第2章 天辺の部屋 8
ナチグロ=ロビンが持ってきてくれた沢山の瓶のおかげで、七都の髪は、見惚れるくらいの艶のあるなめらかなさらさらヘアになり、肌も、よりしっとりと潤った。
香水をつけると、甘い花の香りが体全体に匂い立つ。
化粧などをしなくても、衣装や宝石の華やかさに七都自身がかすんでしまう、ということはなさそうだった。
目は、どの宝石も太刀打ちできない、魅力的な透明なワインレッド。唇も妖しく艶めいて、肌も真珠のように光り輝く。
あのジエルフォートの城の水槽のおかげで、七都の体はまだエディシルに満たされ、怖いくらいに美しかった。
七都はドレスを着ようとしたが、途方にくれてしまう。
魔神族のドレスは、もちろん、ファスナーを下げて足を入れ、それからまたファスナーを上げればいい、という類のものではない。
さらに、七都が着ようとしているドレスは、背中が複雑な造りになっていた。
絵の中の少女はショールを羽織っているので、背中の状況がどうなっているのかは、全くわからない。
ドレスの後ろには、たくさんのリボンが絡み合って下がっている。
どうやら、リボンを引っ張って背中に固定させ、それから結ばなければならないらしい。
今までドレスは、すべてゼフィーアやアーデリーズの屋敷の侍女たちが着せてくれた。あるいは、目が覚めると新しいドレスに取り替えられていた。
けれども、今回は自分で着なければならないのだ。
七都は鏡の前で、ドレスに足を突っ込んだまま、固まってしまう。
「うう。着かたがわかんない……」
すっと、誰かが七都の背後に寄り添った。
リボンの端が手際よく重ねられ、背中が閉まっていく。
「あれ?」
ベッドに寝転んでいたナチグロ=ロビンが消えていた。
「ロビン?」
振り返ると、少年の姿に戻ったナチグロ=ロビンが真剣な顔をして、七都の背中のリボンを引っ張っている。
「ほら。動かないで。じっとしといて」
作業を続けながら、彼が言った。
「あのね。お姫さまのドレスは、ひとりで着られないようになってるの。侍女がいることが前提で作られてるんだからね。これもそう」
「ありがとう……」
相変わらず愛想が悪くて生意気だが、やはり彼は、何かと頼りになる。
あっち向いてて、なんて言ったりして、悪かったかな……。
鏡のそばにはいつの間にか、例の絵もさりげなく置かれていた。もちろん手本にするためだ。絵の中の少女の衣装をそのまま身につけるのだから。
七都は、彼に感謝する。
「まったく、なんでぼくがこんなことをしなきゃならないんだよ? 侍女の役まで? さっさと侍女を連れてきてほしいんだけど。女官でもいいけどさ。誰もいなかったら、七都さん、これからかなり不便だぞ」
ナチグロ=ロビンが、ぶつくさと文句を言った。
それでも彼の手はよどみなく、七都のドレスを美しく仕上げていく。
「侍女に女官ね……。探さなきゃなんないね」
ラーディアみたいなしっかりした女官が、ここにもいてくれたらいいのにな。話し相手にもなるし。
七都は、ちらっと思った。
エルフルドさま、誰か紹介してくれないかな。
「ね。ロビーディアンなんとかかんとか」
七都が話しかけると、ナチグロ=ロビンは、少しむっとした様子で訂正した。
「ロビーディアングールズリリズベットティエルアンクピエレル!」
「覚えられないって。ねえ。ロビン。私の側近にならない?」
「側近?」
ナチグロ=ロビンが乱暴にリボンを引っ張り、七都は思わず飛び上がった。
「そうか。あなたはルーアンの側近なんだっけ。あなたのご主人は、ルーアンなんだよね。無理なお願いかな」
「ルーアンには、七都さんのそばにいるように言われた」
ナチグロ=ロビンが、ぼそっと呟く。
「あ、じゃあ、側近になってくれる? 侍従長とかどう?」
「だめだよ」
「なんで?」
「ぼくは、下級魔神族だから。グリアモスが王族の側近なんて、土台無理な話だ。侍従長だって? 夢だね、そりゃあ」
「なんでそんなこと言うの? 夢じゃないよ。ここにはうるさく言う人はいないでしょ。王族も魔貴族も、みんな消えちゃったんだから。ルーアンは臣籍になってるし、王族は今、わたしだけなんだよ。わたしがそうしたいって言えば、誰も反対出来ない」
「他の都の魔貴族や王族に、七都さんが笑いものになる」
「そんなの構わない。外野なんてほっとけばいい」
ナチグロ=ロビンは、リボンを結んでいた手をぴたりと止めた。
「ぼくは七都さんを扉の前で置き去りにしたんだよ。ここに来るまでに相当ひどい目にあったはずだろ。ぼくを恨んでないの?」
「そりゃあ、多少はむかついたけど。あなたにはあなたの考えがあってそうしたんでしょうし。じゃないの?」
「……風の王族の成人式だよ」
ナチグロ=ロビンが言った。
「え?」
「異世界にたったひとり置き去りにされる。そこから無事に生還すれば、王位継承権を有する一人前の王族として認められる」
「それが、風の王族の成人式?」
「美羽さんも、それで異世界……つまり七都さんの世界に行ったんだ」
「お母さんも?」
「ルーアンは、ただひとりの王族である美羽さんにそんな危険なことをさせるのは反対みたいだったけどね。美羽さんは、自分から望んで異世界に行った。美羽さんは、子供の頃から冠をかぶってたんだけど、真の風の魔王になるためにね。結局美羽さんは、それがきっかけで、その異世界に入り浸ることになる。で、後にそこで、央人さんとも出会うことになっちゃうわけ」
「じゃ、お母さんがその成人式を受けなかったら、わたしは生まれてなかったってことだね」
七都は、小さく呟く。
「ルーアンは、七都さんに対しても、そういうことを行うのは気が進まないみたいだった。だから、勝手にぼくがしゃしゃり出たんだ。七都さんは異世界で生まれて育ったから、逆にこの世界で置き去りにする必要があった」
「やっぱりそれは試験だったんだ。わたしはそれにパスしたんだよね? 風の王族の昔からのしきたりの試験に」
ナチグロ=ロビンは、七都の後ろで頷いた。
「じゃあ、一人前の風の王族として胸を張れるね。ロビーディアン、侍従長になってくれる? ルーアンにも文句言わせない」
「無理だよ……」
ナチグロ=ロビンが呟いた。
「なんでよ」
「ぼくは下級魔神族の分際で、自分の判断で王族の七都さんにそういうことをしたから」
「罪悪感を持ってるの? いいよ、気にしなくても。あなたを許します。だから、わたしの侍従長になりなさい」
「断る」
ナチグロ=ロビンが、いつもの調子でそっけなく言う。
「……意固地だね」
「勘弁してよ。それに、そういう名前で縛られるの、いやだから」
ナチグロ=ロビンは、再びドレスのリボンを結び始める。
布の締まる、しゅっという心地よい音が部屋に響いた。
「はい、ドレスは出来上がりだよ」
七都は、鏡の前でくるりと回ってみる。
背中には幾つものリボンが、かわいらしく留まっていた。
「ロビンって、意外と器用なんだ。猫になってるときは、全然わからなかったけど」
「あの手で、どう器用になれってんだよ。はい、次は装飾品」
ナチグロ=ロビンは、絵の中の少女の衣装通りに、上から順番に七都にアクセサリーを付けていく。
ネックレス、イヤリング、ブレスレット。
そして最後の仕上げとして、ヘッドドレスを七都の髪に留めつけた。絵を参考にして、少女が付けているのと全く同じ位置に。
七都はケープ形のショールを羽織り、鏡を覗き込む。
絵の中と同じ少女が鏡の向こう側に立って、七都を見つめ返していた。
もちろん、アクセサリーは代用品なのでデザインは多少違うが、少女に寄り添う若者の目と同じ色の宝石がそこにはめられ、輝いていた。
そのせつなくなるような水色は、絵の中と全く同じだ。
「素敵! でも、怖いくらいに似てる。絵の中の女の子が、本当にわたしじゃないかって気がする。いつか昔、こういう絵をルーアンに描いてもらったんじゃないかって……」
七都は、ルーアンが絵を描いていたはずの場所を眺めた。
微笑みながらキャンバスに向かい筆を動かすルーアンが、一瞬、見えたような気がした。
遠い過去に流れ去った時間の軸。場所の軸はこれからもずっとそのままなのに、もうその二つは、重なり合うことは二度とない。
けれども、それをほんの少しだけ、別の時間の軸からなぞってみる。
彼女と似ている自分が、彼女のドレスを着ることによって。
「ほら、こうやって、ここにこんな感じでね……」
七都は、絵の中の少女が立っていた位置に移動して、少女と同じポーズをして見せる。
何もない窓に向かって手を伸ばし、振り返って微笑んでみたが、彼女のような、どこか不敵でわがままっぽい、しかも気品に溢れる微笑みをするには、少し無理があった。
やはり、姫君としてのキャリアは、とても彼女には及ばない。
たとえ彼女と似ていて、彼女と同じ衣装を身につけ、彼女と瓜二つになったとしても。
彼女とは積み重ねた時間が違うし、経験も全然違う。もちろん性格も、まるっきり違うのだ。
彼女は生粋の魔神族のお姫さまだが、七都は半分人間。生まれて育ったのも、ここではない異世界。感じ方も考え方も、全く違う。
そう、わたしはわたし。彼女じゃない。
同じ衣装を着ても、あなたにはなれないし、ならないよ。
絵の中の少女は、<そう? それは残念ね>とささやいているかのように、七都に微笑んだ。
そして彼女は、七都とよく似た赤い眼で、七都を見つめる。
<でも、そんなにあなたは私にそっくりなのだから。あなたの体の中に私の意識が入れば、あなたは私になるんじゃなくて?>
ぞくりとするものを背中に感じて、七都は絵から後ずさる。
絵の中の少女の目が、妖しくきらっと光ったような気がした。
そして、そういう言葉が絵の中から聞こえたように思えた。
思わず彼女の視線から逃れようと顔をそむけたそのあたりに、何かの気配を感じ、七都は総毛立つ。
誰かが……いる?
この気配は……。
番人の魔王さま?
来てるの? ここに……?
もちろん、そこには何もなかった。
掃除が終わって、見違えるようにきれいになった古い部屋の光景。それ以上のものは何もない。
けれども、あのナイジェルによく似た淡い青色の目が、確かにそこから静かに注がれている――。
七都は、そういう感覚を消し去ることが出来なかった。
生身に戻ってしまった七都には、もうおそらく彼の姿は見えない。
だが、彼がいつも風の都のどこかにいるのなら、七都が帰ってきたことに気づいて、この城に来ていないとも限らない。
いや、彼が七都の様子を見に来るのは、当たり前というべきだろう。
ナイジェルを覗きに行っているという彼が、ごく近くにいる七都を覗きに来ないわけがないのだ。
そして、この部屋にやってきた彼は、自分の恋人の衣装を七都が着ているのを見て、どう思うだろう。
恋人とそっくりに仕上がった七都を見て、何を感じ、何を考える……?
彼は、今は冠をしていないとはいえ、かつては魔王だったのだ。
幽体離脱をしていても、強力な魔力を使えるかもしれない。
「どうしたの、七都さん?」
「わたし、この衣装を着るべきじゃなかったのかな……」
七都は、思いつめたように、弱々しく呟いた。
「え?」
ナチグロ=ロビンが、首をかしげる。
「なんで? とてもよく似合ってるよ。古いドレスだけど、素材がいいし、他の都への外出にも充分使えそうだよ」
「……そうだよね。あなたが苦労して着せてくれたんだものね。ごめんなさい、変なこと言って」
七都は、無理やり微笑んだ。
「悪いけど、その絵、クローゼットの中に片付けてくれる? なんだか怖くなった」
「いいけど。ま、夜中に見たら怖いかもね」
ナチグロ=ロビンは絵を裏向け、それから、慣れた様子で指を鳴らした。
途端に絵は、そこから掻き消えてしまう。もちろん、クローゼットの中にしまわれたのだ。
七都は少女の目から開放されたことに、ほっとする。それと同時に情けなくもなった。
さっき自分は魔神の姫君だって、ナチグロに向かって言ったところだというのに。
魔王の娘で、次期魔王候補で、使いこなせていないとはいえ、潜在的に強い魔力も持っている。
さらには、様々な恐ろしい目に遭いながら旅を続け、この城までたどり着いたというのに。
その魔神の姫君が、絵を怖がるなんて……。
第一あの絵を描いたのは、どこかの得体の知れぬ画家ではない。ルーアンなのだ。
それでも、一度感じてしまった不安は、簡単には拭い去れなかった。
七都は、カーラジルトが聞くと、きっとこけそうになる……たぶん、こけてしまって再起不能になりそうなセリフを、ナチグロ=ロビン向かって言った。
「ね、ロビン。今夜、わたしと一緒に寝て」
「はあぁぁっ!???」
ナチグロ=ロビンが、七都のセリフを聞いて、すっとんきょうな声を上げる。
カーラジルトに「一緒に寝よう」と言われて七都が叫んだのと同じようなシチュエーションだ。
もっとも、今回そのセリフを言い放ったのは、七都のほうだったのだが。
七都は、あんぐりと口を開け、わなわなと震えそうになっているナチグロ=ロビンに、慌てて説明にかかる。
「ち、違う。そういう意味じゃない。今のあなたの姿じゃなくて、猫になったあなたに一緒に寝てほしいのっ」
「猫……ね」
ナチグロ=ロビンは、納得したように呟く。
本気で安堵したらしかった。逆立った髪が元に戻る。
「だよね。七都さんが、そんなこと言うはずないもんね。あー、びっくりした。一瞬、発情したのかと思っちゃった。でも、なんでまた? ホームシック?」
「なんだかこの部屋、怖いんだもの。ひとりで過ごすには。きっと今夜は怖くて眠れない」
「やっぱり、呪われた部屋? いいよ。ぼくは、冬のとても寒い晩にしか、七都さんのベッドには入らないんだけど」
「ごめんね。そういうの、あまり好きじゃないんだよね。枕元とか、ううん、足元でもいいから」
「ラジャー」
ナチグロ=ロビンは、おなじみのポーズをして見せた。