第3章 風の城の住人たち 11
天井が見える。
これは、見慣れた天井。
猫の肉球のような飾り穴が、白いボードにたくさんあいているはず。たぶん、リビングの天井だ。
けれども、それはぼやけている。猫の肉球模様も、はっきりとは見えない。
あれ?
元の世界のわたしの家?
戻ってきたの? 風の城にいるはずなのに?
違う。そんなはずない。
そうか、これは夢なんだ。夢を見ているんだ……。
七都は、ぼんやりした天井を眺めながら、冷静に分析する。
リビングには、何人かの人の気配がした。
二人……いや、三人……。
香ばしい、いい香りがする。
これは、コーヒーだ。カトゥースではなく、懐かしい本物のコーヒーの香り……。
七都は、リビングに仰向けに寝かされているらしかった。
起き上がろうとしたが、体が動かない。
誰かが七都を覗き込んでいる。
誰?
でも、よく知っている人だ……。
顔はやはりぼやけていてよく見えないが、何となく輪郭と雰囲気でそれがわかる。
七都は、両手を動かしてみた。思ったよりも軽くて小さな両腕が、ぱたぱたと枕元をはたく。
え?
もしかして、わたし、とても小さい?
「ナナトを抱いてやってくれないの?」
誰かがその人物の後ろから声をかける。
ああ、この声……。
お母さんだ。
お母さん……。
うちのリビングにいるの?
七都を覗き込んでいる人物は、母に声をかけられて、微かに身じろぎをする。
困ったような雰囲気。相変わらず七都を見つめたままで。
「ねえ、ルーアン?」
再び母が言った。
少し非難めいた口調になっている。
ルーアン?
わたしを見下ろしているのは、ルーアンなの?
七都は、ぼんやりしたその人物の顔の輪郭を無理やり目でなぞってみる。
「おいおい。独身男に生まれたばかりの赤ん坊を抱けっていうほうが、酷ってもんだぞ」
別の声が背後からする。
あ、この声、お父さん?
ちょっとだけ、いつもより声が若い。
声の方向からは、陶器の澄んだ音も聞こえた。
あれは、コーヒーカップ?
お父さん、コーヒー飲んでるんだ……。
「そうなの? でも……。ルーアン、私が赤ちゃんじゃなくなって大きくなっても、抱いてくれたことなかったよね。眠ったときに運ぶとか、食事のときの便宜的な体勢くらいしか。ルーアンに抱きしめてもらった記憶って、ないな」
母が言った。
不満と寂しさが入り混じった、少女のような口調だった。
「リュシフィンさまにそんなこと、出来るはずもありませんよ」
七都を見下ろしている人物が言う。
あ、やっぱりルーアンなんだ。
そういえば、七都を見つめる二つの目は、ワインレッドっぽい。
まどろっこしいなあ。ちゃんと見えない。
七都は、彼に向かって両手を伸ばした。
ルーアンは七都のその手のひらに指を重ねてくる。
七都はその指を握りしめてみた。冷たい指だった。
彼の顔が、ふっとなごんだような気がする。
「いいもの。あなたが抱きしめてくれなくても、ヒロトがいっぱい抱きしめてくれるから」
母が言う。
「えー。ぼくはルーアンの代わりなのかあ?」
背後から、父が情けなさそうな声を出す。
「違うわよ。ルーアンとヒロトは、私の中では別の場所にいるの。どちらかがどちらかの代わりなんて、そういう次元じゃないの」
ふわりと体が浮く。
七都の背中の下には、あたたかい手があった。
その手は、しっかりと七都を支えていた。
お母さんだ。
お母さんが抱き上げてくれてる。
七都はとても近い距離から母を眺めてみたが、やはりその顔はぼやけていた。
ただ、母の髪は漆黒だった。緑がかった黒髪でも、銀の髪でもない。
目も、ワインレッドでも銀でもなく、髪と同じような黒。
目の焦点は合わないが、それははっきりとわかる。
「私はお母さまには愛されなかったけれど……。ナナト、私はあなたにはいっぱいの愛をあげるわ。たくさんのたくさんの愛をあなたに……」
母の隣に立つルーアンの顔が、少し翳ったような気がする。
ルーアン。悲しそう……?
「あら。笑ったわ、ナナト。なんてかわいく笑うのかしら」
母が笑う。
隣のルーアンも笑っている。
声を出して笑っているというよりも、穏やかに微笑んでいるという感じではあるが。
父も、見えないけれど、たぶん笑っている。
わたしが笑うと、みんな笑う。
雰囲気がなごやかになる。あたたかくなる。
ならば、笑おう。
今のわたしに出来ることは、笑うことだけだ。
そうすることでみんなが幸せな気分になれるなら。
いっぱい笑おう……。
七都は、小さな体を精一杯使い、声を上げて笑った。
やっぱり、夢……。
七都は、天井を見上げた。
そこにはもう、白いボードに猫の肉球に似た模様の天井はなかった。
頭上に広がっているのは、薄青をベースにして描かれた星型の花たち。
七都が横たわっているのは、家のリビングではなく、魔の領域の中にある、風の城の天辺の部屋だった。
リビングは、はるか彼方の異世界にある。
自分が赤ん坊であったのも、遠い過去のことだ。
七都は、少しだけ寂しさと虚しさを噛みしめて、溜め息をついた。
「でも、なんか、ちょっといい夢だったな」
七都は、毛布を鼻のあたりまで引き上げて、微笑む。
あれは現実にあったことなのだろうか。
ならば、十五年くらい前のことになる。自分が赤ん坊であった頃ならば。
ルーアンがリビングにいた。父はコーヒーを飲んでいて、母は七都を抱いてくれていた。
父は、ちょっとだけルーアンにやきもちをやいていた。母は、それを上手く受け流していた。
いとおしいような、ひととき。
穏やかな、春の日のような……。
けれども、結局は夢なのだ。
自分が無意識のうちに都合よく設定して、作り上げたものなのかもしれない。
自分が赤ん坊だったことも、登場人物も、三人のセリフも、全部。
「夢にしては、リアルだったけど」
枕元にはナチグロ=ロビンが、中途半端に丸くなって眠っていた。
首を不自然な形にねじまげている。そんな姿勢でだいじょうぶなのかと本気で心配したくなる寝相だった。
七都は、彼のやわらかくてあたたかい背中に頬を乗せてみる。
「赤ちゃんは、ある意味、猫に似てるよね。猫が赤ちゃんに似てるのかな。そこにいるだけで、風景が違う。そこで眠っているだけで、雰囲気をなごませたり、誰かの尖った心を癒したり……。そういえば、声も似てるね」
七都は、ナチグロ=ロビンの小さな頭をなでた。
部屋の中は、宝石形の窓から差し込んでくる月の光に満ちている。
魔法を溶かしたような、不思議な銀色の月溜まり。
七都が太陽と間違えた明るい月が、魔の領域の中でも輝く。
もちろんその光は、太陽と同じように、透明なバリヤーを通して届いてくるのだが。
何の音も聞こえない。不気味なくらいに静かだった。
窓の枠が薄い影の線となって、床に亀甲模様を描いている。
今、どれくらいなのだろう。
あたりが暗くなってすぐに、眠ってしまった。
真夜中なのか。それとも、ほんの少ししか眠っていなくて、まだ宵の口だろうか?
もう一眠りしよう。今度目が覚めたときは、きっと朝になってる……。
そのとき。
静まり返った部屋の中に、気の強そうな、けれども甘さを含んだ、少女の声が響いた。
「人間だったらよかったのに」
月の光が乱れた。
七都は、思わずナチグロ=ロビンの背中をぎゅっと抱きしめる。
今の声……。
誰か、いる? この部屋の中に……?
「人間だったら……。涙を流すことが出来るのに」
声がまたした。 すぐそこから。
たぶん三メートルも離れていないところだ。
ぞくりと背中が総毛立つ。
七都は、ナチグロ=ロビンの背中をしっかりとつかんだまま、息をひそめる。
空耳じゃない。やっぱり誰かいる。
気配を感じる。微かな息遣い。床に触れる衣擦れの音。
七都は迷った。
どうしよう。
このまま朝まで、こうやって息を殺して固まったままいようか。
でも、一晩中、正体のわからないこの声を聞かされ続けるのも嫌だ。
本当は見たくない。
だけど、このままには出来ない。
そこに何がいるのか、誰がいるのか、確かめなきゃ。
結局、やっぱり空耳とか夢で、そこに何もいないのだったら、朝までゆっくりと安心して眠れることは間違いないのだから。
七都は、そろそろと顔を上げた。
床に広がる白いドレスの裾が、視界に入る。
銀の刺繍に縫い込まれた宝石が、月の光に輝いている。
そこから上に向かって伸びる、ドレスのレースとフリルの固まり。
それを覆っているのは、緑がかった艶やかな長い髪だった。
(あ……!)
七都はそこに――宝石の形の巨大な窓のそばに、自分とよく似た少女を見つけて息を呑んだ。
白いドレスをまとって窓のガラスに手を置き、外の景色を眺めていたのは、ルーアンの絵の中に描かれていたあの姫君だった。