第3章 風の城の住人たち 1
「ドレスアップも終了したし、じゃ、下に降りようか、姫君」
ナチグロ=ロビンが、鏡を念入りに覗き込んでいる七都を半ばあきれ顔で眺めながら言う。
「うん。案内してくれる? この城に住んでいる人たちのところへ」
七都は、ナチグロ=ロビンに手を伸ばす。意識的に姫君らしく、優雅でかわいらしい仕草になるように気をつけながら。
ナチグロ=ロビンは、はいはいと言いたげに、七都の手を取った。
「住人たちか。やっぱり、会うの?」
「会うよ。もちろん」
七都が答えるとナチグロ=ロビンは、はーっと溜め息をついた。
「会わせたくないの?」
「だから。今の七都さんには無意味な連中だと思うんだけど」
「今の七都さんって何だよ?」
七都は彼を睨んだが、彼は七都の視線を避けて、目を宙に漂わせた。
「また、とぼける!」
「さ、じゃあ、行こうか」
ナチグロ=ロビンは、花模様の床を見下ろす。
「ここを通り抜けて行こう」
「通り抜け……あっ!」
床が透明になり、盛り上がった。
正確には、七都たちが床にめりこんだのだ。
床は、大きな波のように七都とナチグロ=ロビンを飲み込んだ。
「気持ち悪……っ!」
「抵抗しようとしちゃだめだよ。無心になること。何も考えずに、楽にして。すぐに慣れる。こういう魔力も、使えるようにならなくちゃ」
ナチグロ=ロビンが言った。
それは、幽体離脱したときに体験した移動の仕方に似ていた。
番人のあの若者に、扉の前から風の城の庭園へと移されたとき。そして、母のいる、時の魔王の宮殿らしき場所から、ナイジェルの部屋へと移動したとき。
けれども、あの時は生身ではなかったので、気分の悪さなどは感じなかった。
七都はナチグロ=ロビンの手をしっかりと握りしめながら、流れに身をゆだねた。
さまざまなものが、影絵のように、あるいはモノクローム写真のように、色が抜け落ちて通り過ぎていく。
どこかの部屋、テーブル、椅子、シャンデリアの下がった広間……。
人気は全くなく、その多くは、寂しすぎるくらいにぽっかりと開いた、無機的な建物の空間だった。
やがて、天井の高い広い部屋が現れる。幾つにも仕切られた壁のような棚には、何かがぎっしりと詰まっていた。
七都は、通り過ぎて行くその薄暗い部屋の中で、熱心に何かを見ている少年の白い横顔をはっきりと見た。
七都とナチグロ=ロビンは、広い廊下に降り立つ。
廊下には、珊瑚色のなめらかな床が広がっていた。
装飾の美しい四角い窓と扉が、無数に奥へと続いている。
「男の子がいたの!」
足が床に着いた途端、七都は待ちかねたようにナチグロ=ロビンに言った。
「男の子?」
「あなたぐらいの歳の男の子。薄暗い部屋で何かを覗き込んでた。あれは何の部屋?」
「ああ、あれは図書館だよ」
ナチグロ=ロビンが答える。
「図書館? じゃあ、あの子、本を読んでたんだ」
「そういえば、いるね、ひとり。図書館に住み着いているのが」
「住み着いてる? 図書館に? あの子にも会いに行っていい?」
「あいつにも会うのか」
ナチグロ=ロビンが、うんざりしたような表情で呟いた。
「当然でしょ。彼もこの城の住人なら、会いに行くよ」
「あいつ、愛想が悪いからな。あまり七都さんには会ってもらいたくないんだけど」
「愛想が悪い……って……」
七都は、ナチグロ=ロビンを穴の開くくらい、じとっと見つめる。
ナチグロ=ロビンは、その視線に気づいて、やけ気味に言った。
「どうせぼくは愛想が悪いよ。そのぼくが愛想が悪いって言うんだから、かなり悪いってことだよ」
「自分で言った……」
七都は、笑いを噛み殺した。
「いいよ。愛想が悪くても。とにかく、あの子にも会っとかなくちゃ。挨拶しとかなきゃね。それに、図書館にも行ってみたいし。でも、わたし、この世界の文字が読めないから、図書館に行っても仕方ないかな」
「七都さんが読める本は、たくさんあるよ。本は、字が詰まってるだけのものじゃないんだよ」
「そうだよね。絵本とか、写真集とかね」
この世界に絵本や写真集があるのかどうか定かではなかったが、七都は例をあげてみる。
「しこたまあると思うね」
「あるんだ」
「図書館だからね」
二人は、珊瑚色の樹脂を塗り込めたような、きれいな床を歩き始めた。
太陽はいつの間にかかなり傾いて、窓から射し込んだ光が、斜めに変形した窓を映している。
ナチグロ=ロビンは、床に並ぶその窓の格子から格子へ、ぽーんぽーんと黒猫のしなやかさで飛び移って行く。
やがて廊下の隅に、床の珊瑚色と壁の白以外のものが存在していることに、七都は気づいた。
そこには、誰かがうずくまっていた。
豪華でカラフルなドレス、派手すぎる装飾品。
もちろん、見覚えがある。あの女性たちの中の一人だ。
彼女は頭を抱えるようにして、廊下の端に座り込んでいた。
「どうしたのかな。具合でも悪いんじゃ……」
彼女のところに駆け寄ろうとする七都を、ナチグロ=ロビンが、通せん坊をするように手を伸ばして制止した。
「ほっといたほうがいいよ。彼女には近づかないほうがいい」
七都は再び彼女を眺めたが、やはり、力なくうずくまっている。
尋常ではない。何かが彼女に起こったのだ。
「何でそんな冷たいこと言うの? あの様子じゃ、具合が悪いに決まってるじゃない」
「そりゃあま、具合は相当悪いだろうけどさ。……あ」
七都はナチグロ=ロビンの手をくぐり抜けて、彼女に近づいた。
やはり、かなり悪いようだ。体に生気が全くない。
うら若い女性のはずなのに、うずくまっている彼女は、衰弱した老人のような雰囲気を持っていた。
「どうしたの? だいじょうぶ?」
七都は、彼女に声をかける。
彼女は顔を覆ったまま、肩をびくりと動かした。
女性たちの中の一番若かった少女だった。あどけない笑顔を七都は思い出す。
けれども、今の彼女は笑顔どころではなかった。体の不調を抱え込むようにして、うずくまっている。
「あ……あ……。姫さま……」
少女が、かすれた声で言った。弱々しい、か細い声だった。
「姫さま……。見ないで。わたしを見ないで……」
「え……?」
手の甲まで覆ったレース模様の袖。そこからにゅっと突き出している異様に細い指は、どす黒い枯れ枝か、虫の足のようだった。
震える指が顔から少し離れ、少女は七都を見上げる。
七都は、思わずあとずさった。
そこにいたのは、少女ではなかった。
七都が記憶していた、あのあどけない笑顔の少女――。
その面影は、どこにもない。
そこにうずくまっていたのは、あの少女が身に付けていたドレスと装飾品をまとった、見知らぬ老婆――。数百年の歳を経た、ミイラのような老婆だった。
ああ、見たことがある。
知ってる……。これと似たような姿を……。
七都は、老婆の顔の皺の奥からかろうじて覗く、悲しいくらいに透明な青い目を見つめ返した。
その目だけは、あの少女だった。
やはりこの人は、あの少女なのだ。
シャルディン……。
ジュネスに魔力を吸い取られて、ピアナの花畑に横たわっていたシャルディンと同じだ。
そして、極端なくらいに容姿が変貌した彼女の状況は、シャルディンよりも、はるかに酷い。
じゃあ……。
じゃあ、彼女は、シャルディンと同じ……?




