭の中を見抜いたように言った。


「え?」

「彼女にとって、私は魔物でした。ですから、そう言われてしまったのです」

「魔物って……」


 何か違うのだろうか?

 ルーアンと祖母の関係は、アヌヴィムの貴婦人たちから聞いて、七都がずっと想像してきたものとは、どこか違っているのか?

 祖母はルーアンを魔物だと思っていた?


「でも、あなたとわたしのおばあさまって、恋人同士だったんでしょう?」


 七都は、ずばりと訊いてしまう。

 しまったと思ったが、ルーアンは、呆気に取られるくらい素直に答えた。


「ええ。婚約者でしたよ」

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