第3章 風の城の住人たち 2
「七都さん、行くよ」
ナチグロ=ロビンが、七都の腕をつかんだ。
「だから、近づくなって言ったのに」
呆然としている七都を無理やりその場から引き剥がし、七都の腕をしっかりとつかんだまま、彼は廊下をどんどん進んで行く。
「彼女は……。彼女は?」
「だいじょうぶだよ。明日の朝になったら、元に戻るから」
「元に戻る? あんな状態で? 本当?」
「ああ」
ナチグロ=ロビンは、前を向いたまま頷いた。
その時、どっと笑う人々の声が、どこかの扉の向こうから聞こえた。
七都は立ち止まる。
ナチグロ=ロビンは、前につんのめりそうになった。
「あれは……?」
「やつらも、この城の住人」
再び、どっと笑う声。
男性の声が多いが、中には女性のきゃははという声も混じっている。
「たくさんの人の声がする。この城に、あんなに大勢の人が?」
「単に、少ない住人が、あの部屋に集まってるだけさ」
ナチグロ=ロビンは、廊下にずらりと並ぶ扉の一つを指差した。
「会うからね!」
七都は、ナチグロ=ロビンをキッと睨む。
また会わなくてもいいなんて言っても、会うんだから!
そういうメッセージを視線に込めて。
ナチグロ=ロビンは、わざとらしく肩をすくめた。
「会えばいいよ。どうぞ、姫君」
彼は慇懃に腰を屈めて礼をし、手を扉に向かって伸ばして見せた。
七都は、扉の前に立つ。
機嫌のいい話し声。軽やかな笑い声。そういうものが扉の向こうに満ちていた。
この城の全体は静寂そのものだったが、その部屋は全く違っている。
なんて賑やかなんだろう。
こんな賑やかさが、この城に存在していたなんて。
でも……。
あまり楽しそうじゃない?
扉の向こうの人々は、確かに笑ってはいるのだが、その笑い声は妙に退廃的で、乾きすぎている。
部屋の中には、虚無感のようなものが渦巻いていた。
七都は、敏感に何かを感じ取る。
七都が扉を開けようと手を上げると、扉はひとりでに、さっと左右に分かれた。
扉が開いた途端、あの笑い声がぴたりとやんでしまう。
しん、と静まり返った薄暗い空間の中に、オレンジ色の光がぼんやりと灯っていた。
そこにあったすべての音が、その沈み込んだ光に転換されてしまったかのようだった。
まだ太陽は当分天に残っているというのに、この不自然な暗さは、いったい――。
窓を覆って、光を閉ざしているのだろうか?
七都は、部屋の中に入った。
光が、やわらかく七都の顔を照らす。
部屋の中央には、広いテーブルがあった。
テーブルには何か図形のようなものが刻まれ、オブジェのような立体がたくさん乗せられている。
(チェスに似てる……?)
七都は思ったが、チェスでないにしろ、とにかく何かのボードゲームっぽかった。
オブジェのほかにも、透明な酒らしきものが注がれたグラスが、いくつも置かれている。積み重なって輝いているのは、金貨だろうか。
テーブルの向こう側には、たくさんの人々が影のように寄り添い、息を潜めて、七都を凝視していた。
この異様な緊張感は、何なのだろう。
七都は、順番にそこにいる人々の顔を眺めようとしたが、そうすることに少なからず罪悪感を抱いてしまう。
わたしを怖がってる?
おびえてるの?
猫に睨みつけられた小鳥のようだった。
どこかガラスのような虚ろな目が、七都の視線をうまく避けて、七都をじっと見つめる。
前にも、こんなふうに、わけのわからない緊張感を相手に抱かせてしまったことがあった。
あれは、ティエラに対してだ。
けれども彼らは、ティエラよりも、七都を怖がっていた。
しかも、あきらめのような空虚感が、彼ら全体を匂い立つように覆っている。
そこに集まった人々は、美しい人々だった。
全部で二十人くらいだろうか。おそらく、ほとんどが二十代の若者。
中には、十代後半や三十代前半と思われる者もいるが、総じて若く、きれいな人々。
多くが男性だった。女性は数人。
七都が会ったきらびやかな女性たちとは、少し雰囲気が違う。
彼女たちよりは色数の少ない衣装を身につけていたが、もっときわどいデザインだ。化粧も、はるかに濃い。
女性たちは、それぞれ隣の男性に、しなだれかかるようにしがみついていた。
「誰……だ……?」
彼らの中の一人が呟いた。
ささやくような、弱々しい、遠慮がちな声だった。
「帰還された姫君。七都さまだよ。次のリュシフィンさまになられるかもしれない方だ」
ナチグロ=ロビンが言った。
うわ、『七都さま』なんて。
ナチグロが敬称なんて付けてくれたの、初めてかも。
七都は妙に感動したが、彼が言った途端、人々の緊張がさらに増した。
ごくり、と唾を飲み込んだ彼らは、完全に黙り込む。
もう誰も喋ろうとはしなかった。
重苦しい沈黙が、蜘蛛の巣のように薄暗い部屋を覆い尽くしてしまう。
「あ、リュシフィンにはならないから。そんなに固まらないで」
七都は明るく言ってみたが、彼らはますます硬直するばかりだった。
どうしよう。
挨拶しようと思ったのに。
にこりともしてくれない。
七都は、戸惑った。
彼らがここでしていたこと。
このテーブルの様子からすると、どうやらゲームをしていたらしい。
酒のグラスを傾けながら、おもしろおかしく、笑い合って。
金貨があるということは、お金も賭けていたのかもしれない。
ここに来たのは、場違いだったかな。
七都は、思う。
お酒にギャンブルだもの。
わたしは未成年だし。
元の世界だったら、こういうところは出入り禁止だよね。
紛れ込んでいることが学校にばれたら、停学をくらってしまう。
彼らに対して、次にどういうアクションを起こしたらいいものか。
七都が少しでも動いたら、ぱああっと一目散に逃げてしまう。そんな緊張感を抱いているのに、実は逃げられない。そんな危うい雰囲気を持つ彼らに?
七都は、途方に暮れる。
「……それで、姫君。御用の趣は?」
彼らの中のひとりが言った。
開き直ったような、しっかりした口調だった。
このままでは、埒が明かない。そう判断したので、仕方なく自分が代表で発言をしました。
そう言いたげな、どこか意を決した、けれども、気だるげな雰囲気をたっぷりと含んだ口調だ。
ただ、その声は少し震えているようでもある。
「御用? その、もちろん、挨拶……だけど?」
「挨拶……?」
(挨拶?)
(挨拶ですって?)
(挨拶……!)
『挨拶』という言葉がささやき声になって、彼らの間をさざ波のように渡って行く。
「だって、わたし、この城に到着したばかりなんだもの。ここに住んでいる人たちに挨拶するのは当然でしょ。なんか、ここの人たちには、わたしのほうから会いに行かなきゃなんないみたいだし」
彼らは、ぽかんとした表情で七都を見つめた。
やがて、七都に質問した若者が、再び言った。
「それだけですか?」
「……それだけ……だけど」
何だろう。挨拶だけではいけなかったのだろうか。
七都は、居心地の悪さをさらに感じてしまう。
「と、とにかく、よろしくね。わたし、いつもは別の世界にいるんだけど、時々この城に戻ってくると思う」
七都が言うと、人々はぎこちなく頭を下げた。
魔貴族の優雅な挨拶とは程遠い、簡単すぎる挨拶だった。
七都が先輩や近所の人に挨拶するときでも、もっとにこやかに、深く会釈するかもしれない。
「では、御用がお済みでしたら、我々は、我々の生活を続けさせていただいてもよろしいですか?」
みたび、若者が七都に訊ねる。
「も、もちろん。どうぞ」
七都が答えた途端、扉の向こうから聞こえたあの喧騒が、再び始まった。
人々は酒の入ったグラスを手に取り、ゲームが再開される。濃い化粧の女性たちは、男性たちの腕にしなだれかかり、笑い声が次第に大きくなって行く。
ゲームの駒の金属的な乾いた音、明るくはずんだ話し声、女性たちの溜め息。そして、それらを包み込んで、一つの閉じた世界を作り上げているような、オレンジ色の照明。
七都とナチグロ=ロビンは、彼らの世界からは、完全にはみ出て、無視されていた。
まるで幽霊か透明人間にでもなったような気分で、七都は彼らを眺める。
やはり、未成年はこういうところにいるな、ということなのだろうか。
それにしても、この無視のされ方は、寂しすぎる。もう少しフレンドリーにしてほしい、などというのは、無理な要望なのだろうか。
ナチグロ=ロビンが、七都の袖を引っ張った。
「行こう、七都さん」
「え? あ、うん……」
二人は扉を開けずに、扉自体を通り抜けて、廊下へ出た。
扉を抜けるとき七都は、後頭部あたりに集まる彼らの視線を痛いくらいに感じた。
「ねえ。あの人たちって……」
「ルール違反なんだよ」
ナチグロ=ロビンが、独りごとを言うように呟く。
「ルール違反?」




