第3章 風の城の住人たち 16
ルーアンは、よろめきながら玉座に近づき、階段の下に倒れ込むようにひざまずく。
いつものトーガのような、ゆったりした丈の長い衣装ではなく、もっと動きやすい服装をしていた。
ジュネスやキディアスに初めて会ったとき、彼らが着ていたのと似たような服装だった。
短めの丈の胴着にブーツ。その上には、太陽避けの長いマント。
どうやら旅の衣装のようだ。
疲れきった、そして思いつめたような表情で、彼は玉座にすわる七都を見上げた。
(ルーアン? あれ。なんかすごく超どシリアスな顔して。どうしたんだろ)
「私は……間違っていたのですか?」
彼が訊ねた。怖くなるような赤い眼で、七都をじっと見据えたまま。
ルーアンって、魔王さまの目をちゃんと見られるんだ。
七都は、少女の内部から彼を観察しながら、ぼんやりとそんなことを思う。
でも、何で彼はこんなに疲れているんだろう。
今にも倒れそう……。
ルーアンは、七都を見上げたまま、続ける。
「私があなたにその冠を譲ったのは……やはり間違いだったのでしょうか」
「間違いだったのかもしれない。あなたがそう思うのなら」
七都が言う。
いや、七都がその体の中に入っている、玉座の少女――リュシフィンが言った。
その声には聞き覚えがある。
ゆうべの夢の中に現れた、あの少女の声に似ていた。
気の強そうな、甘い声。一度聞いたら忘れない。
じゃあ、じゃあ、この人は……。
七都は、リュシフィンの中に入ったまま、気が遠くなる。
ああ、でも、もしかしてこれは、わたし自身の声かもしれない。
そう聞こえるだけで、実は自分の声なのかも……。
七都の意識は、混乱する。
「でも、あなたのせいじゃない。それは確かだ」
七都は、自分の唇が勝手に言葉を紡ぐのを感じた。
これを言っているのは、わたし?
それとも、彼女?
それも、はっきりとは認識出来なかった。
「やはり私が、その冠を頭に戴いていれば……そこに座っていれば……」
ルーアンが言った。
その声はかすれ、顔には苦渋の表情が刻まれていた。
ルーアンは、おもむろに立ち上がる。
彼は階段を上がり、玉座に近づいてくる。
ゆっくりと。一歩、一歩。
七都は――いや、リュシフィンは、彼を待っていた。
彼がそばに来るのを。
そして、彼が行おうと心に決めていることも知っていた。
彼女は動かなかった。じっとルーアンを待つ。
彼女の心は、穏やかに澄んでいた。
悪夢から醒めた朝のように。雲のない透明な天のように。
けれども、彼女の中にいる七都にはわからなかった。
何が行われようとしているのか。
「私は、私の役目を果たさなければなりません。それが、風の魔神族に担わされた役目なのですから。まさか、自分の一族の王にそれをせねばならぬとは……」
ルーアンが呟いた。
彼が、ゆっくりと近づいてくる。
彼の目は、静かに燃える暗く赤い炎を閉じ込めた宝石のようだった。
リュシフィンは、ルーアンをじっと見つめる。
ルーアンの手がそろそろと彼の肩に向かって動き、その指が、彼が背負っていた細長く平たいものをつかむのを眺める。
七都も、リュシフィンと一緒に彼を観察した。
ルーアン。ルーアン。
何をしようとしているの、あなたは?
ルーアン……?
ルーアンは、背中から手を下ろした。
オレンジ色に輝くものをその手に握りしめたまま。
風の城に着くまでに、七都が何度も目にした、その色。その光。
ユードが、カディナが、そして、魔神狩人たちが携えていた、その武器。
魔神族に反応してまばゆく輝き、魔神族を狩るために使われる、その禍々しく美しい武器――。
ルーアンが握りしめていたのは、エヴァンレットの剣だった。
なんで?
なんであなたが、この剣を持ってるの?
「そう。それを使うの。私に?」
リュシフィンが言った。
いや、言ったのは七都かもしれなかった。
冷たい、けれども、威厳に満ちた声だった。
ルーアンは答えず、剣を持ったまま、玉座に到達する。
七都は動けなかった。
リュシフィンが動こうとしなかったからだ。
彼女はあきらめていた。そして、覚悟していた。
抗わないことを最初から決めていたのだ。
ルーアンはリュシフィンに片手を伸ばし、そっとその肩に手を置いた。
リュシフィンは赤い目を見開いて、静かにルーアンを見上げる。
ルーアンはもう片方の、剣を握りしめた手に力をこめた。
七都は自分の胸に、オレンジ色の細長い輝きがぞろりと押し込まれるのを黙って見下ろす。
いつの間にかリュシフィンの意識はどこかに消え去り、その体には七都の意識しかなかった。
リュシフィンの体の感覚が、恐ろしいくらいの勢いで七都の意識に繋がってくる。
(ルーアン――!!!)
七都の胸は、エヴァンレットの剣で刺し貫かれていた。
オレンジ色の光が、七都の胸で輝いていた。
星を一つ抱え込んだような光の量だった。
なぜ?
エヴァンレットの剣は、わたしには反応しないはずなのに――。
破壊しなくちゃ、この剣を。
わたしには出来るはずだもの。
七都は、剣の刃を両手で握りしめた。
総毛立つような冷たさが、手のひらに走る。
七都は、意識を剣に向かって集中させ、力を込める。
今まで何度もそうしてきたように。同じように、この剣も破壊するのだ。
けれども、剣は壊れなかった。
それが何千もの透明なかけらに分解することもなく、残った柄だけが玉座の下に落ちることもなかった。
エヴァンレットの剣は、七都の胸にしっかりと刺さったままだったのだ。
ああ、どうしよう。
壊れない。なんで?
何度も簡単に壊してきたはずなのに――。
七都は、剣の柄を握った。
抜かなければ。破壊出来ないのなら、抜かなければ……。
だが、ルーアンの手が七都の手首をつかみ、剣の柄から七都の指を引き剥がした。
あ……。
あ……。
こんなことって……。
ルーアン……。
なぜ、あなたが……。
七都は目を見開いたまま、ルーアンの悲しそうな顔を見つめる。
呼吸が出来なかった。
胸に射し込まれた剣から、ぞっとするような冷たさが、何万もの触手を伸ばすように広がっていく。
それは、七都の意識を閉じ込めようとしていた。
ルーアンが七都を抱きしめた。
七都は、彼の広い胸とその低い体温を感じる。
けれども、その感覚も崩れ去っていく。
剣の冷たさが、七都の意識を外界から遮断しようとしていた。
こんな……こんな形で、わたしはあなたに抱きしめられるの……?
ルーアン……。
「愛しています、あなたを……。我が風の魔王、リュシフィン……」
彼が、七都の耳元で呟いた。
ルーアン……。
あなたなんだ。
あなただったんだ。
それは、あの夢と同じ光景だった。
エヴァンレットの剣で胸を刺し貫かれた玉座の少女。
ワインレッドの目を見開いたまま、微動だにしない、彼女――。
あの剣を彼女の胸に突き刺したのは、あなただったんだ……。
「リュシフィン……どうか、どうか安らかにお眠りください……」
ルーアンが言う。
七都を強く抱きしめたまま。
それから彼は、誰かの名前を呼んだ。
それは、リュシフィンの本名かもしれない。
いや、七都の名前かもしれなかった。
(いやだ……。眠らない! いやだ!!)
出なければ。
この体から、すぐに出なければ。
そうしなければ、永遠にこの中に閉じ込められてしまう――。
七都は、じわじわと氷が張るように迫ってくる剣のいましめを払いのけるように、叫び声をあげた。
「ナナト?」
「七都さんっ!」
玉座の間が溶け去り、明るい朝の景色が目の前に広がる。
ルーアンとナチグロ=ロビン、そしてストーフィが、呆気に取られたように七都を見つめていた。
ルーアンは旅の装束などではなく、先程までと同じ、ゆったりとした丈の長い衣装をまとっていた。
七都が着ているのも、白いドレスに赤紫のマントではなく、七都が自分でクローゼットから選んだ青いドレスだった。
当然そのドレスの胸には、エヴァンレットの剣の存在など微塵もない。
何も変わってはいなかった。穏やかな朝のお茶の時間。周囲には、美しい花々が溢れる。
けれども七都は、自分の感情をコントロールできなかった。
あれは、夢。単なる夢だ。
あのリュシフィンは、わたしじゃない。
彼女の中に入っただけ……。
冷静に考える自分は確かにいたが、夢の中で感じた恐怖がまだ続いていた。
絡め取られていくような剣の冷たさが、まだ体のどこかに残っているような気がした。
恐怖は静まらなかった。
七都は、叫び続ける。
狂ったような、恐ろしい声だった。
「七都さん、どうしたの?」
ナチグロ=ロビンのおろおろした声が聞こえた。
「ナナト!」
ルーアンが表情をこわばらせ、七都のそばに来る。
七都は彼を睨みつけ、その手を払いのけた。
「来ないで! わたしにさわらないで! わたしに近づかないでっ!!」
七都が叫ぶと、ルーアンの顔は凍りついたようになる。
やがてその表情には、悲しみが満ちた。
夢の中の彼と同じ顔だった。
「七都さん、落ち着いて!」
ナチグロ=ロビンが泣きそうな顔をして言う。
「なんでいきなり、攻撃態勢なんだよお……」
薬草のお茶のカップが石の床に落ち、乾いた音をたてて壊れた。
辺りにはこぼれたお茶が散らばって、不吉な赤い染みを作る。
「七都さあん……。まるでおびえて威嚇する子猫だよおお……」
ナチグロ=ロビンが呟いた。
彼が形容したとおり、七都の髪は逆立って宙に渦巻き、瞳は猫のように丸く大きく変化していた。
ルーアンに向かって広げられた両手の爪は、異様なくらいに長く伸びていた。
唇から突き出た両端の歯も、鋭く尖っている。
歯の間から漏れる音は、猫の威嚇音だった。
「ナナト、どうしたのですか? 何か夢を?」
ルーアンが心配そうに言った。
けれども、彼の顔はまだ凍りついたままだった。七都に浴びせられた言葉に、かなりの精神的な打撃を受けたようだ。
ルーアンが意を決したように、再び七都に近づく。七都をなだめようとして。
けれども、彼の頬と手の甲に真紅の線が刻まれ、そこから血が吹き出した。
七都が、爪で引き裂いたのだ。
「七都さんっ!!!」
ナチグロ=ロビンが真っ青になって、両手で自分の頬を覆う。
ストーフィが椅子から立ち上がり、対峙する七都とルーアンをまん丸い目で見つめた。
七都が引き裂いたルーアンの傷口から、血が滴り落ちる。
彼の白く美しい頬と手が、赤い血で染まっていく。
「殺さないで。わたしを……殺さないで……」
七都は、呟いた。
見開いた目から、涙がこぼれた。
ルーアンを傷つけたことが情けなかった。彼にあやまりたかった。
けれども、恐怖はおさまらない。
切らなくちゃ。
この感情をとにかく、断ち切らなくちゃ……。
七都は、イデュアルがくれた竜の指輪を握りしめた。
「ナナト。なぜ私が、あなたを殺さなければならないのですか?」
ルーアンが、苦しそうに呟く。
「殺さないで……。殺さないで……」
唇が無意識に動いて、呪文のように言葉をはじき出す。
七都は、体を勝手に支配して暴走しようとする恐怖と、体のどこかにまだしつこく残っているエヴァンレットの剣の冷たさを無理やり断ち切った。
意識が遠くなる。
七都は気を失って、石の床に崩れ落ちた。
ルーアンが、七都を抱きとめてくれるのが、視界の片隅に、スローモーションのようにちらりと見えた。
それからすぐに七都の目の前から、すべての色が消え去った。




