第4章 エヴァンレットの秘密 1
「で? それをここで食うのか?」
カーラジルトは、呆れ顔でシャルディンを眺めた。
シャルディンはどっかりと石の床に座り込み、大きく膨れた袋の中から食料品を順番に取り出した。彼は嬉々として、それらを床に並べ始める。
色鮮やかな果物が数種類、干し肉、素朴なパンで魚と野菜を挟んで作ったサンドイッチ、陶製の容器に入れられた薬草茶。
この避難所に入る少し前に、シャルディンが町で買い揃えたものだった。
「仕方がないでしょう。ここが今回の宿ということになるんですから。食事は、毎回決まった時間にきちんと取らないと。特にグリアモスの方と行動を共にしていては、体が持ちませぬゆえ」
シャルディンが、サンドイッチに豪快にぱくつきながら答えた。
カーラジルトは、サンドイッチから漂ってくる匂いに顔をしかめ、手で鼻を覆う。
「耐えられん匂いだ」
「人間は、こういう匂いのものを食べなければならないのです。これは私の糧。ひいてはあなたの糧の元です。私のエディシルがあなたの糧になるのですから、多少は我慢していただかないと」
シャルディンが言う。
アヌヴィムにしては態度の大きい彼に、カーラジルトは呆れ果てるしかなかった。
「しかし、わざわざここに持ち帰って食べずとも。私が寝ている間に町に出て、好きなだけ町に滞在し、自由に食べてくればいいだろうに」
「あなたがお休みになっている間に活動すれば、私の寝る時間がなくなります。あなたに合わせるには、やはり昼夜逆転の生活をせねばなりませんので」
シャルディンは、旅の疲れを癒すという触れ込みで売られていた薬草のお茶を飲む。
「不味いな。カトゥースのお茶のほうが、まだましだ」
彼は眉を寄せ、薬草茶の感想を呟く。
「カトゥースを飲むか? ここにはあるぞ」
カーラジルトは、棚を指差した。
そこには魔神族が必要とする、様々な備品が並んでいた。
新鮮なカトゥースの花、そのお茶が入ったポット、武具、衣類。
常に地の魔神族によって管理され、補充されている。
七都に渡した血止めの薬も、そこから探し出したものだ。
(ナナトさまは、きちんと薬を飲んでくださっているのだろうか……)
カーラジルトは、ふと心配になる。
(いや。もう風の都に到着されているのなら、怪我は、リュシフィンさまが治して下さっているはず。ならば、もう薬を飲まれる必要もない)
悪いほうへ考えるのは、やめなければ。
あの方は、風の魔王リュシフィンの姫君なのだ。
きっと無事に地の都の砂漠を越え、風の都に入られたに違いない。
カーラジルトは、思い直す。
「遠慮しておきます。ああいうものは、人間は飲まないほうがよいのです。人間でいたいと思うならば」
シャルディンが言った。それから彼は、お茶をもう一口、無理やり口の中に流し込む。
「きみは、もう人間ではないだろう。五十年以上もアヌヴィムの魔法使いをしているのだから。まだ普通の人間でいることに未練があるのか?」
カーラジルトが訊ねる。
シャルディンは、表情の読み取れぬ赤い眼を、目の前の魔神族の若者に注いだ。
「それでも……やはり私は人間です。たとえずっとこういう若い姿をしていようとも。魔法が使えようとも」
「そうだな、人間だな。人間だからこそ、我々の糧ともなり得る。そういうことだ」
カーラジルトが言うと、シャルディンは微笑んだ。
「あなたは、外見は冷たそうに見えますし、私のエディシルも遠慮なく大量に奪って行かれるが、基本的には親切でおやさしい方なのですね」
「アヌヴィムに褒められても、嬉しくもない」
カーラジルトは、冷ややかな翡翠色の目でシャルディンを一瞥し、床に横になった。
「カーラジルトさま。一つお聞かせくださいますか? ナナトさまとは、いったいどういう方なのですか?」
シャルディンは食事をする手を止め、壁を向いて横たわるカーラジルトに訊ねる。
「どういう方とは?」
「王族なのでしょう? おそらくリュシフィンさまとも血が繋がっておられる」
「繋がっているどころか。母君は、リュシフィンさまだ」
カーラジルトが壁を向いたまま、答える。
シャルディンは、サンドイッチを落としそうになった。
「な……!!」
「全くきみも、とんでもない方のアヌヴィムになったものだ」
何の感慨もなく、カーラジルトが呟いた。
「で、では、あの方は、風の魔王さまの直系の姫君だと?」
「今、風の魔王がどういうお方なのは、知らぬ。少なくとも、私が最後に風の都を訪れたときは、ナナトさまの母君がリュシフィンさまだった。けれども、ナナトさまのお話によると、母君は行方不明だとか。風の城にもおられないらしい」
「しかし。母君がリュシフィンさまなら、では、ナナトさまは……」
「王位継承者ということだな。血筋からしても、次期リュシフィンさまだ」
シャルディンは、深い溜め息をつく。
「やはり、とんでもないお方なのですね。けれども、ナナトさまが魔王さまになられれば、私はあの方のアヌヴィムではいられなくなる。魔王さまは、アヌヴィムは持たれぬらしいですから。エディシルは、魔貴族やグリアモスからお取りになるのでしょう?」
「人間のエディシルでは、とても足りぬからだ。けれども、例外はある。魔王さまに気に入られて、アヌヴィムになった者もいるからな。リュシフィンさまのアヌヴィムをめざしてみてはどうだ? 大魔法使いになれるぞ」
シャルディンは、さらに深い溜め息をついた。
「大魔法使いになんぞ、なりたくはありません。魔法の力は、今くらいで充分です。魔王さまのアヌヴィムなど、恐れ多いことです。遠慮しておきたい。ただ、あの方のアヌヴィムでいられなくなるのは寂しいですが」
「では、どうするのだ? 新しい主人を探すのか?」
シャルディンは、にっと笑った。
「あなたのアヌヴィムになろうかな」
「やめておけ。きみは私の食欲に、今でもうんざりしているだろうが」
カーラジルトが、冷たく言った。
「でも、あなたは私にやさしく接してくださる。それに、あなたと一緒にいれば、それは取りも直さず、ナナトさまのおそばにもいられるということです」
「残念だな。私はアヌヴィムを持つ予定はない」と、カーラジルト。
「では、やはり、魔神狩りをして、糧を得るというわけですか」
「そういうことだ。私が狩る相手は、魔神族にとっても人間にとっても、その存在が許されぬ罪人なのだからな。エディシルを取り尽くして相手を一瞬で老いさせようが、死なせようが、誰にも文句は言われん」
それからカーラジルトは、巨大な猫のように体を長く伸ばした。
「私は、寝る。きみも、それを食べたら寝たほうがいいぞ。私と生活時間を合わすのならば」
「そうします」
シャルディンは黙々と食事を続け、町から調達してきた食料品は、すべてきれいに平らげた。
それから彼は、カーラジルトから少し離れたところに横になる。
避難所の空気は自動的に適度な温度にあたためられていたが、石の床は冷たかった。
この避難所には家具はないため、床に直に寝るしかない。
「冷えるな。こんなに冷えては眠れな……」
ふと何かの気配を感じて振り返ったシャルディンは、赤い目を見開く。
巨大な白いグリアモスが、彼のごく近くに座っていた。
「わあああああああああっ!!!!!」
彼は思わず叫んだが、すぐにグリアモスの正体に気づいて叫ぶのをやめる。
「か、カーラジルトさまっ!?」
(一緒に寝てやってもいいぞ)
白いグリアモスが、ビー玉のような緑の目で、シャルディンを見下ろして言った。
「遠慮しておきますっ!」
シャルディンは、ありったけの声で、再び叫ぶ。
グリアモスと一緒に寝るなど、冗談ではない。そういう意味を思いきり込めて。
(気に入らぬのか、この姿が? ナナトさまは、きれいだと褒めてくださったぞ)
グリアモスのカーラジルトが、シャルディンの頭の中で言う。
「お美しいのは認めます。けれども、私がグリアモスを苦手なことはご存知でしょう?」
シャルディンが、ずるずると後ずさって言った。
(子供の頃、魔貴族の館で、グリアモスにさんざんオモチャにされたのだったな。いったい何をされたんだ?)
「とても言えません。おぞましくて」
シャルディンは、うつむいた。
「あなたのご親切には感謝しますが、出来ればそのお姿で、私に近づかないでいただきたい」
(では、ひとりで寝るがいい。まあ、我慢出来ないこともなかろう。人間の男は、魔神族の女性ほど体は冷えないだろうからな。その線から向こうへは行かぬ。安心して寝ろ)
「線?」
シャルディンは、石の床に引かれている細い線を見下ろした。床を二つに分けるように、真っ直ぐに刻まれた白い線だった。
「これは……」
(ナナトさまが引かれたものだ。この前、ここに一緒に入ったときに)
「何でまた、ナナトさまは、この線を……?」
(この線からこっちに入って来ないで。そう言われた)
シャルディンは、ぷっと吹き出した。
やがて抑えきれず、あはははと声を出して笑い始める。
(何がおかしい?)
グリアモスの姿のカーラジルトが、無表情に訊ねる。
「いえ。相変わらず可愛らしいですね、ナナトさまは。だから、おちょくりがいがあるのですが」
(きみはナナトさまをおちょくって、おもしろがっているのか)
「楽しいですよ。いわば、じゃれ合いです」
(じゃれ合い? じゃれ合いならば、私も参加したい)
カーラジルトの銀の瞳が、期待に満ちて大きくなった。
シャルディンは、笑って頷く。
「では、風の都でナナトさまにお会いしたら、みんなでじゃれ合いましょう」
カーラジルトは元の若者の姿に戻り、再び壁の近くに移動する。
シャルディンも、七都が引いた線の向こう側に横になった。
体の真下には、固くて冷たい石の床がある。
部屋の空気は暖かかったが、その代わりに、床に冷たさが悉く押し込められているかのようだった。
確かに我慢出来ないことはないが……。やはりきついな。
シャルディンは、少し弱気になる。
けれども、アヌヴィムになって以来、もっと過酷な様々な状況を何度も味わい、くぐり抜けてきたのだ。
それに比べれば……。
ふわりと、何かやわらかいものが、シャルディンを覆った。
起き上がると、鈍色の大きな布が体にかけられているのがわかる。カーラジルトのマントだった。
シャルディンは、カーラジルトの背中をしばらく眺めたあと、再び石の床に横たわる。カーラジルトのマントを体に巻きつけて。
「私は、風の魔神族は、とても好きになれそうですよ」
シャルディンは呟いて、目を閉じた。